四月の嘘
何雲しらね
四月の嘘
恋愛、特に遠距離恋愛は続かないとはよく聞くものだがどうやらそれは本当のことらしい。二人の間に現実的な距離が開くと心の距離も離れていき、それを嘘やら見栄やら別の何かで埋めて年に数回会えるかわからない相手に空いた距離を悟らせないことがおよそ長続きする遠距離恋愛なのではと考えるが、そんな竹馬に乗ってマラソンをするような器用な真似ができる人間はそうそういないので結局は長続きしないのである。
そして、たいがい相手の嘘やら見栄やらに気づけないまま相手に置いて行かれて泣きじゃくるのは、決まって夢ばかり見ていた男の方なのであろう。女は自分の心中を悟らせないようにしながらじっと待ち、男が気づくころには隣からいなくなっているのである。
数年ほど前、ある男の家で食事をしながら互いの近況を語り合ったことがあった。
仮にFと呼称するが、Fは高校から付き合いのある私の数少ない友人の一人だった。性格の良い奴であるのは間違いないのだが、他人の変化に少しばかり疎く、こと女性の感情の機微や見た目の変化を察することの出来ない少々鈍感な一面があった。本人も自分のその鈍感さにほとほと苦しめられていた。
一度だけ「どうすれば他人の気持ちがわかるようになるんだろうか」と質問されたことがあったが、「それを言われる相手の気持ちを想像できるか?」返すと、Fは頭から湯気を出して倒れた。哀れにも彼の鈍感は不治の病であることが確定した瞬間だった。
その日は酒も入っていたこともあり、僕らの会話は次第に互いの交友関係の話になっていった。卒業後は誰と連絡を取っているのかとか、逆に誰と話さなくなったかとか、そんな他愛のない話をしながら昔の話に華を咲かせ、気が付けば僕もFもかなりの量の酒を飲んでいたようで、来る前に山ほど買っていた酒が空になってテーブルの上でアルミ缶の山を築いていた。
「そういえば、あの子は今どうしてるんだ?」
あの子とは高校時代にFと付き合っていた大原凪紗という名前の一学年下にいた女子生徒のことである。私はあまり関わりがなかったために彼女と話すことが無く、Fの眠たくなる惚気からしか彼女の人物像を知らなかった。顔も見たことがないため存在自体も怪しい。最初、自他ともに認める鈍感野郎のFに彼女が出来たことには驚いたが、Fのような人間と付き合っていただけあって彼女も相当な変わり者だったのだろう。
まだ付き合っているのだろうと軽い気持ちで聞いたが、私の質問を聞いてさっきまで楽しそうにしていたFの表情が突然暗くなった。
「ああ、今はもう会ってないんだ。たぶん楽しくやってると思う」
楽しかった思い出を思い出すように天井を見上げながらFは一言そう呟くと、テーブルの上に置いた缶ビールの残りをぐいっと飲み干した。私はFのその様子から彼の触れられたくない部分に触れてしまったと感じて謝ったが、「全然気にしてない」と彼は私に笑いかけた。
「むしろ都合が良い。今日、君を呼んだのはそのことについて話そうと思っていたからなんだ」
「……何かあったのか?」
「いや、なんといったらいいかねぇ……」
どう言葉にしようか悩むようにFは体をくねらせる。昔から悩むときにする彼の癖だ。傍から見ればムーミン谷に住むニョロニョロのようで面白いが、今日はいつになく横揺れが激しく相当深く考えて言葉を選んでいるらしい。
悩んだ末にFは僕に水を一杯飲んでくると言って台所の方に行き、新しいコップに水を並々まで注いで一気飲みして戻ってきた。
「ざっくりというと、僕は彼女の隠し事に気づくことが出来ず、逆に彼女は最後まで僕を騙し通したという感じなんだよ。別に何か酷い仕打ちを受けたわけではないけれど、察しの悪い僕は彼女の真意に気づくことが出来なかった」
そういうとFは彼と付き合っていた彼女とのこと顛末について語り始めた。
「毎年、四月一日になったらこの木の下に来てください。それまで私たちは会えません」
卒業式の日の放課後、高校近辺にある公園に僕を呼び出すと、凪紗は突然そういった。最初僕は彼女が何を言っているのか分からなかった。具体的言うと僕が鈍感であるから彼女の言葉の真意を理解できていないのか、それとも彼女がめちゃくちゃなことを言っているのか、どちらなのかが分からなかった。
「……つまりはあれかい? 別れようってことか?」
「別れないですよ? 毎年会おうって言ってるんだから」
「そうか、違うのか。それは良かった」
ならどういうことだ? やっぱりわからないな。
「別に僕のことが嫌いになったわけじゃないんだよな?」
「ええ、そうですよ?」
「でもこれからは一年に一回しか会わないんだよな?」
「ええ、そうですね」
「その間に連絡を取り合うなんてことは?」
「しないですね」
「確認だけど僕のこと好きなんだよな?」
「変な事言わせないでくださいよ」
「言ってるよ? すでに変なこと」
ますます理解できないな。嫌いでもないのに好き好んで織姫と彦星みたいな関係になろうなんて人間がこの世にいるだろうか? 少なくとも僕は好きな人間と離れるのは嫌だし、会いたいと思ったときに会いに行きたいのだが、凪紗は違うのか?
