第28話 愛し方、別れ方



「どうして……」

「このまま黙ってんの!? バカにされたまま……!!」

「黙ってるわけではありません」


 ハッと息を飲み表情を固くしたチーム・サレ妻に、隆史は慌てて両手を振った。

 

「あ、いえ。浮気について話すつもりはありません。ただ……私は旅行先に行くことはありません」

「なんで……!!」

「皆さんの計画に口出しはしません……そうするだけのことを、妻はしようとしている……罰は受けるべきです」

「……それならどうして……」

「二十年以上夫婦でした。私の息子を産んでくれて、必死に働き家計を支えてくれた家族だったんです……」

「でも……!!」

「……息子の母親なんですよ」


 押さえきれない気炎をあげるみのりに、隆史は力無い笑みを向けた。その笑みにみのりはお腹を抱きしめ、苦しそうに押し黙った。


「……家族のために耐えるんですか? これだけのことを妻だから許すんですか? 黙っているつもりがないなら、何をするつもりなんですか?」


 怒っているような悲しんでいるような、何かを耐えるような表情を浮かべる弥生の問いには、どんな感情が込められているのか。青ざめて隆史を見据える弥生に、隆史は静かに答えを返した。


「……努力するつもりです。もう一度自分の妻として、息子の母として家庭に戻ってもらえるように。ろくに伝えてこなかった気持ちを伝えて、深くなった溝を一緒に埋める、そういう努力をしてみるつもりです。旅行の日まで」

「それで……それで思いとどまったら、許すつもりなの? こんな裏切りを許せるの!?」

「……思いとどまるなら、私は許す努力をするつもりでいます」


 静かに揺るぎない答え。静かだからこそ固いとわかる決意に、みのりも弥生も黙り込んで俯いた。


「……奥様が思いとどまらなかった場合、どうされるつもりですか?」


 黙っていた絢子に、隆史は少しだけ俯いた。妻と浮気している男の妻である絢子に向ける表情は、みのりと弥生に対するより少しぎこちなく気まずそうだった。


「……その時は諦めます。旅行に出立したら、家を出ようと思っています。貴女には本当に申し訳ない。でも……それまでは努力をさせてほしい」

「……申し訳なく思う必要はありません。貴方のせいではありません。でも申し訳ないと思ってくださるなら、精一杯努力してください。奥様にたくさん気持ちを伝え、拒絶しても見過ごせない行動を諌めて、家族としてどうするべきか話し合い続けてください。旅行の日まで決して諦めないでください」

「……その、つもりです」

「絢子さん……」

「やり直せる方法は、きっとそれしかないでしょうから」


 頷いた隆史に絢子も俯いた。理香子を思いとどまらせる方法は、実際それしかない。それが受け入れられるかは別にして。


「絢子さん、なんで……?」

「もし奥様が思いとどまったとしても、犯した罪については償ってもらうつもりです」

「わかっています」

「浮気について奥様に悟らせない。それを約束してくださるなら、これまでの証拠を貴方にもお渡しします。そしてもし奥様が思いとどまった場合、制裁の際にその点を考慮することを約束します」

「絢子さん!!」

「約束してくれますか?」

「はい。配慮に感謝します」


 深々と頭を下げて、隆史はカフェを後にした。ドアがしまった途端、弥生が縋るように絢子に振り返った。


「絢子さん! どうしてですか? なんであんなことを言ったんですか?」

「弥生さん、落ち着いて。私は別に許したわけじゃないわ」

「でも、須藤さんが家庭に戻れる可能性を黙認するって……! 思いとどまったら許すつもりなんですか!?」

「……もし、踏みとどまったら、本当に考慮はするつもりよ」

「どうして、そんなことを……!」

「……須藤さんの旦那さんも、私たちと同じだったから……」


 裏切りに深く傷ついていた隆史。選んだ道は違っても、最も信頼していた人に裏切られたのはチーム・サレ妻と同じだ。


「それに元々の予定通りでしょ?」

「予定通りって……プランAでもBでもないじゃないですか……!」

「プランAですよ」

「でも……」

「家庭からのストレスの増大。それが狙いでしたよね? 私たちと同じ目的で意図的にするわけではなくなりました。でも負荷をかける目的は達成されます」

「どう、いうこと……?」

「気持ちを伝えられ、見過ごせない行動を諌められ、家族としてどうするべきかを話し合おうと、隆史さんは努力するんです。それは須藤さんには、紛れもなく家庭からの負荷になるでしょう?」

