#弟の日

夢美瑠瑠




 私は、ただの障碍者で、当然「自分」というものについては葛藤がある。


 「自分」が「自分」であることは受け入れざるを得ないが、受け入れられない何かしら割り切れなさ、もやもやした気分が残ってしまうのはどうしようもない。


 極端に言えば、「エレファント・マン」という映画があったが、主人公が自分を受け入れられずに悩んでいることは、不憫ではあるが?まあ当然でしょうがない。「自分の母親が象に襲われて、そのせいで畸形になった」という神話?をエレファント・マンは信じているのだが、真偽はもちろん不明で、それは一種の荒唐無稽な「信仰」で、それで彼は自分をどうにか保っているのだ。


 自分がなんだか適応が悪くて、世の中に居心地が悪い、精神を病んでいたり、どこか障害があるタイプの人には共通のこうした悩みがあって、いろいろな手段を講じてそれをごまかしているものだ。


 読書したり、スポーツしたり、ヨガをしたり、新興宗教に帰依したり…


 ごまかしきれずに逃避してアル中になったり、ODしたり、果ては自殺する。別に珍しいことではなくて、古今東西に普通にある現象です。現実です。


 「精神」というものがあって、自分を客観的に見つめて、他と比較したりするということができる。それが人間の人間たるゆえんですが、そうするとそれゆえの様々な悩みが生じて…


 人生の星霜を得て、結果出来上がった今の自分の性格や個性はどうしようもないが、それをできるだけ過不足なく、精確に理解して把握して、他者との関係とか様々な現実も、そこから演繹帰納しつつ、寧ろ「科学的な」冷静さで同定すること… いわゆる「汝自身を知れ」と、ソクラテスが言ったというのも、そういうことではないのか?


 そこに齟齬や迷妄?誤解、その他の錯誤が生じてきた時が、本当の病というか、逸脱で、通用する形で自他を、世界と自分との関係性を適当に認識できていることが肝心なのだと思う…読書やそのほかの自己研鑽、精神的な修行というのか、だんだんに大人になり、人格的に完成していくというのも、だからそうした自分との葛藤を解決していくことで、普遍妥当な自己認識を確立していく…そういうプロセスなのだと思う。


 ボクは小さい、なんだかメソメソした「弟」…もちろんそこが立脚点、出発点で、完全には逃れられないし、運命とのせめぎあいは死ぬまで続いていくだろう。


 が、そのいわゆる「アリョーシャ」、「ムイシュキン」の哀れな幼児が、「風に吹かれて」というボブディランの歌にあるような、普遍的な「男」になっていくような、そういうところが人間の尊厳であって、障碍者だから、そこであきらめたりいたずらに卑下ばかりして自分をダメにしていってはなんというか人間という存在自体が自家撞着である、というようなニヒリスティックなシニシズムの陥穽?に嵌る。


 従来の自分はそこで終わっていたのだ…が、底を打ったところから雄々しく立ち直っていかなければ、立ち直っていくことこそが「人生」の本義なのだと思います。


 生半可だが、かよわい「弟」も、そろそろに「徒弟」「丁稚」を卒業して、「雄渾」な「志士」となって、「兄事」「師事」されつような人物に段々になっていきたいと思います。




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