第15話 マウント合戦



「……正直、どっちでもいい、かな。平和で波風立たなきゃそれでいいし」

「平和で……?」


 哲也の回答に絢子の内心がざわりと逆立つ。本当に平和で波風がたたない日常を求めているなら、なぜ浮気なんてするのか。理解しがたい言い分に、思わず眉根を寄せた絢子に哲也は甘えるように小さく笑みを浮かべた。


「ついでというかおまけみたいなことに、なんで本気になって揉めるのかって思うんだよね。正直すごくめんどくさくてさー」

「ついで……?」

「あっ、別に仕事を適当にしてるとかじゃないから! なんて言うかしてもしなくてもいいことなんだよ。それを持ち出していちいち揉めるのがわからないって思うわけで……」


 仕事の話という設定を思い出して、哲也は慌てて言い繕ったがそんなことはどうでもよかった。


(してもしなくてもいいこと……? 本気でもなくて、ついでやおまけ程度? )


 呆然と目を見開き哲也を見上げる絢子に、哲也は疲れたようにため息をついた。


「俺はさ、仕事も順調で家に帰れば絢子が待ってるって、今の生活に満足してるんだよね。正直さ、哀れだなとは思うんだよね。満足できてないから、今以上とか言い出すわけだし。つくづく絢子と結婚できてよかったと思うよ……」


 チラリと哲也が上目遣いに絢子に視線を移し、絢子は慌てて表情を取り繕った。心臓がどくりどくりと跳ねるように鼓動を刻んでいる。心臓の音を激しくするのは怒りでも、増してやときめきなどではない。よく知っていると思っていた夫の、得体の知れなさへの恐怖だった。

 哲也はあくまでの話として取り繕った浮気の話をしている。だから言っていることが、本心とは限らない。そうわかっていても、絢子は鳥肌が立つような恐怖を感じた。何を言っているのか理解できなかった。


(家庭にも私にも不満がないなら……何で……?)


 妻に浮気仲間と揉めていることを相談する神経よりも、浮気をする理由の不透明さを恐ろしく感じた。

 大切だと話す不満のない日常を平然と裏切り、それに罪悪感を感じていないかのように見える態度。夫が急に見知らぬ他人になったような気がした。


「絢子……」


 名前を呼ぶ声に甘さが混じり、ぞわりと鳥肌が立つ。思わず恐怖心にシャツの首元を押さえてしまいながら、声を押し出した。


「で、でもずっと残業しながら頑張ってたプロジェクトだし、どうでもいいって放置は……」


 絢子に触れようとしていた哲也が、ムッと顔を顰めてため息をついた。


「はぁー、もう正直どうでもいい。揉めたいなら勝手に揉めてればいいんだって。残業するのも面倒だし、この際俺は……」


 やめたと言い出しそうな哲也に、絢子はヒヤリとしながら言葉を被せた。

 

「で、でもそしたらもっとになるんじゃない? 今まで一緒に続けてきたプロジェクトなんでしょ? 抜けるってことになったら、後処理なんかでさらに揉めることになると思うの。変えたい人もいるわけだし」


