追憶Reminiscence ―あかね雲―

はくすや

春あかね

 三月末、春休みに私たちは住み慣れた家から高層マンションに引っ越しをした。

 母が二度目の離婚をして父――といっても私にとっては義父になる――との共同名義の家を売り払うことになった。

 双子の弟と妹はまだこれから小学二年生になろうかという歳だったから、なるべく転校しないですむように同じ学区内に転居先を探し、幸運にも駅前の新築高層マンションを購入することができた。

 マンションの購入は一年前、まだマンションが完成する前に決めたというから離婚もその時決めていたのだろう。

 母は有閑ゆうかんマダムからに戻った。それまで家にいることが当たり前だった母は夜遅くまで帰ってこなくなった。

 私が九歳離れた弟妹の面倒をみることになるのは必然だった。

 家事全般は私の仕事だ。

 授業が終わったら飛んで帰ってきて洗濯機を回し、買い物に出かけ、夕食の支度にとりかかる。弟妹の宿題もみてやらなければならない。

 さらに私は自分の小遣いを稼ぐために近くのファミレスでバイトを始めていて、土日はほとんどフルでシフトに入っていた。

 私はとても忙しい女子高生になったのだ。

 だから私はそれまで親しくしていた仲間とも疎遠になった。グループを抜けた理由は他にもあったのだが、ここではふれないでおこう。

 母の離婚にともない、私の姓は「浅倉あさくら」から「小早川こばやかわ」に戻った。生まれた時は「鈴江すずえ」、母が一度目の離婚をして「小早川」になり、再婚して「浅倉」、そしてこの度また「小早川」になったわけだ。

 その上転居して現住所も変わったから、私は春休み中に変更申請の書類を学校に提出する必要があった。二年生からは「小早川明音こばやかわあかね」を名乗る。

 私は家事とバイトで春休みもとても忙しかったから書類を提出するタイミングを逃してしまっていた。

 制服すらクリーニングに預けっぱなしで、髪も赤茶に染めていたから、校則の厳しい学校に顔を出すのを躊躇ちゅうちょしていたのだ。

 しかし、いつまでもそうしていられなかった私は、高一までの四年間担任をしてくれた水沢光咲みずさわみさき先生を頼ることにした。水沢先生しか頼る人がいなかったのだ。

 水沢先生は春休みも学校に来ていて、私がメールすると通用門まで出てきてくれた。

「制服、クリーニングに出しているもので」

 私が言うと先生は笑って「お入りなさい」と言ってくれた。だから私は私服のまま校内に入ることができた。異分子の侵入だ。

 母の離婚は二月だった。その際、私の姓も「小早川」になったのだが、クラスでは年度が変わるまで「浅倉」で通すことにしていた。

 バイト先では「小早川明音」と名乗っている。今回転居に伴い現住所を変更したので、正式に姓の変更と住所の変更を同時に行うことにした。

「大変だけれど、頑張ってね」水沢先生は当然のように励ましてくれた。

「先生も大変そうですね、毎日出勤ですか?」

「そうね。ちょっとクラス編成でいろいろあって」

「二年生から高等部進学組と混合クラスになりますよね?」

 一年生は中高一貫生と高等部入学生は別のクラスになっていた。それが二年生では半数ずつ混合したクラスになるのが恒例だった。

「A組は十八名ずつですか?」

「まあそうなんだけど」

「成績上位十八名ずつなら私もA組でしょうか」実のところ私はそれがいやになっていた。

「――それが今年はどうなるか決まっていないの。例年通りにはならないかもね」

「そうですか」私は少しほっとしていた。「名前も変わるし、違う自分に生まれ変わって二年生を楽しみたいですね」

 私はおかしなことを口にしていたようだ。水沢先生の顔が曇るのを見た。


 必要な書類を提出して、私は水沢先生とともに校舎を出た。そのまま二人で通用門へ向かう。

 今の私はここの生徒ではなく、一般人にしか見えなかった。そんな女の子がひとりで校内をうろついていてはいけないのだ。そのことを思い知ったのは、渡り廊下で泉月いつきに出くわしたからだ。

 東矢泉月とうやいつきは春休み中にもかかわらず今日も登校していた。年度の変わり目は特に生徒会は忙しいようだ。

「あ、泉月いつき……」私は気まずい思いを隠せぬまま以前と同じように彼女の名を呼んだ。

「どちら様でしょうか?」

 気づいていてこんな芝居がかった態度をとる。いつからそんな真似ができるようになったのだろう。

小早川明音こばやかわあかねです」私は新しい姓名を名乗った。

 泉月いつきが少し驚いたような顔をしたのは、姓が変わったことを初めて知ったからだろう。そばに水沢先生がついていたことも合わせて、何らかの用事で私が学校を訪れたことまで推察したに違いない。

 だから私服姿であることも理解してくれていると私は甘く見ていた。

さん――」泉月がかつての仲間を名前呼びしなくなってどのくらいたつだろう。「――髪は黒髪に染め直しておいて下さい。始業式でもその頭なら、いくらあなたでも容赦しませんよ」

「はい……承知しました……」私は笑ったつもりだったが、顔は強張っていたに違いない。

 隣で水沢先生が、ふふふと笑っていた。

 顔色ひとつ変えない泉月は、一歩も向きを変えずに、まっすぐ前を向いたまま去っていった。

「あれでも、かなり譲歩しているのよ」水沢先生が言った。

「わかります」私は笑った。

東矢とうやさんが変わったのはさんのお蔭ね」

です」

「あ、そうか、ハハ」

 私は水沢先生に丁重に頭を下げ、学校を後にした。


 新しく二年生の生活を迎えるにあたり、私はそれまでのことを振り返った。

 中でも「S組」と言われた仲間たちのことは絶対に忘れられない。特に泉月とはいろいろあったから。

 歩く先にあかね雲が見えた。

  過ぎし日をおもひてまど春茜はるあかね

 私は自宅マンションへの道すがら、それまでの学校生活を思い出していた。

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