「凪紗、すまないがなんで一年に一回しか会えないのか教えてくれないか?」
「私、引っ越すんですよ」
「そうか、それは知らなかったな」
「初めて言いましたから」
「なら知らなくて当然か。で、それと何が関係あるんだ?」
「私も引っ越して先輩も卒業して大学に行くわけで二人ともこの町にはいなくなるわけでしょう? そうなるとお互い新しい環境でやっていくことに忙しくなるだろうから私たち絶対疎遠になって自然消滅するじゃないですか」
「いや、考え過ぎなんじゃないかな? 僕が行く大学だってここからそんなに離れているわけでもないし、月に二、三回は会えると思うよ?」
「先輩はそうでも私が良くないんですよ! それに明日突然隕石が降ってきて今まで通りにいかなくなるかもしれないでしょう?」
「そういうものか」
「そういうものです!」
僕は凪紗が心配し過ぎだと考えていたが、確かにそうかもしれない。僕も大学進学を機に一人暮らしを始めるのだから今まで通りにはいかないだろう。凪紗が危惧するのもわかる気がする。
「だから、この日だけは絶対に会うという日を決めておきましょう。その方が先輩も負担が少なくていいでしょう?」
「うーん」
確かに納得できる気もする。しかしこの時の僕は凪紗のどこか鬼気迫った要求に違和感を覚え、素直に承諾することをためらっていた。
「凪紗がそうしたいっていうなら僕もそれに従うよ。でも別に僕のことを気遣ってのことなら遠慮することはないよ?」
僕がそういうと、凪紗は何も言わずに首を横に振った。
「大丈夫です。私の意思ですよ。先輩と長い間一緒にいるための」
にかっと、笑みを浮かべながら凪紗は僕にそういった。
今、凪紗は嘘を付いたと僕はこのときすぐにわかった。鈍感ではあったが少なくとも一年以上付き合っている彼女の仕草や癖くらいはわかる。凪紗は何かをごまかすときにだけ「大丈夫」という言葉を笑いながら言う。全部が嘘ではないのだろうけれど、僕に隠したいことがあるのだろう。
「……わかったよ。一年に一回会いに帰ってくるよ」
僕がそういうと、凪紗はまたにかっと笑って見せた。
「絶対ですからね! この木、忘れちゃダメですからね!」
無邪気に約束の木をバンバン叩く凪紗の姿に自然と僕の口角が上がっていくのが分かった。この時は彼女が何を考えているのかまるで分っていなかったが、僕が彼女の願いを聞き入れるだけで喜ぶのならそれでいいかという気持ちが勝った。
「ところで、なんでこの木なんだ? この公園の中だけでいいなら他にも木はたくさんあっただろうに」
僕がそう聞くと、待っていたとばかりに凪紗は答えた。
「やっぱり先輩は察しが悪いですね。この公園の中で『枯れない木』はこの木だけですよ?」
「それは、まぁそうだけど……」
やはり彼女の考えていることは僕には理解できないのだろう。けれど、僕がいくら鈍感といっても、いくら凪紗が自信ありげに言ってもこればっかりは僕が正しいと思う。
少なくとも、プラスチック製の木のオブジェは「枯れない木」と呼ぶのはおかしいだろう。
凪紗と奇妙な約束をしてから一年後の四月一日、約束通り僕はあの公園の木の下で凪紗が来るのを待っていた。思ったより早く着きすぎたようで、約束の時間より三十分も早くついてしまった。何もすることがないので、公園の中を見渡した。子供のころからよく来ていた公園だが、年を重ねるにつれて遊具の数は減っていき、いまや幼児用のシーソーと滑り台しかない。あとは端に遠慮がちに置かれたベンチと、それとは正反対に主張の激しい木のオブジェだけだ。
「やっぱりこれを『枯れない木』と呼ぶのはおかしいだろ」
一年前に凪紗が言ったことを思い返しながらため息を吐いた。付き合い始めてから彼女は気に入ったものに独特の表現で呼称することが多かった。数が多すぎていちいち覚えていられなかったが、いつだったか春の一番気持ちの良い日を「スプリングサマーフェスティバル」と呼んでいたのは流石にどうかしていたと思う。