 ぴたりと動きを止めた哲也が、ゆっくりと顔を歪ませた。


「あー……確かに、それはそうかもな……」


 面倒くさいに反応した哲也が、うんざりしたように頭を抱えるのを見つめ、絢子は内心安堵のため息をついた。


「……これ以上こじれないように、今は静観してみたらどうかしら?」


 面倒ごとを避けるために、問題を先延ばしにするのは悪手だ。でも哲也はあっさりと頷いた。


「余計に揉めるよりはその方がいいかもなぁ……そうしてみる。ありがとな、絢子」

「うん、力になれてよかった。じゃあ、私、お風呂に入ってくるね!」


 絢子は必死に笑みを浮かべながら、また誘われないうちにそそくさと立ち上がった。


「あ、俺も……」


 引き止めてくる哲也の声は聞こえないふりで、絢子は振り返らずに浴室に逃げ込んだ。パタンと後ろ手に扉を閉め、絢子はしばらくじっと気持ちが落ち着くのを待った。

 ゆっくりと顔をあげると洗面台の鏡に映る、少し青ざめて怯える自分の姿と目が合う。まるで未知の生物との遭遇から、命からがら逃げたてきたかのような表情だ。

 絢子は震える手で、こっそりと持ち込んだスマホを取り出す。ロックを外してLINEを開く。


『あー! ゴミのくせに腹減ったとか、マジうぜーーー!!』

『外で残飯でも漁ってきてくれたらいいんですけどね』


 チーム・サレ妻に届いていた未読メッセージに、絢子はようやくホッと息をついた。現場乗り込みを楽しみにしていた二人のアイコンに、


「とりあえず、今すぐ旅行取りやめは阻止できたわ」


 小さく呟いて苦笑が浮かんだ。今すぐ二人と話したい。こんなことがあったと吐き出して、二人がなんて言うか聞きたい。でも今は哲也がいる。少しの疑いも持たれないようにしなければいけない。

 絢子は小さく深呼吸して、チーム・サレ妻の二人のアイコンを見つめる。


「……明日、話を聞いてくださいね」


 知っていたはずの夫が急に未知の生物に見えた恐怖心は、浮気夫を辛辣に罵るチームメイトのメッセージにやっと少し落ち着きを取り戻した。


※※※※※


『おまけ、ですか……』

『はい。本心かは別にして、本当にどうでもよさそうな態度だったんです』

『そうなるとますます謎だよね。何度もプロポーズしてたのに、結婚してから浮気。でも相手に本気とかではなさそう。う〜ん、絢子さんの旦那さん、意味不明。本当に宇宙人みたい』

『ですよね……ちょっと理解できなくて、怖くなっちゃって……』

『家庭にも絢子さんにも不満はなくて、むしろ満足なのに浮気……理由はさっぱりですが、クズだと言うことだけははっきりしてますね』


 哲也が出勤してから、飛びつくようにして昨日の出来事を報告した絢子は、ひとしきり話し終えると小さく笑みを浮かべた。


『理由はわからないままですけど、こうして話せて落ち着きました』

『人を裏切るようなクズの気持ちですからね。理解不能で当たり前ですけど、意味不明だと怖いですよね。何もできませんが吐き出して、楽になれたならよかったです』 

『あ、ごめん。宅急便かも。ちょっと待ってて』

『いってらっしゃい。それにしても三人の揉め事は深刻っぽいですよね。本当に旅行を取りやめにしそうでしたよ』

『うまいこと阻止してくださってありがとうございます。最近は現場襲撃を心の支えにして堪えているので』

『お二人とも、本当に襲撃を楽しみにしすぎ。でも一旦静観ってなっただけで、まだ安心はできません』

『そうですよね。実際に揉めてる二人がどうなるかですよね』

『本当に、それです』

『ちょtt、、おもしことなてr』


 しみじみと弥生とやりとりしていると、戻ってきたらしいみのりからメッセージが届いた。常にない誤字脱字のメッセージを判読しようと、眉を顰めているとピリリと電話がなった。

