『やけくそ理論の考察』

すけだい

第1話

『やけくそ理論の考察』

 数値化された人々を上から監視して近代化させる共同体。それがどういうものだろうか? 考察しないと。

 元の理論の1つであるハイブリッドモダンは明治維新に共通点を見た。だから明治維新に照らしてみる。

 実学という数理を福沢諭吉は大事にした。だから、数字を重んじたはずだ。しかし、人々が数値化されたかは疑問である。

 どちらかというと昭和以降の福祉国家や数字主義の企業の方がイメージしやすい。もっというと、ネットによる再生数などの数値主義の方がイメージも沸く。現代の理論であり、明治維新には当てはまらないのだろうか?

 ハイブリッドモダン自体は。明治維新だけの特殊な理論でなく一般的な理論である。だから現代とかに通用していることは問題ない。そういえば、ネットは上からの近代化なのだろうか?

 ネットはどちらかというと中産階級のものになる気がする。遅れて国がネット対策するくらいだ。ここでもハイブリッドモダンの様相に疑問符がつく。

 国を超えたネットの波が近代化をしているとしても、上流階級からくるものだろうか? ネット上級者からの近代化ということだろうか? ネット起業は儲かり力を持つ。

 よく考えたら、ネットの数字自体は上流関係ない人々だが、監視しているのは上流の企業や国か。始まりが中産階級なのは実学でも同じで、利用できるから上流が下々の人々に近代化した。起源はともかく、便利は実学やデータがお上に使われて下々を監視して近代化するのか。

 迷走したが、数値化された人々を上から監視することはある。それが明治維新でも起きたのかは不明だが、現代では成り立つ。

ところで、近代化されているのだろうか、ポストモダンの特徴はあるのだろうか?

 ネット化・情報化を現代の近代化と捉えてもいいだろう。ポストモダンの特徴として、真理などなくバズったもの勝ちという相対主義などがあるだろう。

 現代は近代化されており、ポストモダンの様相もある。もう一度確認したい。

 数値化は、情報のデータやネットの再生数などだ。上からの監視は、ネット管理しているところが利用者に対して、理想的な数値を求めたり再生数による報酬で労働とする。近代化させるは、その利益によって数値化が進められる。

 元になった理論に戻ろう。アノミーという共同体がなくなって生じる不安は、数値化・情報化による時代の過渡期で生じた。共同体を探求していく中、数値化による共同体が求められる。それは福祉国家のように数値を上げたら報酬で生かしてくれる権力だ。

 当てはまる気はする。しかし、どうしても気になるのは、明治維新と似ているのか、ということだ。または、フランス革命などの中産階級による近代化との違いだ。


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