そんなことを考えている間に公園の入り口に凪紗は現れた。たった一年でお互いそこまで容姿に変化は出ることはないだろうと僕は思っていた。
けれど、久しぶりに凪紗の姿を目にしたとき、思わず僕は目を疑ってしまった。
「久しぶりですね。先輩!」
そういって嬉しそうに僕のいるところに駆け寄ってくる凪紗の手は骨が見えるほどに細くなっていた。頬も少しこけている。「痩せた」というよりは「食べていない」というような顔つきに変わっていた。
いったい彼女の身に何があったんだろうか? 考えては見るが僕の足りない脳みそでは彼女の変化について想像がつかない。というより彼女に容姿について触れるべきなのだろうか。いや、それよりも久しぶりの再会だというのに喜びよりも心配する気持ちが勝るというのは彼女に対して良くないのではないか。
「どうしました?」
思案を繰り返す僕を不安そうに凪紗は見つめた。
「いや、なんでもないよ。昼前だし何か食べに行こうか?」
「いえ、私お腹空いてないんで大丈夫です」
凪紗はそういってにかっと笑った。
「それよりも久しぶりに会ったんですから先輩の近況とか聞かせてくださいよ」
「うーん。そうか分かったならとりあえずどこか店に入ろうか」
「先輩お腹空いてます?」
「なんでバレた?」
「是が非でも店に入ろうとしてるじゃないですか」
「しょうがないですね」とため息をつきながら、凪紗は僕と一緒に近所にあるファミレスを目指して歩き始めた。
それから僕と凪紗は昼食を食べながら(食べていたのは僕だけだったが)一年間で自分たちに何があったのかを話した。会話の内容はほとんど覚えていないが、自炊が思っているよりも続かなかったとか、大学の授業を危うく留年するところだったとか。
おそらくたいして面白い話はしていないのに凪紗は僕が何を話しても笑ってくれた。彼女が笑うから僕も調子に乗ってまた別の話をした。何時間もペラペラと壊れたラジオのようにしゃべり続ける僕を凪紗は楽しそうに聞いているだけだった。たまに僕から凪紗に何か無かったのかと聞いてみたりもしたが、凪紗は「大丈夫」と言って僕に話すように進めるばかりで自分の話をしようとはしなかった。
楽しい時はあっという間に過ぎ、気が付くと辺りは暗くなっていた。十七時のパンザマストがどこかから聞こえて来ていた。
「駅まで送るよ」
会計を済ませて店を出て僕は凪紗と駅まで歩いた。少し歩いたところで凪紗の様子がおかしくなった。
「駅まで手を繋ぎませんか?」
額に汗を浮かばせながら、僕にもたれかかるようにして凪紗は僕の手を取った。指を絡ませて手を繋ぐと、今にも折れそうなほど細い小枝のような彼女の指が僕の手に食い込む。疲れているのか歩き方もぎこちなく、肩で呼吸している。凪紗は誰が見てもわかるくらいに、明らかに体調が悪かった。
「凪紗、少し休もう」
「大丈夫です。ちょっと疲れただけです」
「大丈夫じゃないだろ。どう見ても」
呼吸はどんどん荒くなり、凪紗の顔から生気が無くなっていく。すぐに救急車を呼んだ方がいいと僕はスマホを取り出して119にかけようとしたが、凪紗はそれを止めた。
「先輩……うちの親に連絡してもらってもいいですか?」
顔を引きつらせながらなんとか笑顔を作ろうと口角を上げようとしていた。救急車を要望とした僕を止めた手にはほとんど力がこもっていなかった。なぜ、ここまで弱り切っているのに頑なに救急車を呼ぼうとしないのか僕には分からず、とにかくなんとかしないといけないという気持ちで、凪紗がいう親の電話番号に連絡した。電話はすぐに繋がった。
『大原です』という女性の声が聞こえ、すぐにそれが凪紗の母親であることがわかった。僕は凪紗が倒れたことと今いる場所を伝えると凪紗の母親は慌てた様子で『すぐに向かう』と言って電話を切った。
電話から十五分後、スモークブルーの車が現れ、中から凪紗の親であろう三十代くらいの男女が心配そうに駆け寄ってきた。
「君のことは娘からよく聞いているよ」
そういって、凪紗の父親は僕の手から凪紗を引きはがし、後部座席に乗せた。凪紗は気を失っているのか、目を瞑ったまま苦しそうに呼吸をしている。
