淡紅、ひとひら
楸 茉夕
淡紅、ひとひら
本当は、こんなところ来たくなかった。
「うーん……悪くはないんですけど」
彼女は曖昧に言う。悪くはないが、良くもない。可も無く不可も無く。無難と言えば聞こえはいいが、ここに、少なくとも二年は住むと思うと踏ん切りがつかない。
「他の部屋、あります?」
もう何度目になるかわからない質問を投げると、不動産屋の若い営業は困ったような笑みを浮かべた。
「そうですねえ、他となると……もう一件、近くに……車で五分くらいですかね、あるんですけど。ご覧になりますか」
「ええ……じゃあ、一応」
営業と共に社用車に戻り、移動する。開店と同時くらいに来たのだが、そろそろ正午が迫っていた。
休日は無限ではないし、四月からは転勤先での仕事が始まる。引っ越しのことも考えると、もう決めなければならない。なのに、決め手がなかった。
(ううん……わたしが納得できていないだけ)
突然に地方勤務を言い渡された。理由は大体、想像がつく。拒否もできると言われたが、拒否したらどうなるかは火を見るよりも明らかだ。表だって告げられることはない。けれど、厳然とそこにある。口には出されないから、自分は何も言っていない、相手が勝手に想像したのだ、という言い訳が立つ。―――卑怯だ。
二年こちらで頑張れば、本社へ戻してもらえるという。それも本当かどうかわからないが、今の彼女はその言葉に縋るしかない。
緩やかな坂を上りながら五分ほど、車はこぢんまりとしたアパートの前で止まった。
「こちらです」
部屋数は少なく、一階と二階に二部屋ずつだろう。部屋の間に階段を挟んでいるので、隣室の騒音に悩まされることはなさそうだ。
「二階の東側なんですけど」
言いながら営業は鍵を開け、彼女を中へ通した。玄関を入って右手にバス、左側にトイレ。奥にキッチンと居室という典型的な1Kの部屋だ。やはり可も無く不可も無く、即断するほど悪くはないが、ここでいいと思えるものでもない。
彼女は無感動に、一応、靴箱やクローゼットを開けてみる。
「コンロはガスで、浴室乾燥機も着いてます。あと、ベランダが広めにとられてまして」
浴室乾燥機に興味は無かったが、ベランダはは気になった。掃き出し窓に歩み寄って開き、
「わあ……」
目の前に広がった景色に彼女は思わず声を上げた。
平野に囲まれた、少し高い場所に建っているアパートからは、遠くまで
(……綺麗)
春先の冷たい風を忘れるくらいの風景だった。こんなふうに景色を眺めたのはいつぶりだろうと考え、不意に何かが込み上げてきそうになる。
悪くない―――どころか、彼女はこの眺望をすっかり気に入ってしまった。夜はどんなふうに見えるのか、雨の日は、雪の日は。
意に沿わぬ転居でも、毎日この眺めが見られるのなら、悪くない気がした。
彼女は振り返り、声を投げる。
「ここにします」
「は……え? あ、はい! ありがとうございます!」
営業は一瞬ぽかんと彼女を見たが、バネ仕掛けのように頭を下げると、書類などを纏め始めた。
(……この風景は、好きになれるかも)
これならきっと、ここで生きていける。
了
淡紅、ひとひら 楸 茉夕 @nell_nell
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