兄と婚約者

壷家つほ

兄と婚約者

 僕はその集落で最も裕福な家に生まれた。金持ちだからと言って特に甘やかされることもなく、一般的な常識が身に着く程度の躾はされていたと思う。

 そんな僕には、年の離れた兄がいた。

 長子である兄は何れ、集落全体に強い影響力を持つこの家を継ぐことが決まっていたが、幼い頃から身体が弱く、床に臥せっていることが多かった。とは言え寿命が縮む程の大病でもないようで、家長の座を他の者に、とはならなかったようである。

 大人達は何も言わなかったが、恐らく僕はこの病弱な兄を側で支える役割の者として、育てられていたのだと思う。

 兄は僕をなるべく側に置き、余り外には出したがらなかった。僕はそれが愛情や依存心によるものと勘違いし、幼いながらに万能感や他者への優越感を抱いていた。後にあれは全く別の感情であったのだと知ることになるが。



 今から十数年程前のある日のことだ。僕は兄の目を盗んで家の外へ遊びに出た。

 秘密の外出はよくあることなのだが、その日は同い年の女の子に小さな野花を貰い、浮かれ気分で帰宅したところで、目を血走らせた兄とばったり出くわしてしまった。

 兄は良く分からない言葉を喚き散らすと、僕の顔を思いっきり殴り飛ばした。そうして倒れた僕に馬乗りになり、今度は首を絞めつけてきたのである。

 支離滅裂な考えしか浮かばず、苦痛と恐怖に怯えて我武者羅に暴れていたが、ある瞬間からふっと身体が軽くなる。僕は喉の違和感に耐え切れなくなり、何度も咳き込んだ。

 咳が治まってきた頃、僕は肘を突いて上半身を起こし、自らの身体の様子を見た。すると、大人の男にしては細身の兄の身体が、僕の脚に覆い被さるように突っ伏しているではないか。

 彼はしばしば発作を起こし倒れることがあるので、また何時もの症状が出たのかと思ったが、ふと視線を上げるとそこにもう一人、見覚えのある着物を着た女が赤黒い夕闇を纏って立っているのに気付いた。

 鬼女の様な形相故に初めは全く見知らぬ人かと思ったが、暫く見詰めているとやがてその鬼女が兄の婚約者と同じ顔をしていることが分かる。

 彼女は今にも僕を食い殺さんかという勢いで睨んできた。それを見た僕はか細く悲鳴を上げ、立ち上がって逃げ出した。

 相手が追ってくる気配は感じなかった。



 あの後二人がどうなったかは、長い間知る機会がなかった。

 暫くの間、大人達が騒がしくしていたのは知っているが、当の僕は自室に押し込められ、風呂と厠の時以外は出してもらえなかった。そして、数か月後に漸く出られたと思ったら、集落の外に住む親戚の家へ養子に出されたのである。

 それから現在に至るまで、いくら僕が問い質しても誰も真実を教えてはくれなかったし、帰省も許されなかった。

 では、どのようにして彼等のその後を知ることが出来たのか。

 実は数年前、僕は旅行先の街であの婚約者の女と再会したのである。



 僕は彼女の顔など忘れ掛けていたが、相手はどのようにしてか幼子の僕と大人の僕の顔を一致させたようで、懐かしそうに話し掛けてきた。

 そして、あの事件のあらましを教えてくれた。

 どうやら兄は以前から、健康で彼に比べれば自由な環境にいる僕のことを酷く憎んでいたようだ。僕を側に置いていたのも、自分と同じ不自由な暮らしを味合わせる為だったのだ。

 だが、あの日僕が兄の目を盗んで外出していることを知り、発狂。偶々修羅場に出くわした兄の婚約者は混乱し、近くにあった置物で思わず兄の頭を殴ってしまったのだとか。

 兄は負傷し気絶したが、身体の傷は大事には至らなかった。

 問題は心の病の方で、未だに精神科の医師に診てもらっているのだと彼女は悲し気な顔で語った。実家は現在、親戚の何某が継いでいるのだという。

 この様な話を聞いている内に僕は気分が悪くなってきた。

 つまり僕が故郷から追い出されたのも、未だに肉親に会えないのも、あの狂人の兄や直系でもないのに家督を継いだ現家長への配慮からなのだろう。こちらは無断外出以外の悪事は働いておらず、ただ一方的に兄に恨まれただけなのに、余りに理不尽な扱いである。

 その後、僕は兄の「元」婚約者に彼女の住まい――現在はその旅先の街に住んでいるのだという――へとしつこく誘われたが、頑なに断り続け、足早にその場を立ち去ったのであった。



 しかし、話はそれで終わらなかった。

 数か月後、新聞の一面にある連続殺人事件に関する記事が載ったのである。被疑者は何とあの兄の元婚約者だった。

 被害者は何れも若い男性で、殺害方法は様々だが、皆死亡後に身体の一部を切り取られ、持ち去られているという共通点があった。

 奪われた部位は彼女の自宅で発見される。女はそれらを器用に縫い合わせ、一体の人肉人形を作り出していた。また、一部は庭に埋めたそうで、複数人のものと見られる人骨が発見された。

 逮捕された女は既に精神が壊れているらしく、意味不明な発言を繰り返しており、犯行の動機は不明と新聞には記載されていた。

 だが、被害者の顔写真を見た時、僕には全てが理解できてしまった。

 被害者の男性は皆、何処かしら兄に似ていたのである。


 恐らく兄は、あの日あの瞬間に、彼の婚約者に殺されていたのだ。


 兄を殺害後、女はその死体を運び出し――彼女はあの地域では名のある家の子女であったので、恐らく使用人が手伝ったのだろう――、自宅へと持ち帰った。その後、彼女はどういう理由でか生家を離れ、あの街へ移り住んだ。兄の死体と共に。

 時間経過と共に腐り落ち、崩れゆく兄の死体。

 恐らくは殺人の証拠隠滅の為ではなく、愛情と独占欲に駆られて死体を抱え込んでいた彼女は焦り、兄の形状を維持し続ける方法を考え続けた。だが、良家の出身と言えど学のない箱入り娘の彼女に、高度な防腐処理の知識がある筈もなく。

 その結果の、あの連続殺人事件だったのだろう。

 腐り落ちた部分に代替となる部品を取り付けて、それが腐り落ちれば庭に埋めて、また新しい部品を用意する。元の兄の身体は一体どれほど残っているのだろう。

 いや、それ以前に――。


 ――もしあの時、彼女の求めに応じて彼女の家を訪れていたら、僕はどうなっていたのだろう?

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