第32話 最後の矢印
ピロンとなった通知音に、絢子はDVDを一時停止する。すっかり暗くなっていたことに気づき、電気をつけてからスマホを手に取った。
『ゴミ、本気でうざいんだけど? やたらお腹に話しかけてくる。汚い手で触んなや!!』
『お疲れ様です。長文メールうざいなって思ってましたけど、みのりさんに比べたらすごくマシだって反省しました。顔を見ないで済むの最高です!』
『羨ましくて吐きそう……この作戦、地味だけどしんどい……』
『わかります。精神力が削られますよね』
『ほんそれ』
前回の会合から一週間。隆史からの家庭内プレッシャー、小野田の社内監視、各家庭からの働きかけ。地道な活動は多少の「残業」を増やしはしたが、まだ完遂までは至っていない。
『皆さん、お疲れ様です。弥生さんのおすすめ、面白いですね。でももう見終わりそうなので、次のおすすめお願いします』
『絢子さん、本格的にハマってるじゃん……回避はできてるの?』
『なんとか凌げてますけど、そろそろ別の方法を考えないとダメそうです……』
夫婦生活を迫ってくる哲也をかわすための、DVD作戦は効果覿面だった。起きていられない哲也が先に寝ることで回避できているが、連日になるとさすがに難しくなってくる。
『でも残業はちょっと増えたから、効果は少しずつ出て来てるよね?』
『すごくもどかしいです……』
Xデーまで残り一ヶ月と少し。まだ繋がらない矢印がもどかしくても、できることは多くない。
旅行以降浮気をやめて戻ってくるつもりの家庭を、居心地のいいものにしたいのか、哲也と大地は絢子とみのりに積極的に絡んでくる。直樹は弥生が家を出たのが効いたのか、弥生が転送してくるメールを見る限り、発言に甘みは増している。
小野田は指示通り監視を強化してくれた。理香子はかなり苛立っているようだが、それでも社内で目立つ言動は収まってはいるらしい。内心はどうあれまた三人でランチをするようになったようだ。
ちょっとずつではあるが、効果は出て来ているのだ。今はとにかく我慢の時。ストレスが溜まっているチーム・サレ妻の面々を励まそうとした時、受信の通知が届いた。
『今日、残業で遅くなる。夕飯は大丈夫』
哲也からの連絡に返事をしようとすると、チーム・サレ妻からの受信通知が鳴った。
『緊急連絡! ゴミどもに動きあり!』
『詳細をお願いします!』
絢子は慌てて哲也に返信を返してから、みのりからのメールに飛びついた。一拍遅れて着信音が鳴り響く。
「今、全員集合して移動してるって!」
開口一番みのりが興奮気味に叫び、絢子の心臓がドクンと大きく揺れた。
「全員でですか?」
「うん。念のため緊急招集かけてくれる! 居酒屋潜入組と、尾行待機組で分かれて実況してくれるって!」
「……っ!!」
「だから一旦電話切るね。報告は共有するから!」
「お願いします!」
ついに大きな動きを見せた裏切り者たち。タイムリミットは残り僅か。なんのために集合したのか。裏切り者たちの動向を、チーム・サレ妻は固唾を呑んで見守った。
※※※※※
「……あのさ、呼ばれた理由わかるよね?」
男性陣と女性陣が向かい合って座る居酒屋で、大地が怒りを押し殺した低い声で話し出した。
「あれ以来、経理の小野田さんから注視されてるのも気づいてるよね? 会社であんだけ目立つ言動してたら、誰だって疑うってことぐらい考えられないわけ?」
苛立ちを表すように、髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた大地に、理香子はせせら笑うように声を上げた。
「あら? そうなるのも当然じゃない?
