第45話 知りたかったこと




 これまで黙ってただ戦況を見守っていた哲也。おそらくもう十分すぎる証拠を、こちらが握っているのはわかっているはず。

 目に見える罰則である慰謝料戦果より、絢子が目には見えない「理由真実」が知りたい。それを差し出そうとする哲也に、絢子は向き直った。みのりと弥生が、寄り添うように絢子の隣で表情を引き締める。


「……真実を話して」


 大きく息を吸い込んでから一言伝えた絢子に、哲也はただ頷いた。

 

「わかってる。絢子のことだからもう全部、知っているんだろう?」


 絢子は頷いてまとめあげた不貞の証拠を、無言で哲也に突きつけた。手にとって中身を確認した哲也が、一瞬だけ泣きそうに顔を歪めた。


「ここまで……ははっ……やっぱり絢子は本当に完璧だ……」

「知りたいの。何が不満で私を裏切ったのか……努力していたつもりだった。良い妻であれるように。こんな裏切りをされるほど、何が不満だったのか、私にはわからない……」

「不満? 絢子に? 絢子はいつだって完璧だ。不満なんか一つもないよ。俺が出会った女の中で、絢子が一番完璧だった。だから俺は絢子と……」

「嘘よ! こんな地味な女、哲也さんに相応しくないでしょ? とっくに奥さんに飽きて嫌気がさしてる! だから哲也さんは私と……」


 哲也の声を遮るように、由衣が媚びた視線を縋らせる。哲也を憐れむような眼差しの由衣に、哲也は冷ややかな軽蔑を向けた。


「本当にどうしようもないバカ女だな。どれだけ言葉でも態度でも伝え続けても、嫌悪しか感じないと理解しようとしない」

「哲也さん……? 哲也さんだって……」

「お前が絢子に勝てるとこなんて一つもない。良い加減現実見ろよ」

「そん、なわけ……!」


 憎悪すら感じる冷たさに、由衣が声を震わせる。淡々と由衣を罵倒する哲也に、絢子は弥生とみのりを振り返る。二人も表情に困惑を浮かべていた。理解できないのは絢子だけではない。そのことに少しだけホッとした。

 哲也の由衣に対しての嫌悪は、この場を納めるための見せかけではない。甘えられる年上が好きで、騒がしい女が好きではないのも知っている。でもそんな好みは別としても、絢子は人と比べて突出して魅力的なわけではない。由衣が言うように、地味女なのは間違いないのだ。でも哲也の言葉は本心に聞こえる。

 まるで絢子を価値を認め、高く評価し、心から敬意を払っているかのよう。でもそれならそうまで罵倒する女と関係を持ち、絢子を裏切った理由はなんだったのか。


「……遊びですらないって、どういう意味?」


 由衣に向けたゾッとするような憎悪は、絢子と向き直った途端スッと掻き消えた。濃淡が明確な二面性が、把握できない哲也を不気味に感じさせる。


「そのままの意味だよ。遊びですらない。ただひたすら面倒な作業で、仕事が一番近いかな。一番効率的な手段だった。それだけだ」

「仕事って……」


 真意を掴みかねて、眉を顰める絢子に哲也は小さく微笑んだ。

 

「感謝や金銭なんかより効率的かつ、献身的に勝手に自ら動く。俺と寝たいがために。俺だって歓迎会であの二人が浮気心なんて出さなきゃ、こんなことしなくて済んだ。でも空気は壊せないし、余らせたのがそこそこ使えてるだった。仕方なかったんだ……絢子を思い浮かべてなんとかしたんだ」

「何を言ってるのか……」


 わからない。絶句した絢子に、芽衣が哲也を睨んだ。

 

「それってまんま「色恋」じゃん……」


 顔を顰めている芽衣の横で、愛美が戸惑う絢子に頷いて見せた。


「絢子さん、あのね。色恋管理って言って、ボーイがキャストを口説いたりして、わざと自分に気を持たせたりすることがあるの。そうやって無断欠勤させないようにしたり、舐めた仕事をさせないように上手く操作するために」

「操作って……」

「今そこそこでも使える奴は会社にほとんどいない。一度してやったら、調子づいて時々でも寝てやらなきゃなくなった。それだけでも面倒だったのに、その上直樹さんがおかしなことを言い出して……今度は女達で揉め始めて……」