「それは……」

「今日確信を得て、これまで咎めなかった行動を諌める。旅行の日までと区切りをつけているからには、須藤さんの旦那さんは本気で努力すると思います。これが最後だから」

「……だから絢子さんは条件を出してまで、あんなことを言ったんですか?」


 絢子は小さく笑って答えなかった。弥生が気にしないように。

 今の絢子が求めるのは、自分の満足ではなくチームでの勝利だ。多少の消化不良より、優先するのは全員での勝利。みのりと弥生も望む結末でありたい。今ここで台無しにされるわけにはいかない。


「……それに一人くらいいいかなって。今のところ誰一人反省の選択肢は選んでないんです。最初の一人になるなら、多少の手心を加えてもって思ったんです……」


 チーム・サレ妻の誰もが得られなかった、反省と後悔の選択肢。

 きっと今の理香子には煩わしく、痛みを伴うだろう隆史の努力。その痛みを受け入れて理香子が罪と向き合うことを選ぶなら、その決意のは同じ痛みを知る隆史のために、何より母親に裏切られた子供のために考慮してもいい。理香子のためではない。

 

「絢子さん……」

「……かんない! わかんないよ!! 裏切られたんだよ!! 今更反省したってしたことは消えないのに!! どうして努力とか考慮とかしようってなるの!!」


 黙り込んでいたみのりが、真っ赤にした瞳で絢子を睨む。


「なんであのおっさんも、絢子さんもチャンスをあげようとするの!! そんなの必要ない!! 裏切り者に……そんなの必要、ない……」


 悲鳴のようなみのりの叫びは、深い悲しみに力をなくした。泣くまいと堪えるみのりの痛々しさに、絢子の胸が鈍痛のような痛みが広がる。


「ウチは絶対許せない……今更どんなに反省したって、絶対に……ウチが……ウチが悪いみたいじゃん……なんで、チャンスをあげようなんて思えるの……ウチが心が狭いみたいじゃん……」


 みのりの震える声には、堪えきれない怒りと絶望が滲み出ていて、グッと喉を鳴らした弥生がみのりの背を優しくさする。みのりは何も間違っていない。罪悪感を抱える必要も、傷つく必要もどこにもない。だって、


「……みんな、愛し方と別れ方が違うだけなんです。みのりさんは何も悪くない。少しも許せないままでいいんです」


 思わず震えた絢子の声に、みのりがうつむけていた顔を上げた。


「取り戻そうとするのも、完全に切り捨てようとするのも、愛していたからです。徹底的に復讐するのも、静かに消えようとするのも、それだけ傷ついたからです。どっちが正しいかなんてないんです」


 隆史は二十年の結婚生活に、劇的な終わりを望まなかった。浮気をする前から壊れ始め、どんどん歪む関係に疲れ傷つき続けてきた。絢子のようにチーム・サレ妻の仲間もいなかった。

 絢子も一人だったら、同じ選択をしたかもしれない。でもみのりはきっと一人でも、手痛い一撃を成し遂げたはずだ。弥生ももしかしたらそうするかもしれない。想像して絢子は少しだけ笑った。


「須藤さんの旦那さんだって、別に許してなんかいないですよ。踏みとどまったら、許す努力をしてみるだけ」


 その結果がどうなるのかは、きっと隆史本人にもわからない。浮気について悟らせないと約束した。それはささやかな隆史なりの復讐なのだ。伝えずに理香子が最後に選ぶ道を見極めようとしている。違う道を選んでも隆史も裏切られた同志。お互いの傷に共感したからこそ、計画を邪魔しないと約束をくれた。


「愛し方、別れ方はそれぞれみんな違う。過ごしてきた時間だって、抱えている気持ちだって、本当は本人だけにしかわからない」


 分かろうと努力するから夫婦でいられるのだ。努力を辞めた時から、きっともう夫婦ではない。


「須藤さんの旦那さんは、自分なりの道を選んだ。そして私たちは私たちなりの道を選んだ。それだけです。そこに優劣も正解もありません。私たちは木っ端微塵に叩き潰す。骨さえ残らないように……」


 これは勝者がいない戦い。たった思い出の一欠片さえも残らないように。愛して信じて。でも手ひどく裏切られた、自分たちが抱いた愛への手向けとなるように。

 思い出も何もかも木っ端微塵に叩き壊す。ずっと静かにそばに居続けたのに、突然無言で消えて二度と振り返らない。どっちの方が辛いと思うかは、人それぞれ。

 じっと絢子を見つめていたみのりが、大きく息を吸い込み頷いた。その背をさすっていた弥生も、決意を新たにしたようにグッと唇を噛み締める。絢子はそんな二人に笑顔を向けた。私たちは私たちの道を行く。

 


 

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