挑戦的に睨みつける理香子に、大地は気まずそうに視線を逸らした。
「それは……! 直樹さんがどうせ旅行に行くんだから、より楽しめるようにした方がって……」
「お、おい! 大地! お前だって……」
流れ弾に直樹が女性陣の反応を伺うようにして、大地を諌めようとする。それを遮るように、哲也が冷たく言い放った。
「嫌なら別れればいい。望む付き合い方ができないなら、別れる。それだけの話だと思うけど?」
「…………っ!!」
衝撃を受けたように直樹と大地が哲也を見つめ、すぐに頷いて目を見開く女性陣を見据えた。
「そうだよな。別に無理に続けなくていいかな。ところ構わず揉めるくらい嫌なら、別の男を探せばいいんすよ」
「哲也の言う通り。セックスなんてスポーツと一緒だろ? 嫌なら他を当たれ。俺らよりいい男が見つかるかは知らないけどな」
直樹が腕を組んでドヤ顔をする。留美が瞳を険しくし、由衣は目を見開いたまま男性陣を見つめている。理香子だけが瞳を爛々とさせ、ギリっと奥歯を軋らせた。
※※※※※
絶えず転送されてくる実況を、緊迫して見守っていたチーム・サレ妻。無言で状況を追っていたが、ここで初めてみのりがメッセージを送った。
『セックスなんてスポーツ……なんかとんでもない
『本っ当にすいません……なんかもう死にたくなるほど恥ずかしいです……』
『弥生さん……なんて言ったらいいか……でも元気出してください』
言ったのが自分の夫だったら。弥生の気持ちを考えると、絢子も居た堪れなかった。
会合の状況は、想定以上に緊迫している。再びチーム・サレ妻は、淡々と送信されてくる実況を、食い入るように見つめた。
※※※※※
「……そう。そこまで言うのね。じゃあ、いいわ。じゃあ、私は池澤くんと寝てあげる。上原くんは伊藤さんね?」
「え……それは……」
困ったように大地が視線を逸らす。だが青ざめて俯いていた由衣は、期待するように哲也を上目遣いで見上げた。真顔になった哲也に、理香子はニヤニヤと笑みを向ける。
「そう言うことよね? 旅行を最大限楽しむために、それが望む関係ってことなんだもんね?」
「あー……でも……」
「別に私だって池澤くんに興味あるわけじゃないの。でも今井さんとはもう寝たから……」
意味ありげに語尾を濁した理香子に、この場の視線が一斉に直樹に集まる。直樹は得意顔をするべきか、気まずげにすべきか迷うような表情をした。理香子は留美と哲也を交互に見ながら、粘りつくような口調でなおも続けた。
「和を乱されたことに怒ったら、嫌なら別れればいいとまで言うのよ? それなら全員で平等に対等になるべきでしょ? より旅行を楽しむために、貴方達が望む関係なのよね? それが嫌なら……」
「……わかった。じゃあ、伊藤さん、出よう」
理香子を遮るように哲也は無感情に言い放ち、理香子を見もせず立ち上がった。断ると確信していた理香子が、衝撃を受けたように動きを止め、同じく戸惑っていた由衣はゆっくりと頬を高揚させて頷くとすぐに立ち上がった。
「じゃあ、俺らはもう出るから。ああ、大地、ちょっと」
哲也は大地に振り返り、呼ばれて慌てて立ち上がった大地に何事かを耳打ちした。大地が嫌そうに顔を顰め、頷くと渋々と荷物をまとめ始めた。そのまま踵を返して由衣と店を出ようとする哲也を、理香子が慌てて引き止めるように声をあげる。
「う、上原くん! 待って!」
「なんですか? 平等なんですよね? これで文句はないでしょうから、会社での言動には今後は気をつけてください」
「上原くん!!」
悲痛な呼び止めにも哲也は振り向かず、赤くなって見上げてくる由衣を伴い店を出ていく。涙目になって哲也に瞳を縋らせる理香子に、大地は深いため息をついた。
「……あー、須藤さん。平等にするためなんで……俺らも行きましょう……」
「……じゃ、留美は俺とだな」
「…………」
無言で成り行きを見守っていた留美が、能天気にヘラヘラする直樹を見つめゆっくりと立ち上がった。直樹と留美が出ていき、
「上原くん……なんで……伊藤さんのこと嫌ってたじゃない……なのに……」
俯いて呟く理香子に、大地はソワソワしながら周りに視線を巡らせた。
「……あー、須藤さん。行きたくないなら、俺は別いいんで、今日はこのまま……」
しばらく押し黙って俯いていた理香子が、
「……行くわ」
短く呟くと急いで荷物をまとめ始める。
「えっ! いや、本当に俺は……」
怒りの形相で歩き出す理香子に大地は慌て、やがて諦めたように肩を落としてその後ろについていく。潜入班はみのりへの報告と、外で待つ尾行班にものすごい速さで伝達を始めた。
チーム・サレ妻は怒涛の展開に絶句しながら、最後の矢印が繋がった報告を受け取る。放心したように画面を見つめ続けていた面々は、みのりからの着信にハッと覚醒して各々通話を開始した。
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