「あの、」
「なんだね?」
急いでいるせいで少々苛立った様子で凪紗の父親は僕に聞き返した。
「もしかしてこの近くで待機されてました?」
委縮しながら僕がそう質問すると凪紗の父親は眉間に皺を寄せた。
「……なんのことだ?」
「いえ、凪紗さんからは引っ越したって聞いてたんですけど、やけに到着が早かったなぁっと思って」
まるで目の前の人間が何を言っているのかわからないという様子で僕を睨みつけている。
「引っ越しなんてしていないよ?」
「え?」
思いもよらない返事に声が漏れる。
「でも、去年の三月にこの町から引っ越すって……」
どういうことだ? 確かに一年前に凪紗は僕にこの町から引っ越すと言っていたはず……
「すまないが君に付き合っていられるような状況じゃないんだ」
「待ってください! 確かに凪紗から聞いたんです! どういうことなのか教えてください!」
「知らないよ! 娘の嘘か何かだったんじゃないか?」
吐き捨てるようにそういうと、凪紗の父親は車のドアを閉めてしまい、車はどこかへ走り去ってしまった。
おいて行かれた僕はただ茫然とその場に立ち尽くしながら、夕陽を背に目の前を通り過ぎていく電車の走行音と踏切の警笛だけが響く。路地で情報を整理しようと必死に考えこむがわからない。なぜ凪紗は僕に引っ越したなんて嘘を付いたんだろうか? 確かに僕は一人暮らしを始めて町を出たが、帰ってこれない距離ではなかったし、それは彼女も知っていたはずだ。なのになぜ彼女は僕にそんな調べればすぐにわかりそうな嘘をついたのだろうか。
「僕は自分の話はするくせに、凪紗のことについてはほとんど知らないんだな」
なぜもっと彼女のことを理解しようとしなかったのかを悔い、一番辛そうにしている彼女に対して何も出来なかった己の未熟さに打ち震えていた。
それから翌年の四月一日、僕はまた凪紗との約束の木の下にやってきていた。約束と言うのもあったが、あれから一年間凪紗とはずっと連絡が付かず、何もできないことに対するわだかまりを抱えていた僕は、なぜ凪紗は引っ越すなんて嘘を付いたのかを本人に聞こうと決めていた。
しかし、そこに彼女の姿はなかった。電話をかけてみたが電源が入っていないようで繋がらない。半日待ち続けたがそのうち空の雲行きがだんだんと怪しくなり、暗雲から雨が降りはじめた。時が経つにつれて雨は激しさを増していき、しまいには落雷まで降ってきたがなんとしてでも彼女の真意を聞き出したかった僕は雨の中で彼女を待ち続けた。
結局、丸一日待ち続けても凪紗が現れることはなかった。
彼女の身になにかあったのだろうか。公園に向かう途中で事故にあったか、それとも前と同じように具合が悪くなって動けなくなったのだろうか。
それとも、もう僕と会う気はなくなってしまったのか。
蛍光灯が照らす薄暗い夜道を歩きながらぼうっと浮かぶ自分の影を見つめながら一人で帰る夜道で行き場のない凪紗に対する気持ちをどう処理すればいいのかわからなくなっていた。
「あれ以来、僕はあの公園に行くのをやめた。凪紗とも連絡は取っていないし、もうどうでもいい
「今の話を聞いて君はどう思う?」
気持ちの悪い笑みを浮かべながらFは私に聞いてきた。
「どう思うったって、君の事なんだから私に感想を求められても困るよ」
「そういうことじゃない。君の視点から見て僕や凪紗はどう見えたか聞いているんだ。何度も言うが、僕は察しが良い方の人間じゃない。どちらかと言えば愚鈍だよ」
「エビが好きなのか?」
「そのグドンじゃない!」
「真面目に考えてくれ」とFは僕に言う。だが部外者の僕がFに何か助言して良いのかその時の僕は図りかねていた。彼の話を聞く限り、何となくではあるが大原凪紗が何を考えて彼に引っ越すなんて嘘を付いたのかわかる気がした。しかし、この話をFにすることが彼にとって良いこととは私には思えなかった。
「うーん」
しばらく悩んだのち、僕はFに水を一杯もらえないか頼んだ。
