みーちゃんが死んだ

糸冬

みーちゃんが死んだ

母の電話はいつもでたらめで要領を得ない。

いつも自分の聞きたいことだけを聞いて、話したいことだけを話して勝手に切る。

まるで嵐のようだと思う。

きっと必要な情報の取捨選択、物事の優先順位の付け方、根本的な価値観がそもそも私とは合わないのだ。

日曜日の朝。手に持ったスマートフォンが母からの着信を知らせるのを見た私は、心の底から居留守を使いたいと思った。

こういう時、携帯電話というのは不便だ。基本的に常に携帯している上に着信履歴が残ってしまうので後でかけ直すという先延ばしコマンドはあっても、在宅していなかったので電話があったこと自体を知らなかったというコマンドが使えない。

母と話した後はいつもどっと疲れるけれど、後でかけ直すのは相当な精神的エネルギーを消費するので私は意を決して通話ボタンを押した。

「もしもし、あんたお正月は帰ってくるの?」

いきなり本題。時候の挨拶から始めて欲しいとは言わないけれど今話しても大丈夫?くらい聞いて欲しいものだと辟易しながら、私はそんな母の大雑把でガサツな所を好ましくも思っている自分に気が付く。

「うーん、まだ分からないかな。一応帰ろうとは思ってるけど」

「あらそうなの。いつ帰ってくるの?」

「まだ仕事納めがいつになるか分からないからまた連絡するよ」

「あ、そういえばお向かいの牧野さんちの瞳ちゃん、結婚して赤ちゃんが生まれたそうよ」

突然話題が変わり面食らったが、これはいつものことなのでさして気に留めず「へぇ瞳ちゃんが?」と平坦な相槌を打つ。

瞳ちゃんは私より五歳年下で私が通学班の班長だった時に一年生だった。あんなに小さくて可愛かった瞳ちゃんが結婚して母親になるなんて私も歳を取るはずだ。しかし、一般的に二十五歳の女性が結婚出産するのはありふれたニュースである為、私の反応は極めて薄い。

