第5話 理解不能な宇宙人


 

「出張の件だけどさ、やっぱり確定っぽいんだよね……」


 夕食の席で深刻そうに哲也が呟き、絢子の箸を持つ手がぴくりと揺れた。顔を上げられないまま、絢子は意識してできるだけ平静に返事を返す。


「そう……それなら休暇は無理そうね……」


 哲也は疲れたように頷きながら、唐揚げに箸を伸ばした。

 

「だから最近ちょっと忙しくて。残業が増えるかもでさー……巻き込まれて休暇も潰れたのにその上残業とか……絢子?」


 怒りに箸を握りしめていた絢子は、哲也の呼びかけにハッとして笑みを浮かべる。


「……あ、大変そうだなって。残業が増えるならご飯はどうする?」

「あー、適当に済ませるかな。絢子も大変だろうし、連絡入れるから用意しなくていいよ」


 妻を気遣う夫の顔を向けてくる哲也に、絢子は必死に笑みを返す。

 ありもしないトラブルで、残業が増える。それは浮気を知ってる絢子にすれば、堂々と浮気相手と過ごす時間を増やす宣言と変わらない。その上、女と食事を済ませてくるだけのくせに、大変だろうからと気遣うふりで恩まで着せようとしている。

 ふざけるなとぶちまけたくなる気持ちを、必死に堪えようとしても全部は上手く飲み込めなかった。堪えきれなかった怒りが、ついつい口をつく。


「それならやっぱり休暇は無理そうね……」


 絢子が繰り出したジャブに、哲也は大袈裟にしかめた顔で食いついた。

 

「うん。今日、課長にさりげなく休暇の予定聞かれちゃったし」

「でも今問題が起きてるのに、三ヶ月も先に出張になるなんておかしな話よね」


 必死に不倫旅行への布石を打つ姿を内心嘲笑いながら、絢子はどんな言い訳をするのかと満面の笑みを哲也に向ける。


「あー、あ、あれだよ。解決自体は支社でするんだ。出張はその後で、再発防止の対策のためっていうか……」

「そう……」


 浮気に気づかなければ、信じたかもしれない言い訳に絢子は手を止めた。


(まあまあ有り得そう……)


 トラブルの収拾は、迅速な終結が第一で、再発防止までして初めて解決と言える。一定の信憑性が確保された言い訳に、うっかり感心した絢子は怒りよりその口のうまさに呆れ返った。

 哲也が部署でも人気があったのは、そこそこ爽やかな見た目だったこと。そして明るくて甘え上手な性格と、この良く回る口のうまさが理由なのかもしれない。


(口が上手いって、裏を返せば嘘が上手いってことでもあるわね……)


 魅力的な長所は、危険な短所でもある。人気のあった哲也に熱心に言い寄られる状況に舞い上がって、随分と目が曇っていたらしい。妙に冷めた気分になって、絢子はまだ食事の途中の席を立った。


「……絢子?」


 絢子を伺うように見上げ、小声で呼びかけてきた哲也に、絢子はハッとして慌てて笑みを浮かべた。

 

「あ、ごめん。今日はちょっと風邪気味で食欲がないの。あなたはゆっくり食べて」

 

 そのまま食器を手に流し台に向かう。不自然だったかと冷や汗が伝うのを感じながら、食器を置いて深くため息をつく。


「絢子」

「……っ!! 哲也……!」


 すぐ後ろで聞こえた声に、絢子は飛び上がるように振り返った。


「ごめん。驚かせた?」

「ちょっとぼーっとしてて……」

「熱でもあるの?」


 額に伸ばされた手を咄嗟に振り払いそうになり、なんとか堪えた絢子は顔を背けて近づく手を避けた。


「……熱は出てない。でもちょっとだるくて……」

「……もしかして、絢子、怒ってる?」

「えっ? なんで?」


 純粋に驚いたこととやらかしてしまったかもしれない失敗感で、どくどくと忙しない鼓動を感じながら絢子は唾を飲み込んだ。


「出張で休暇がダメになったろ? 絢子、京都に行くの楽しみにしていたから……」


 しゅんと肩を落としながら、上目遣いに絢子を見る哲也。絢子は急速に鼓動がおさまり、スッと頭が冷えるのを感じた。哲也のこの表情にいつも絢子は弱かった。年下の哲也が甘えてくるのを、可愛く思っていた。でも今は理解できない宇宙人のような、不気味な奇妙ささえ感じる。

 休暇が取れなくなったのも、楽しみにしていたと知っている京都旅行も、ダメにしたのは目の前の哲也だ。その上残業が増えるとついさっき宣言したばかりだ。その理由は全て、浮気をするため。

 それなのになんでこんな顔をして、こんなことを言えるのか。不自然な態度だったかもしれない。自分はたったそれだけで、狼狽えて怯えてすらいるのに。


「……仕事なら仕方ないって納得してる」


 絢子はじっと見つめてくる哲也にため息交じりに返事を返す。もう行きたい気持ちなど微塵もない。

 

「……本当?」


 まだ上目遣いのままの哲也に、無言で頷いた絢子を哲也が嬉しそうに抱き寄せる。背中に回される腕と、密着する体温に嫌悪感が湧き上がり、突き飛ばしたくなるのを必死に堪えた。


