その穴には何がある
夢見ルカ
その穴には何がある
「何故ドーナツには穴が開いているのか?」
「なによ、急に」
先ほどまで雑談に花すら咲かせることよりも、頬を膨らませて夢中で口を動かしていた隣人は、ふと動きをとめ、質問というより独り言にも聞こえた。小首を傾げてこちらを伺っている気はするものの、私は横を見ることはできないのでぼんやりと前を眺める。
横目でも見てもらえなかったことが不満らしく、服の袖口を摘まみ、気をひこうとしてくるものだから、仕方なしに左手をハンドルから離す。その手で暇になった隣人の右手を捕まえた。嫌がる素振りが見られないということはこれで正解なのだろう。
「ん~、君は気にならないのかい?」
「いや、特にはならないかなぁ…。そもそも穴が開いている。というより、輪を作った結果なだけでしょう」
「むっ、君はつまらない奴だな。もっと夢を見てもいいと思うぞ」
不満を乗せた声音で隣人は文句をこぼし、右手はするりと捕まえていた手のひらをなぞって逃げていく。それならそれでいい。運転に集中するだけだ。
隣人が紙袋から新しいドーナツを手に取ったことにより会話も終わり、耳に届く音は車のエンジン音。ぼんやりと眺めていたガラスの向こうで、赤い光は青に変わっていた。ブレーキからアクセルに足を移動させれば、景色は輪郭を捕らえる前に後ろに流れる。
「夢を、夢を見ている場合じゃないもの。仕方ないでしょ」
「おやおや、夢を見るくらいの余裕は持っておいてもいいものだと思うがね」
いつの間に食べ終わったのか、指についた砂糖をお行基悪く舐めていた隣人に、行儀が悪いと注意してもどこ吹く風で聞く耳を持たない。
膝上に乗せていた紙袋から紙ナプキンを一枚取り出して口元と指をきれいに拭って、満足そうだ。
「ここは僕と君しかいないのだから、夢を見てもいいと思うよ」
「そりゃ? ここは私の車の中ですから? 外とは切り離されているかもしれないけれどね、それでもドアを開ければ現実しかないから。夢見るお姫様にはなれないんですぅ」
「ははっ、面白いことを言うね。僕にとっては現実だろうが、夢だろうが、君は僕だけのお姫様なのに」
嫌味をたっぷりと含ませたのに、隣人は軽快に笑ってのける。そう、こいつは可愛らしい顔をして、さらりとこちらが恥ずかしくなるようなことでも言う。
忘れていたわけではないけれど、あまり日常的に聞かない言葉に頬が引きつってしまいそうだった。
「う、るさいなぁ…。あと! もう着くから降りる準備をしてくれる?」
案外着くのが早かったものだと、溜め息交じりに言われたところで、いつかは目的地に着くのだからどうしようもない。私に連れ去る勇気などないのだから。
流れていく景色は段々とゆっくりになり、そう経たずに停車した。目的地に着けば、ふたりきりの世界も終わりを告げ、止まったことを確認した隣人はシートベルトに手をかけ外し、何が入っているのかわからないほど小さい鞄を持つ。
ドアを開けて外へと飛びでた彼女は、もう隣人ですらなくなってしまった。
冬服にしては布地の薄いスカートが風を向かい入れ、ふわりと膨らむ。ゆるく巻かれた髪も崩そうとする寒風に、隣人だった彼女は寒いと独り言ちつつ、後ろのドアに手を伸ばす。
温かく保たれていた車の中は暑いと言って、後部座席に放り投げたコートを取る。それは彼女が着ていたものではなくて。
「ちょっと! それ私のコート」
「もちろん知っているよ。まぁ、別にいいじゃないか。明日にでも返すよ」
私と彼女の好みは違う。ちぐはぐな組み合わせになるのもお構いなしに、私のコートに袖を通した彼女は、ふふんと胸を張って笑った。
明日も会おうという約束すら、こんな形でしかできない私たち。口実を作らなければ、次また会えるという確証が持てないでいるのだ。互いに。
「ところで、ドーナツの穴についてだが。実のところあれは、火を全体に通すための形だ。まぁ、諸説あるかもしれないが…。何事にも理由があるということだよ。そう、僕らの関係だって、ね」
だからといって、これから先も大丈夫だとは決して言ってはくれない彼女。そんな彼女は私のコートを整えて、ふにゃりと表情を和らげた。今日一番の笑顔が私にだけ向けられたと思うと、それもそうかもしれないなぁとゆるりと思考は溶けていく。
引き返せないところにいる自覚はある。好きだけで成り立つ関係じゃなくとも、たとえ、彼女の薬指に私以外の人間との約束が取り付けられているとしても。
私は彼女以外を選べない。
その穴には何がある 夢見ルカ @Calendula_28
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