第17話 最初の矢印



『十九時、「いろは」で』


 届いたメッセージに、伊藤由衣は笑みを浮かべた。

 

『はい。先にお店で待ってますね』


 素早く返信をして由衣は顔を上げる。送信相手の今井直樹と視線が合い、にっこりと笑みを浮かべて見せた。瞬間、刺さるような視線を感じて振り返ると、一緒に昼食を囲む森永留美がこちらをじっと見つめていた。苛立ちが滲む留美の表情に、思わず口元が歪む。


「森永さん、どうかしました?」

「…………別に」

「ふふっ。そうですか」


 怒りの滲む留美の声に、由衣は機嫌よく笑みを返した。ガサガサと弁当を開けると、ぱきりと割り箸を割る。


「今日は絶対残業できないなー。早めに食べて、急いで仕事終わらせないと!」


 大きめの独り言を呟いて弁当に箸をつけようとすると、向かいに座る留美がガタンと音を立てて立ち上がった。思わず上がりかけた口角を咄嗟に隠して、留美に首を傾げてみせた。


「びっくりしたー、森永さん?」

「…………お茶、買ってくる」

「そうですか。いってらっしゃーい」


 返事もせずに背を向けた留美を送り出すと、隣の須藤理香子がムッと顔を顰めてくる。


「伊藤さん、あなた……!」

「須藤さん」


 声を上げかけた理香子が、割り込んできた声に口を閉じた。その声に理香子だけでなく、由衣も思わず振り返る。


「あ、食事中すいません」


 勢いよく振り返られて少し驚いたように目を見張った上原哲也に、理香子が打って変わって甘い猫撫で声で声を上げる。


「上原くん、どうしたの?」


 頬を染めて哲也を見上げながら、小首まで傾げ出した理香子に吐き気が込み上げてくる。全力で媚を売る理香子の気持ち悪さに、苛立つ由衣の目の前で哲也はほわりと瞳を細めた。

 

「これを渡そうと思って。B社の資料のお礼です」

「そんな……いいのに……」


 差し出されたお茶を目を輝かせて推し頂く理香子に、由衣は笑みを引き攣らせて哲也に振り返った。


「……い、いーなー。私も何か飲みたいかも。上原さん、私には……」

「資料作りのお礼なんで」


 いいかけた由衣を遮るように言い放った哲也は、須藤に小さく笑みを浮かべデスクに戻っていく。ニコニコとお茶を握りしめる理香子に由衣は唇を噛み締めた。


(こんなババアに気を使う必要ないのに……!!)


 気を落ち着けようと深呼吸しようとして、由衣はいつの間にか戻ってきていた留美が入り口に立っているのに気がついた。こちらを見ていた留美と目が合うと、その口元がニヤリとかすかに緩んだのが見えた。その瞬間、カッと頭に血が上り、由衣は勢いのまま立ち上がる。


「お茶買ってきます!」

「そう……」


 哲也からのお茶を眺めながら、うっとりと上の空で返事をする理香子を無視して、留美を睨みつけると由衣は踵を返した。やりとりをずっと目で追っていた池澤大地が、財布を掴んで慌ててその後を追いかけていく。


「ふん……」


 留美は小さく鼻を鳴らして出ていく二人を見送ると、スマホを取り上げメッセージを打ち込み始めた。


※※※※※

 

「……あのブス!!」


 ニタニタと笑っていた留美を思い出し、自販機の前で鬱憤を吐き出す。続け様に陶然と哲也に媚びていた理香子を思い出し、ますます苛立ちが膨れ上がった。


「若作りのババアが気色悪い!! いい加減に空気読みなさいよ!」


 哲也のような部署一のイケメンが、陰で若作りを笑いものにされてる理香子を、本気で相手にするわけがないとなぜ気がつかないのか。


「優しいからあまりを憐れんでるだけなのに!!」


 歓迎会で大地と直樹は妻の愚痴をこぼしながら、それとなく組み合わせの空気を作り始めた。理香子を全く相手にせず、哲也が理香子を引き取ることにしかなかっただろう。空気を壊さないようにした。ただそれだけなのに。


「年はとっても空気も読めないから、旦那ともうまくいかないのよ!!」


 渋々でも一度は引き受けたからこそ、哲也は理香子に気を遣っているのだろう。部署内の誰にでも平等に親切な哲也が、由衣にだけそっけないことに、理香子はどうして気が付けないのか。哲也は由衣から話しかけてあげても、顔もまともに見れないほど由衣を意識しているのに。いつまで経っても理香子が遠慮をしないから、哲也が由衣に踏み込んでこれないのだ。

 イライラしながらお茶を買おうとして、財布を持ってこなかったことに気が付き思わず舌打ちする。


「ああ! もう!!」


 自販機を腹立たしく睨みつけていると、バタバタと駆け寄ってくる足音が響いた。苛立ちながら振り返ると、池澤大地が走り寄ってくるのが見えた。


(追っかけてくるとか……)


 由衣は呆れながらも大地が自分に向けている、不安そうな表情に少しだけ溜飲を下げた。そう、自分は愛されている。こうして必死に追いかけられるほど、求められる女なのだ。

 大地は由衣の前までくると、呼吸を整える一息をついて財布を取り出した。大地が小銭を入れると由衣は当然のようにボタンを押し、大地がかがみ込んで取り出したお茶を差し出してくる。