「……によそれ……何よそれ! 何よそれっ!!」


 涙目でただ呆然と座り込んでいた理香子が、絶叫しながら覚醒し猛然と哲也に掴みかかろうとした。尋常じゃない理香子の様子に、流石に芽衣と愛美が慌てて止めに入る。


「私は! 私は上原くんのために! 誰にも頼れないっていう上原くんのために、全て捨てる覚悟で尽くして来たのに!」

「頼んでないだろ?」

「……え?」

「そうしてくれなんて、俺が頼んだわけじゃない。勝手にやってただけだろ?」

「なん、で、そんなこと言うの……? 上原くんが困ってたから、私……」

「頼んでもないのに勝手にでしゃばって、その上くだらないミスばっかりだっただろ? 絢子だったらそんなミスはしない」

「で、でも、誰も手伝ってくれないから困ってるって……だから私……私、家族よりも上原くんを選んでここに来たんだよ? 上原くんを愛してるから……なのになんでそんな……」

「だからそんなことしろって俺が一度だって頼んだか? 家族より俺を選んだとか、俺のせいみたいに言うな。自分で選んだんだろ? 俺には完璧な妻がいる。勘違いした若作りババアなんて死んでも選ばない。良い加減立場を……」


 つらつらと理香子を貶める哲也。絢子はその横っ面を、平手で思いっきり引っ叩いた。響き渡る音に哲也が痛みにではなく、ショックに呆然と頬を抑えた。


「自分が何をしたかわかってるの!? 何様のつもりなのよ! 一つの家族が! 妻を愛していた男の心が! 二人の子供が犠牲になった! 空気を壊せないなんて、そんな理由での不倫で! 自分は関係ないみたいな顔をするな!!」

「……なんで……家のことを……」


 激昂に荒く息を吐く絢子は、怒りのままに理香子に振り返った。


「旦那さんは不倫に気付いていたんですよ! 旅行までの時間で、もう一度夫婦としてやり直す努力をしていた。旦那さんはあなたが旅行を思いとどまるなら、あなたを許し再構築する努力をしようとしていた!」

「そ、んなわけない……気付いてたなんてそんな……」

「それなのにあなたはここにいる。同情はしません。あなた自らが選んだんですから。最後まであなたを信じようとした旦那さんではなく、こんな男のために家族を捨てることを選んだ。最後の機会を棒に振って、あなたが選んだのはこの現実です!」

 

 ワナワナと震えながら吐き捨てた絢子を、呆然と見上げる理香子にみのりが鋭く声を投げかけた。


「旦那さん、昨日家を出たよ。あんたが絢子さんの旦那さんを愛してるとか言いながら、他の男にも股開いてる時にね。息子さんもそんな母親より、旦那さんと暮らすことを選んだ」


 みのりがカバンからクリアファイルを取り出した。挟んであったコピーをひらりと理香子の前に滑らせる。

 隆史の署名が済んだ離婚届は、親権者は隆史になっている。目を見開いて離婚届を見つめていた理香子が、くしゃりと抱き締めるように顔を埋めて泣き出した。


「……哲也、あなたが壊したのよ? ヘラヘラ笑いながら、あなたが踏み躙った」

「絢子……俺はそうしろなんて言ってない……!」

「なんで私から仕事を取り上げたの? こんなことまでして仕事のサポートが必要なら、なんで会社に残らせてくれなかったの! 私が完璧だって言うなら、認めてくれたらよかったじゃない! こんなことをしなくても私がいたら、助けてあげられたのに……」

「絢子は……だめだ……結婚したんだ。家にいてくれないと……」

「どうしてよ! 家のことだって疎かにしたりなんか……」

「妻が家庭を守ってこそ、完璧な夫婦なんだ! 母さんだってそうした! 三度のプロポーズでやっと結婚してくれたんだ。一緒にいて俺が苛立たずにいられるのは絢子だけだ。完璧な絢子だから、愛してるから……」


 理解し難い言葉に、絢子は唇を震わせた。


「どう、して……なんでそんなに……」


 完璧にこだわるのか。自分の中の完璧を盲信しているかのような哲也。そうまで完璧にこだわるのに、目の前の面倒を避けるために理香子と関係した。この先より面倒になるとわかっていて。


「絢子のために、俺自身も完璧でいたかったんだ。一番プライベートな家だけは、愛する絢子にしか任せられないんだよ。仕事なんて勝手に寄ってくる女を使えばいい。なあ、絢子。絢子が嫌なら二度と寝たりしない。だから離婚だけは……」