「別に構わないが」と彼は台所に行って新しいグラスに水を一杯注いで戻ってきた。僕はその水をさっきの彼のようにぐいっと飲み干してから時計を確認した。
時刻は午前四時を回っていた。夜明けにはまだ早いが、窓の外では目を覚ました烏たちがしきりにこかぁこかぁとしきりに鳴いていた。
「なぁ今日って何日だったっけ?」
「今日? 三月の末日だよ。それがどうかしたか?」
「て、ことは夜が明けた今は四月の一日ってわけだ。偶然にしては少し出来過ぎてるな」
「いや、どういう意味だよ。ちゃんとわかるように説明してくれよ」
混乱するFをよそに私は近くに置いていた自分の上着を羽織った。
「出かけるぞ」
「出かけるってどこへ?」
「花見だよ。場所はお前が毎年通ってたとこだ」
「ならお断りだ。野郎二人で行っても華がない」
「花見に行くって言ってるのに君が咲いてどうするよ。そうじゃない、見に行くのは木のほうだ。私の予想が正しければ、君が知りたかったことがわかるぞ」
そうして私とFは飲んだ酒が抜け切らないまま、Fの家を出て花見と言う名目で彼の地元への弾丸トラベルを敢行したのである。Fの家は彼の通う大学から徒歩十五分圏内にあるアパートでそこから私たちは電車を乗り継ぎながら目的地である「枯れない木」のある公園を目指した。早朝ということもあってか電車に乗っている人の姿はほとんど無い。いるのは疲れ切った顔で椅子にもたれかかるスーツの男性や夜を遊び明かしたのであろう奇抜な色の服を着た若者たち。そして二日酔いで割れそうな頭を抱えた私とFである。
「完全に飲み過ぎた」
Fの地元の駅に着いた頃には時刻は十一時前で私は電車の振動と走行音で完全にグロッキーになっていた。昨夜はなんであんな馬鹿みたいな量の酒を飲んでしまったのだろうかという後悔が押し寄せる。壁にもたれかかる私にFは近くの売店でペットボトルの水を買ってきてくれた。渡された水を少量口にすれば幾分かマシになった。
「よし、目的地まではあと少しだ。行くぞ」
「なぁ、やっぱり戻らないか?」
気分の悪い私にたいしてFはどこか浮かない顔をしている。
「私の体調を心配してくれているなら問題ない」
「いや、お前の心配はしてないよ」
飲み過ぎたお前の自業自得だとFはいう。少しは心配してほしい。
「今日あの場所に行ったところできっと凪紗には会えないと思うんだ」
「まぁそうかもしれないな」
「そうかもって……ならなおのこと行く意味なんかないだろう。確かに何かわからないかって君に聞いたのは僕だけど、直接現地に行かなくても口で説明してくれればいいよ」
「そうかもな」
相当行きたくなかったのだろう。恋人との苦い経験のある場所なのだが無理もないことだ。
しかし、しかしだ。それじゃダメだろ。
「――でも君は彼女のことをわかっていればと後悔したんだろ? その気持ちから逃げて見ることから距離を置くことは君が本当に望んだことなのか?」
Fは何も言わず俯く。僕はこのまま続ける。
「知ってるか? 遠距離恋愛ってのはたいがい長く続かないらしい。現実的に距離が空くとそれは心の距離にも影響するらしい。相手の顔が見えないから、次第に相手が何を考えているのかわからくなり、何を望んでいるのか知ろうともしなくなる。そうして自然と相手のことを気にしなくなり、他人に戻っていくらしい」
「君はそんなことを望んでいるわけではないだろう」というとFはぐっとこちらを見た。
「すまない。弱音を吐いた」
一言そういってFは公園のある方向に向かって歩き始めた。
「枯れない木」のある公園は思っていたよりもこじんまりとした公園だった。いや、公園というよりは広場に近い。四方に入り口があるブランコや滑り台のような遊具はなく、端に小さなベンチと水飲み場があるだけだ。おそらく近隣住民の苦情や子供が危険な遊び方をするのを恐れた行政が本来あったはずの遊具を全て撤去してしまったのだろう。Fも変わり果てた公園の姿にショックを受けているようだった。