 慌てて通話ボタンを押すと、興奮したみのりの声がスピーカーから流れ出してくる。


「ちょっ……! 聞いて! 面白いことになってるみたいなんだけど!!」

「みのりさん? 急に通話にとか、どうしたんですか?」

「びっくりしました。急ぎの用事ですか?」


 弥生の面食らった声にみのりはおざなりに謝ると、興奮したように捲し立てた。


「ごめん。文字打つのもどかしくてさ。今きたのって宅急便じゃなくて、昨日尾行してくれてた友達でさ。ちょっと面白いことになってるからってわざわざ来てくれたんだ!」

「尾行……? 昨日ってなかったですよね?」

「ゴミどもはね。でも不倫相手の方が集まってたみたい。それでせっかくだからって尾行してくれたらしくてさー」


 みのりの好奇心旺盛な友人達は、職務熱心らしくまっすぐ帰るのはつまらなかったようで、三人でどこかに行こうとしてる不倫相手の尾行を決行したらしい。


「三人で集まるから何事かと盗み聞きしたら、どうもね、不倫相手達でマウント合戦が勃発してるみたいなの」

「マウント合戦?」


 ニヤニヤ笑いながらのみのりの話をまとめると、不倫相手達あくまで笑顔のまま嫌味の応酬を繰り返していたらしい。その内容は絢子にとっては理解不能だった。

 二十二歳の最も年が若い大地の不倫相手・伊藤 由衣いとう ゆいは典型的なお姫様で、自分が一番注目されなければ我慢ならず、全ての男が自分をチヤホヤすると信じているタイプだったようだ。

 由衣は席につくなり、直樹の不倫相手・森永 留美もりなが るみに謝り出したと言う。


『最近気まずくなってるのって私のせいですよね。本当にすいません。私も直樹さんからのアプローチには本当に困ってるんです。直樹さんは留美さんの彼氏なのに……でもずっと気になってたって、すごく積極的で……私もいつまで断れるか……』


 と、申し訳なさそうなふりで煽ったらしい。それを哲也の不倫相手・須藤 里佳子すどう りかこが嗜めた。


『里佳子さんくらいの人生経験があれば、うまくかわせるかもしれないですね。でも私、まだ若くてそういうのうまくできなくて……』


 と由衣はこれまたとんでもない返しをして、その場はますます険悪になったと言う話だった。


「すごいですね。全方向に喧嘩を打っていくスタイルを採用してるとか……」


 弥生が感心したように言うと、みのりが吐き気を堪えるような声を出した。


「ヤバいよね。それからは三人でずっとマウント合戦してたらしくてさー」

「……え、旅行取りやめになるくらいの揉めだしたのって、もしかして不倫相手側がマウント合戦始めたから?」


 思わず呆れた絢子に、みのりと弥生も苦笑をこぼした。


「不倫相手の中での頂点でも目指してるんですかね?」

「もう笑うしかないよね。不倫する女なんてこんなもんだろうけど」

「すごい迷惑ですね……」


 なんとも言えない微妙な沈黙が流れ、ポツリと弥生がつぶやいた。


「でも、これちょっと面白いことになりそうじゃないですか?」

「面白いこと、ですか?」

「はい。絢子さんの弁護士さんの言った通りになりそうだなって」

「そう、でしょうか……? 喧嘩とかになって、最終的に破綻しそうじゃないですか?」

「矢印の方向次第で、全員仲良く旅行行くんじゃない?」

「矢印の方向?」

「うん。誰がどのタイミングで誰を狙うかで変わりそう」

「それ、昼ドラみたいでワクワクしますね」

「弥生さん……」

「ふふっ、だってすごいじゃないですか。他所様の旦那を寝とった上に、こんな恥知らずな争いを繰り広げられるんですよ? 是非とも勝負の行方を見守ってあげたいなって」


 柔らかいのにヒヤリとするような弥生の声に、絢子はごくりと生唾を飲み込んだ。


「はぁ、こんな女に引っ掛かったのが自分の旦那とかねー。なんか虚無感すごいー」

「……ですね。類は友を呼ぶからですかね……私はちょっと理解が追いつかないです……」

「原因は分かりましたけど、結局は動向を見守るしかなさそうですね」

「だね。あーもういっそ、賭ける? 誰と誰がどのタイミングでとか」

「ふふっ、いいですね。絢子さんもどうですか?」

「二人とも……」


 あーだこーだと盛り上がり始めた二人に苦笑しつつ、絢子はなんとなくため息を吐き出した。吐き出したおかげで少しだけ心が軽くなった気がした。

 不倫旅行まで耐え忍ぶだけだと思っていた状況は、思いもよらない方向に進み始めた。

 呆れ果てた二人が最終的にもういっそ楽しみ出したのは、もしかしたら正解なのかもしれない。弥生の言うように動向を見守る他にすべはないのだ。

 それにもう哲也の浮気を嘆き悲しむ価値があるのか、わからなくなってもきていた。

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