 

「あ、あのさ、由衣ちゃん……今日って仕事が終わった後……」

「ああ、ごめんなさい。今日は予定があるんです」

「そっか……あー、その予定って他の男……とかじゃない、よね?」

「どう思います?」


 にっこりと笑顔で返すと、大地が傷ついたように瞳を揺らして俯いた。その辛そうな表情にぞくぞくと背筋が震える。さっきまでの苛立ちが高揚に変わっていくのを感じた。


「はぐらかさないで、ちゃんと答えてよ」

「んー、だってお互いに束縛はしない約束だし。そう決めたのだって、大地さんに奥さんがいるからでしょ?」

「そうだけど……」

「うふ。だから内緒です。束縛したいなら最低限私を一番にしてからじゃないと」

「俺はただ、由衣ちゃんは可愛いから心配で……!」

「なら、どうすればいいかわかりますよね?」

「うん……」


 しょんぼりと肩を落とす大地に、由衣は笑みをますます深くした。言葉一つで大地は簡単に右往左往する。由衣が好きだから。


「今日は無理ですけど、明後日なら空けられます」

「……今日はどうしても無理?」

「明後日もやめておきます?」

「いや……明後日まで待つよ」


 落ち込んだように頷く様子をじっくり眺め、満足した由衣はグッと大地の耳元に唇を寄せて囁きかけてやる。


「じゃあ、楽しみにしてますね……」

「俺も……」


 こくりと照れたように頷く大地に、由衣は笑顔を閃かせると足取りも軽く歩き出した。


(うふふ。ねぇ、? 早くしないとライバルがどんどん増えちゃいますよ?)


 大地はこんなに自分に夢中だ。今夜からは直樹もそうなるだろう。いつまでも勇気を出せずにいると、由衣をめぐるライバルは増えてしまう。それだけ自分は魅力的だから。

 照れ隠しの冷たい無表情で、必死に由衣への気持ちを誤魔化しているのだろう哲也の顔を思い浮かべて、くすくすと忍び笑う。


(でも、哲也さんがぐずぐずしてるから悪んですよ)


 大地とのやりとりで苛立ちがすっかり消えた由衣は、後ろを振り返ることなく戻っていった。


「……池澤さん」


 そんな由衣の背中を見送り、重くため息をついていた大地が顔をあげた。


「あー……森永さん……誘ってみたけど……」


 取り繕うとした表情を情けなく歪ませ、大地は留美から表情を隠すように俯いた。その脇をすり抜けて留美は自販機に小銭を入れると、ホットコーヒーのボタンを押す。取り出したコーヒーを差し出してやると、大地は縋るような顔を上げた。


「私もさっき直樹さんから、今日は無理だって連絡が来ました」

「……でもだからって、今井先輩と会うって決まったわけじゃ……」

「池澤さんも見てましたよね? 明らかに二人で合図送り合ってたの」

「…………」

「結構前からですよ。だからはっきり確かめておくべきです」

「いや、もし本当にそうだったとしたら……」

の付き合いに切り替えればいいじゃないですか」

「それなりの付き合い……?」


 眉根を寄せた大地に、留美はうっそりと笑みを浮かべた。


「二人の関係を認識した上の、扱いと付き合いに切り替えればいいだけです」

「切り替えるって……」

「付き合って七ヶ月記念だかに、ブランドバックをねだられてるんですよね?」

「あ、うん……ってなんで知ってるの?」

「自慢されたんで。でも、大丈夫なんですか? 奥さんに内緒にするの、無理な金額じゃないですか?」

「まあ、そうだけど……」

「今日確認してバレるリスクを背負ってでも、プレゼントするのか決めたらどうですか?」

「……あ」


 留美のいいたいことを、ようやく理解したらしい大地が、眉根を寄せて思案顔になった。思わず浮かびそうになった笑みを堪えながら、留美は大地の答えを神妙な顔で待った。


「……わかった。確かめよう」

「では、業務終了後に」


 頷いて戻っていく大地に、留美は堪えていた笑みを解放した。


「……確かめるまでもないんですけどね」


 ブスだと馬鹿にしていた女に、自分のものだと思っていた男を寝取られたら、あの勘違い女はどんな顔をするか。


「簡単に股を開きそうだから構われてるだけなのに」

 

 自分のことを誰もが見惚れるほど、可愛いと思い込んでいるのが失笑ものだ。簡単に股を開きそうだからチヤホヤされていて、そして実際に簡単に股を開いて、留美のものにまで手を出そうとしている。


「あんたが先に喧嘩売ってきたのよ?」


 本命の哲也に見向きもされないからといって、人の男に手を出せばどうなるか。散々バカにしてきたあの女にはそろそろ思い知らせてやるべきだろう。薄ら笑いを浮かべた留美も、ゆっくりと部署への道を引き返し始める。

 この昼時の一幕を境に、チーム・サレ妻をヤキモキさせた膠着状態は、矢印の向きを変化させ急速に動き出し始めた。


※※※※※


 書き溜めはここまでです。今後は不定期更新となります。


 

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