何よりも、大原凪紗が「枯れない木」と呼んだ木のオブジェらしきものがどこにもないことが相当ショックだったらしい。さっきまでの覚悟を決めた表情に徐々に陰りを見せ始めていた。
「やっぱり何もなかったな」
寂しそうに僕にそういうとFは来た道を引き返そうとした。その時だった。
「君はあの時の子か!」
入ってきたところとは逆の方から男性のしわがれた低い声が聞こえた。見ると、中年くらいのスーツを着た男性が立っていた。
「あなたは凪紗の父親の!」
驚いた様子でFは男の方を見て叫んだ。
「そうです! やっと会えた!」
嬉しそうに大原凪紗の父はFに駆け寄ると年季の入ったしわくちゃの手を差し出して強く握手をした。
「あの時はすまなかった。急いでいたとはいえ、娘が倒れたことを知らしてくれたのは他ならぬ君だったのにあんな失礼な応対をしてしまった。ずっと謝罪をしたいと思っていたんだ」
「いえ、仕方がないことです。それよりもあの一瞬の中でよく僕のことを覚えていましたね」
「忘れるものか。あの時も言っただろう『娘から君のことは良く聞いている』と。娘はいつも君のことを楽しそうに話していた」
嬉しそうに昔のことを話す大原父はFから聞いていた人物像よりも幾分柔和な人間だった。
「凪紗はどうしていますか?」とFは聞いた。
大原父は少し困ったように視線をFから逸らし、息をゆっくりと吸い込み、それを吐いた。何度かそれを繰り返したあと「凪紗はなくなりました」と彼は静かに切り出した。
「なくなった?」
「死んだんです。ちょうどあなたと会った一年後に」
Fはしばらく言葉を失っていた。口をパクパクしながら飲み込もうとするが理解が追い付いていないらしい。
「凪紗は元々体が弱くて、小さい頃から軽い運動もさせてやれないほど病弱だったんです。けれど、高校に入学してからは安定していて生活には何も問題もありませんでした。家ではクラスの友人や君の話を良くしていて、毎日楽しそうにしていた」
「なら、どうして……」
「高校二年の三月の頭辺りだったか、完治したと思われていた持病が再発したんだ。三月の間は比較的マシなものだったが、月を追うごとに凪紗の病状は悪化していった」
Fの話では確か年に一回会う約束をしたのはちょうどその頃だった。
「あの時、君は私に『引越したんじゃないのか』と聞いてきたね」
「ええ、卒業式の日に凪紗が僕にそう言ったのにあなたたちの到着があまりにも早かったので疑問に思って。でもあれは凪紗の嘘だったんですよね?」
「ああ、私たちはこの町を引っ越してはいなかった。ただ、凪紗は高校の卒業式の次の週から病院に入院することが決まっていたんだよ」
大原父は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「それからはずっと闘病生活だったよ。長い入院生活と投薬の副作用によって凪紗はみるみる衰弱していった。そんなときに凪紗が君に会いに行くと言い出したんだ」
その言葉を聞いて、Fははっとした様子を見せる。
「私は反対したよ。そんなよくわからんやつに会うために無理して何かあったらどうすると。しかし、娘は断固としていくと聞かなかった。『私はあの人に会うためにこの苦しい闘病生活を続けてきたんだ』って」
そうか、とFは膝から崩れ落ちた。
「あの時、君が言ったことの意味をずっと考えていた。なぜ凪紗は君にそんな嘘をつくようなことをしたのか」
大原父は懐から何かを取りだし、Fにそれを渡した。渡されたのはペンダントだった。Fはそれを見ていままで心の片隅で抱えていたものが爆発したかのように泣き崩れた。
Fが受け取ったペンダントはプラスチック製で木をデザインがされたものだった。
「凪紗は見栄を張っていたのだよ。君に心配を掛けたくないと」
その後、Fはずっと泣いていた。遊具もオブジェも何もない公園の真ん中で大切そうにペンダントを握りしめて泣く一人ぼっちの恋人がそこにいた。
四月の嘘 何雲しらね @SiraNe01
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