「必ず埋め合わせするから。本当にごめん……」


 囁きかける低めのトーンの声に、ぞわりと鳥肌が立つ。咄嗟に声が震えないようにしながら、絢子は哲也の腕をそっと押した。


「風邪、うつるかもしれないから……片付けもしないと……」

「……片付けはいいよ。それより俺、これから残業増えるし。だからさ今日……絢子との子供早く欲しいし」


 言いながら手を握ってくる哲也を、絢子は一瞬ポカンと見上げた。そんな絢子に哲也は笑みを返してくる。


「絢子の風邪なら、俺、うつってもいい。だからさ……いいだろ?」

 

 まるで決め台詞のように言われた言葉に、腹の底に溜まっていた煮えたぎる熱が、喉元まで一気に駆け上がってくる。絢子は決死の笑みを浮かべて、哲也の手を離した。

 

「……じゃあ、先に行ってて。ここを片付けて、お風呂に入ったら行くから」

「後でいいって」

「でも今日は買い物に行って汗かいたから……ね?」

「……分かった。早くこいよ」

「うん……」


 振り返りながら寝室に向かって行った哲也を見送り、扉が閉まった途端、絢子は無造作に置いておいたスマホに駆け寄った。怒りに震える手で、猛烈な勢いで文字を打つ。


『みのりさん! 浮気の証拠集め任せて本当に大丈夫なの? 一刻も早く離婚したいんだけど!!』


 ジリジリと落ち着かなく待っていると、しばらくしてスマホがブルっと震える。


『大丈夫だって! それよりそんなこと言ってくるとか、なんかあった?』

『これから残業増えるとか言ってたくせに、子供作ろうとか誘ってくるんだけど!! 風邪気味だからって断ったのに、私から移されるならいいとか決め台詞言われたんだけど! こんな宇宙人と生活するの耐えられない!!』

『やば、キモすぎ! 自分との子作りがご褒美とか思ってるのマジウケるー! 絢子さんの旦那ってナルシスト?』

『気づいてなかったけど、そうなのかも』


 絵文字満載のみのりらしい文面と返信に、返事を返しながら絢子は脳内血管を破壊しそうだった怒りが、落ち着き始めるのを感じる。遅れて既読が増え、すぐに弥生からもメッセージが届く。


『大丈夫ですか? 今返信してても気づかれませんか?』


 弥生のメッセージに寝室に続く扉を確認し、念の為トイレに移動して絢子は返事を入力する。

 

『大丈夫、お風呂に入ってからって言ったから。五分ぐらいですぐ寝ちゃう人だから、寝室に行く頃にはもう寝てると思う』

『じゃあ、粗ちんが寝るまでお風呂に浸かってればいいね!』


 みのりの返信に思わず吹き出しそうになって、慌てて口元を手のひらで覆う。


『みのりさん、急になんでそんなこと……』

『えー、ナルシストな奴って基本粗ちんが標準装備じゃない? なのになぜか自慢げ。あと一人よがりだからだいたい下手くそ』

『それって偏見なんじゃ……』

『本当にそうなんだって! あとこれ、完全な偏見だけど弥生さんの旦那、すごい早そう』

『そんなことはないと思います』

『絶対早いって! 何分持つ?』

『セクハラですよ!』


 絢子が笑いを堪えている間に、次々と届く内容に沸騰しそうだった頭が急速に落ち着いてくる。思わずぶちまけた怒りは、みのりのよくわからない確信に霧散する。


『お二人ともありがとうございます。血管がちぎれるかと思うほど頭に来てたんですが落ち着きました。このまま長居は怪しまれるかもしれないので、お風呂に入ってきますね』

『りょ! 証拠集めはマジで安心して任せといて!』

『私もちょうどお風呂に入るところでした』

『怒りに任せてぶん殴らずにすみそうです。二人とありがとうございました。おやすみなさい』


 みのりからの返信を見届けて、絢子は息をついた。


「本当そうよね、気をつけないと……」


『やば、キモすぎ! 自分との子作りがご褒美とか思ってるのマジウケるー! 絢ちんの旦那ってナルシスト?』。みのりのメッセージを眺めながら、絢子は唇を引き締めた。

 哲也が誘ってきたのはきっとそういうことだ。不自然な態度に不安を煽られて、誤魔化そうと機嫌を取るために誘ってきた。行動を起こそうと思うくらいには、自分の態度は不自然に思われた。

 そして誘えば機嫌を取れると思われるくらいには、哲也は絢子を甘く見ているということだ。


「チーム・サレ妻って……」


 画面に表示されるルーム名に苦笑が浮かぶ。浮気された惨めな妻たちの集まり。でもそれに今回は助けられた。吐き出せなかったら、確実にあの神経を逆撫でする上目遣いの顔面を殴りつけてしまっていたかもしれない。

 証拠を集めて浮気を代償を払わせる。そのために協力してほしい。そのつもりで持ちかけた提案は、思ってなかった形で絢子を助けてくれた。


「意外といいチームなのかもね」


 弥生の泣きながら迷う痛々しいほどの姿は、哲也を愛して信じていた自分に重なる。みのりの残酷なほどキッパリとした本質をつく言葉はそんな自分を客観視させてくれる。たった一人でもがくしかできなかった時とは違う。吐き出せる相手がいる。

 グループ不倫旅行を計画されるような、惨めな妻の集まり。でも裏切り者たちへの手痛い反撃を喰らわせるため、支え合いながら動き出した。


「私も二人のためにできることをしよう」


 最も信頼できるはずの夫に裏切られた絶望を、誰よりも理解できるから。同じだけ辛い気持ちでいる二人のために。絢子は絢子ができることで。

 閉じこもっていたトイレから、そっと外を伺う。哲也が寝室から出た気配がないことを確かめて、絢子はキッチンに戻って行った。


 

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