「あんたも良い人いないの?」

「いたら良いねぇ」

良い人、というのが結婚相手に丁度良い人という意味なら答えは否だ。でも一応、将来を全く考えられない彼氏ならいる。

「あんたももうすぐ三十なんだから良い人捕まえなきゃダメよ。孫の顔見せてよね」

「善処しまーす」

すっかりいつもの早く結婚しろ孫の顔見せろコースに入ってしまった。防戦一方で手持ち無沙汰になってしまった私は手帳を開き、架線のページに落書きを始めた。

母からの電話はこちらから切ってはいけない。

母が話したいことを全部話し切って「じゃあもう切るからね」と言うのを辛抱強く待たなくてはいけない。

「そういえばみーちゃん、先月亡くなったんだって。あんた仲良かったわよね」

「……え?」

呑気に記憶を頼りにキティちゃんを描いていた私の心臓はみーちゃんの突然の訃報を聞いて早鐘を打った。キティちゃんとは似ても似つかない不気味な化け猫の髭が醜く歪む。

「え、亡くなったって、死んじゃったってこと?どうして?」

「嫌だあんたも何も聞いてないの?お通夜もお葬式も身内だけだったみたいよ。何か理由ありかしらね」

「ごめんお母さん、私切るね。みーちゃんに電話しないと」

そう言って震える指で終話ボタンを押してから、私は自分が思っていた以上に動揺していることに気が付いた。

みーちゃんが死んだ。


* * *


みーちゃんとは幼稚園からの幼なじみで高校でみーちゃんが私立の女子高に行くまで、私達はいつも一緒だった。

私とみーちゃんは親友で恋人だった。

中学二年の冬から卒業まで、私達は付き合っていたのだ。

性別に関係なく、恋愛感情と友情がきちんと分離していない年頃というのはある。

「亜梨沙のことが好き。誰にも渡したくない。大好きなの」

お揃いのチェックのマフラーに鼻まで埋めて怖いくらい真剣な眼をしてみーちゃんはそう言った。

今になって思えば、私の好きはみーちゃんと同じ好きでは無かったと思う。

でも当時の私にはみーちゃん以上に大切で好きな相手なんていなかったし、みーちゃんに私以外の恋人が出来るなんて考えたくもなかった。

好きで好きで、たまらなかった。

だから私はみーちゃんからの告白を受け入れ、みーちゃんの恋人になった。

毎日メールして、休み時間手紙の交換をして、時々こっそり手を繋いで一緒に帰る。

付き合ったからといって私達の関係は大きく変わりはしなかった。

大切で大切で大好きだった。

「亜梨沙、私達ずっと一緒にいようね」

「うん、ずっとずっと一緒だよ」

一度だけ、キスをした。

キスしたのはみーちゃんからで、当時みーちゃんがひっきりなしに塗っていたハチミツ味のリップの味がした。

唇を合わせた瞬間のみーちゃんのはにかんだような幸せそうな笑顔を私は今でも鮮明に覚えている。

何故別れたのかはよく覚えていない。

その年代のカップルにありがちな自然消滅というやつだったのだと思う。

別々の高校に行くようになると毎日の日課だったおやすみなさいの電話もメールも途絶えがちになり、最初の内は土日にどちらかの家で必ずお家デートしていたのに、どちらからともなく「部活があるから」と言い訳して会わなくなった。

物心ついてから初めて一ヶ月も会わずに過ごした冬、再会したみーちゃんはまるで別人のように大人びて綺麗になっていた。

高校生になっても色つきリップすら塗っていなかった私はみーちゃんの目にはさぞ野暮ったく子供っぽくみえたことだろう。

でも変わったのは見た目だけで、みーちゃんはみーちゃんだった。

けれど、もう私だけのみーちゃんだとは思わなかった。

その頃になると私にもみーちゃんにも高校でそれぞれ仲の良い友達が出来ていた。私達の世界はもう私とみーちゃん、みーちゃんと私だけではなくなっていた。

私達はもう、毎日電話したりメールすることも、手を繋ぐこともなかった。

そうしたいとは思わなかった。

そんな風にしてあっけなく、私達は終わった。

あんなにずっと一緒だったのにそうなってしまうと途端に気まずくなって連絡しづらくなり、私が大学進学を機に上京すると完全に没交渉になった。誰かの口からみーちゃんの名前を聞いたのも実に十五年ぶりだった。

みーちゃんが死んでしまった。

私の知らないところで。


* * *


みーちゃんは実家の浴室で裸で湯船に浸かり、手首を切っていたのだという。遺書はなかったのだとみーちゃんのおばさんは教えてくれた。

突然訪問したのにみーちゃんのおばさんは嫌な顔ひとつせず「亜梨沙ちゃん、来てくれて嬉しいわ。どうか瑞希に会ってやって」と言って私を仏間に案内した。

遺影のみーちゃんはすっかり大人の女性になっていた。

お風呂のお湯はどれくらい赤かったんだろう。みーちゃんは赤がよく似合ったなと私は場違いなことを考えた。

「突然のことで気持ちの整理がつかなくてね、お骨もまだお墓に入れられていないの」

私が神妙な顔で正座をして不格好に線香を上げ手を合わせると、おばさんは仏壇に置かれていた小さな丸い骨壷に手を伸ばして紅茶とお煎餅と蜜柑が置かれているテーブルにみーちゃんを置いた。

「おばさん、中を見てもいいですか?私もまだ実感が湧かなくて」

私の突拍子もない不躾な申し出をおばさんは快諾してくれた。

つるりとした白磁の骨壷の蓋を開けると、中には粉骨された遺灰が入っていた。

「……みーちゃん、久しぶり。何かちょっと雰囲気変わったね」

私がそう言うが早いか紅茶のソーサーに添えられたティースプーンで遺灰をすくって口に含むと、おばさんは呆気に取られたような顔で私を見た。

途端に噎せそうになり、私は慌ててまだ熱い紅茶でみーちゃんを流し込んだ。

焼けるように喉が熱く、飲み込みきれなかった遺灰が口の中に残って喉越しは最悪だった。私が口を押えて激しく咳き込むと、おばさんは黙って私の背中をさすってくれた。

紅茶とみーちゃんが器官に入ってしまい、苦しくて苦しくて涙が出た。

みーちゃんが死んだ。

これで私達は、ずっとずっと一緒だ。


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みーちゃんが死んだ 糸冬 @ito_fuyu_owaru

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