おもいで
小烏 つむぎ
桜
春になると僕はあの人を思い出す。
川土手に咲く桜の並木を見ると、「違うわ」と笑ったあの人の声を今でも鮮明に思い出す。
「これはね、ソメイヨシノ。
私が好きなのはこっち。ソメイヨシノより色が濃いでしょ。寒緋桜というの」
おかげで僕は二十歳にして、桜にはたくさんの種類があることを知った。あれから二十年たった今でもソメイヨシノ、寒緋桜、枝下桜、八重桜、そしてあの人が「これは、珍しいのよ」と指し示した御衣黄のうす緑の花の先に今でもあの時の彼女の姿を見る。
僕より十三年上の彼女は、物知りで懐が深く愛情も深かった。共通の趣味は観劇で、とある劇団の打ち上げの席で出会った。
その劇団の公演の度に顔を合わせ、そのうち公演とは関係なく出かけるようになった。
彼女が桜が好きだというので、はじめての春には花見にかこつけてデートをした。そこで彼女が言ったのだ。
「これは、ソメイヨシノ。私が好きなのはこっち。寒緋桜というの」と。
それから桜が咲いている間、休みの日にはいろいろな桜の名所を訪ねて北上した。わずか一ヶ月足らずだったけど。
街の桜並木が葉桜になる頃には、僕は彼女の肌の手触りを知っていた。
彼女が髪をかきあげる仕草が好きだった。
髪をかきあげて現れる桜色の耳に後ろから軽く歯を立てると、彼女は湿度の高いくぐもった声を立てる。その声がとても好きだった。
僕が手を滑らせると彼女は猫が背伸びをするように体をしならせる。その背中に浮き上がる背骨のラインが華奢で愛おしかった。
驚かせると彼女はまず目を丸くして、それから溶けるような笑顔になる。年下の僕をいつもいつも甘やかせてくれて、たいていの事はその笑顔で許してくれた。
いつも、いつも許してくれていた。ただ、一回を除いて。
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