第2話 記憶を失くした少女

自宅から自転車で約十五分。


俺は潮の香り漂う夜の海に着いていた。


皆生かいけ海水浴場」として地元民には親しみの深いこの海。


皆生は温泉街として栄えていて、海沿いの道には旅館が立ち並んでいる。


旅館の窓から溢れた光が水面に反射し、夜の皆生はどこか幻想的な雰囲気を醸し出していた。


俺は浜辺の前の道路脇に自転車をとめた。

そして、道路と浜辺を分ける冷たい石壁に手をかけ、ふわっと軽く飛び越えた。



さく。さく。



一歩、また一歩と足を動かし、砂浜に靴跡をつけていく。次第に目の前の大きな黒い海が近づいてくる。



ざざー。ざざー。



波がこちらにゆっくりと押し寄せる音が、俺の耳に入る。その音は鼓膜を通って身体全体に染み渡る感じがした。


「きもちいいな…」


ひとりごちて、俺はそっと瞼を下ろした。


波の音を聴き、微かに吹く潮風に当たり、海の匂いを嗅ぐ。


人間の持つ五感のうちの三つをフル活用して、俺はこの夜の海と一体になろうとする。


こうしていると、さっきまでの悩みや不安が和らいでいく。クラスメイトのこと、学校のこと、進路のこと、そして、俺自身のこと。


俺を煩わせるものたち全てが、次々と輪郭を失っていく。ほとんど透明なくらいに色も薄くなって、夜の海へ溶け込んでいく。



「世界からしたら、俺の悩みなんてほんの些細なものなんだろうな」


俺はまたひとりごちて、そっと瞼を上げた。


少しぼやけた視界に映るのは、冷たさと優しさを併せ持って、規則的に押し寄せる波。


そのまま目線を上げると、世界の果てまで続くような夜の水平線が静かに広がっていた。



少し砂浜を歩こうかな。



そう思い、俺は体を海と平行にするために回れ右をした。



「ん?」


その時、目線の先で何かが一瞬光った。



さくさくと音を鳴らして、俺はキラッと光が見えた方向へ歩いていく。



何か落ちているのだろうか…?



俺は細心の注意を払って、目線を下気味にして歩く。するとまた、キラッと何かが光る。


「ん…?って、あれは…」


俺は異変に気づいて駆け出した。



「大丈夫ですか!?」



俺は、うつ伏せで倒れている人を発見して思わず声をかけた。


その人のすぐそばまで駆け寄り、膝をかがませた。


「大丈夫ですか!」


もう一度同じ言葉をかける。倒れているのは髪の長い女性で、着ている服は砂まみれになっている。



…何か事件や事故に巻き込まれたのか?


そう思い、俺はポケットからスマホを取り出す。

百十番?救急車?いやその両方か。とりあえずどこかに連絡をしなくては…


そう思って取り出したスマホの画面には、今にもゼロになりそうなバッテリー残量が表示されていた。


「くそっ…充電するの忘れてた…」


普段ろくにスマホを見ないことが災いした。

俺はポケットにスマホを突っ込み、倒れている女性を抱え起こした。



「……っ」


俺は一瞬ドキリとする。


なぜなら、静かに眠るその女性の顔があまりにも綺麗だったからだ。


それと同時に、女性というよりは少女といった方が適切な気もした。ほんの少しだけ、あどけなさがまだ残っていたからだ。おそらく俺と同じく十代後半くらいだろう。


「大丈夫ですか?しっかりして下さい!」


俺は少女の体を揺らした。俺の瞳がキラキラと光る少女の髪飾りを捉える。


真珠の貝殻の髪飾り。これが先ほどの謎の光の正体であることに今気づいた。


「ん……」


体を揺らし続けていると、少女が微かに声を発した。ようやく意識を取り戻したようだ。


「っ…くん……」


苦しそうに顔を歪め、小さく唇を震わせる。

俺は少女の顔をじっと見つめた。


すると、少女の瞼がパッと開いた。


唐突に俺と少女の視線が交錯する。


その時、雲に隠れていた月が顔を出した。白い光が少女の顔を照らす。


「あの… 大丈夫ですか…?」


俺はゆっくりと言葉を発した。静かな波の音が俺たちの間を伝ってくる。


「ここは…どこ…?」


少女はそう呟いて、不意にがばっと起き上がった。


「ここは皆生の海岸ですけど…あなたはどうされたんですか?」


俺は少女の横顔に問うた。少女は茫然自失として座ったままでいる。


「なんで…私こんなところに…」


少女は周りを見渡した。


「あの…ひょっとして何があったか覚えてないんですか?」


俺は恐る恐る尋ねる。少女は俺の方を振り返る。貝殻の髪飾りがキラッと光った。


「何があったのかどころか……自分が何者なのかすら覚えてないわ」


「え…」


俺は言葉を失う。それって…記憶喪失?