 ああ、やっとわかった。絢子の心にどうしても知りたかったことが落ちてくる。

 高い理想を掲げてそれに邁進する姿が、魅力的で思わず手を貸したくなるような男は、高い理想をそうして差し伸べられた手だけで実現しようとする男だった。

 

「私は……完璧なんかじゃない」


 落ちてきた答えに、熾火のように頼りなく残り続けていた未練が掻き消える。

 

「そんなことない。上手く隠してたのに、俺の浮気だって見事に暴いたじゃないか。絢子は完璧だよ」

「私一人じゃ何にもできなかったわ。みのりさんと弥生さんがいてくれたから、ここまできたの」


 小野田が気づくきっかけをくれて、健人や芽衣達の助けを借りてここまで来た。みのりが、弥生が支え励ましてくれなければ、途中でただ消えることしかできなかった。一人だったら何もできなかった。きっと負けていた。


「完璧な人間なんて一人もいない。だから支え合う。夫婦として友人として同僚として。一方的に支えてもらって、さぞ楽ができたでしょうね?」

「……一方的にじゃない俺だって努力してる」

「そうね。嘘と人を思い通りにすることに、ね。ねぇ、哲也。私が完璧じゃなくても妻にした? 完璧じゃなくなったとしても見捨てずにいれた?」 

「そんなあり得ない仮定になんの意味もないだろ? 現に絢子は今完璧なんだから」

「私は哲也に完璧なんて求めてなかったわ。足りないところはカバーして、辛い時には支え合って。夫婦って補い合って一人前になるんじゃないの?」


 欠けがあっていい、歪でいい。完璧な人間などこの世に存在しないから。むしろ哲也が完璧では無いからこそ絢子は愛した。足りないところに自分が必要だと思えたからこそ。

 

「……そんなの詭弁だ。それぞれが完璧だから、より高みを目指せる。絢子が完璧だから、絢子を選んだんだ」


 即座にそう否定した哲也に、絢子は思わず笑いたくなった。

 

「ふふっ……完璧なんかじゃないじゃない。私一人では足りなくて、他の女が必要になるんだから」

「それは……」

「お互い勘違いしていたみたいね。私も、哲也。あなたもね。あなたが本当に心から愛してるのは私じゃない……いつだって自分しか愛していなかった」

「絢子!」

「私より多数派側を選び続けたのがその証拠。私じゃなくて面倒の少ない方を選び続けた。自分のために……」


 同じ場所を目指して積み上げていると思っていた日々は、最初の一歩のその根本から一度たりとも噛み合ってなどいなかった。

 明るく前向きで、人懐っこく甘えん坊。人をよく見て気遣いのできる好青年。その姿は獲物を捉えるためだった。

 運よく生まれ持った容姿を餌に、何一つ自分で努力しなくていいように。思考をするより甘い嘘をつき、行動をするより思い通りに人を動かす。真っ当な努力をすべき箇所を、全て人任せにするために。極度の完璧主義で、究極の自己中。だからやめよう。だってごめんだから。

 

「あなたの世界を完璧にするための、部品でいるのなんて願い下げよ」

「絢子! 違う! 俺は本当に……!」

 

 哲也の浮気の理由を知りたかった。弥生が直樹の理由を知った時、その時初めて弥生の気持ちを知ることができると思った。知りたかったものはこんなものだった。自分の世界を完璧に維持する。

 そのために人を選別し、踏み躙り、操ることも厭わない。妻でさえ自分の完璧を実現のする部品の一部。完璧でなければ簡単にいらなくなる。そんなものは愛ではない。少なくとも絢子が信じているものではないのは確かだ。


「離婚の手続きは後日、弁護士を通して進めましょう」


 小さくチラチラと揺らいで燻っていた未練はもう消えた。残火すら消え失せて空っぽになった心には、もう怒りも憎しみも悲しみも見つからない。心を揺り動かすのは、相手に向ける情があってこそ。きっと弥生もあの時、こんな気持ちになったのだと今心から理解した。微塵も情が残ってないから、素敵な魔王になれたんだ。

 

「待ってくれ! 絢子……!!」


 哲也の叫びを最後に、勝者のいない戦いの舞台は静かに幕を閉じた。


 

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