俺の首筋にじんわりと汗が滲む。少女は服に着いた砂を手で払いはじめる。


「あれ…その服は…」


俺は少女の身を包む服を眺めた。紺色のセーラーに赤いリボン。それは米神市内のある高校の制服だった。


少女は大きな瞳を俺に向けた。凛とした顔で見つめられ、思わず俺はかたまってしまう。


その時。



ぐぎゅるるる。



大きくお腹の鳴る音がした。


「え…っ?」


気の抜けた声が俺の口から出る。鳴ったのは俺のお腹ではない。少女は俺を見つめていた瞳をわずかに逸らした。頬は微かに赤くなっている。


「悪いんだけど…」


少女が小さく口を開く。


「は、はい」


俺は少し遅れて返事する。



「ご飯、食べさせてもらえない?」



*******



「おにいちゃんが…彼女を連れて来た…!」


謎の少女を後ろに乗せ、ママチャリで家まで帰った俺。リビングに入って早々、漫画を読んでいた明里に驚愕の眼差しを向けられた。


「彼女じゃねーよ。この人は…さっき海で出会った人だ」


俺はぽりぽりと頭を掻いて、左隣に立つ少女の顔を見た。


「お邪魔します」


少女は無愛想な顔でぺこりと頭を下げた。


「えっと…つまりおにいちゃんは彼女でも何でもないさっき出会ったばかりの人をいきなり家に連れ込んだってこと?」


今度は若干引いたような目つきで明里が言った。


「単なる事実の羅列なのにどうしてこうも犯罪臭がすごいんだろうな…」


俺は頬に汗を浮かべて言った。するとまた隣から「ぐぎゅるるる」とお腹の鳴る音が。


「本当に悪いんだけど…空腹で今にも倒れそうだわ」


少女がお腹をおさえる。顔色も幾分か悪いように見えた。


「すぐに何か作るから、そこにあるお菓子でも食べて待っててくれ」


俺はちゃぶ台の上の煎餅の袋を指差してから、台所へと走った。


「恩に切るわ」


少女はちゃぶ台の前に行儀良く正座し、煎餅に手を伸ばした。


紺色の制服姿の少女を、明里は目を丸くして見つめている。


俺は台所にある冷蔵庫を開け、中を見渡す。


豚肉と焼きそば麺を発見した。さらに野菜室を開けると学校の帰りに買ったキャベツがあったので、俺は時短で焼きそばを作ることを決意した。



とりあえず豚肉を食べやすい大きさに切り、キャベツも千切りにする。


フライパンにごま油を入れ、カットした肉とキャベツを炒める。炒め終わったら一旦皿に移し、同じフライパンに焼きそば麺を投入。


豚肉の旨みをしっかりと麺に吸わすように片面ずつ焼き、箸で麺をほぐす。


ここでソースを投入し、混ぜ合わせる。ジュウジュウとした音と、ソースを絡めた麺が炒められる良い香りが台所中に広がる。


さらに豚肉とキャベツも入れて、もう一度全体を混ぜ合わせる。薄い煙がもくもくと上がって、換気扇に吸い込まれていく。


炒め終わった麺を皿に移し、最後に青ノリをぱっぱと振る。簡単でうまい焼きそばの完成だ。


冷えた麦茶がなみなみ注がれたコップと、出来上がった焼きそばを持ってリビングに向かった。


明里と少女はちゃぶ台を挟んで向かい合う形で、何やら話をしていた。


「ふむふむ…。気づいたら山の中で倒れていて、一日かけて何とか下山したら今度は海に着いて、最後は空腹で倒れてしまったと…」


明里は顎に手を当てて、ふむふむと頷きを繰り返していた。


少女は正座していて、ぴんと背筋を伸ばしている。天井の照明を反射して、少女の髪飾りが一瞬光る。


「とりあえず焼きそばを作った。味は保証しないぞ」


そう言って、俺は焼きそばが乗った皿と麦茶をちゃぶ台の真ん中にそっと置いた。


「いただきます」


少女はすぐに箸を手に取り、麺を啜り始めた。

すごいスピードだ。よっぽどお腹が減っていたのだろう。


俺はちらっとテレビの横のゴミ箱を見やる。開けられた煎餅の袋がごっそりと入っていた。


俺は一度嘆息し、明里の隣に腰をおろした。


正面の少女は、一心不乱に焼きそばを頬張っている。すごくいい食べっぷりだが、箸の扱いや麺の啜り方に汚さは一切なく、とても美しい所作だ。


「おにいちゃんの焼きそば、気に入ってくれたみたいだね」


明里が小声で俺の耳元に囁く。俺は一度明里の顔を見やるが、特に言葉は返さない。嬉しいような恥ずかしいような、そんな気持ちだった。


やがて少女は皿を空にし、カタッと箸を置く。

そして、冷えた麦茶をごくごくと飲み干した。


「…ごちそうさまでした」


少女はパン、と両手を合わせた。心なしか顔の血色も良くなっている。


「…それで、なんだけど」


俺は首筋に手を置いて、重たい口を開いた。少女が俺の目を見る。


「ほんとうに、記憶喪失ってことでいいのか?」


俺の言葉に、少女はこくりと頷いた。


「ええ。本当に何も記憶がないわ。唯一覚えていることといったら…名前ぐらいかしら」


少女は淀みない口調で答える。すると明里が急に身を乗り出した。


「え!?お姉さん、名前覚えてるの?

 ねえどんな名前?教えてよ!」


明里の目は輝きを宿していた。俺は少し嘆息してから、口を開く。


「俺も知りたいな。名前がわかれば、それだけで大きな手がかりになる」


少女は一度息を吐いてから、口を開いた。


「私の名前は…凪沙なぎさよ。穏やかな波のなぎに、沙羅双樹さらそうじゅの花の沙で、凪沙」


「沙羅双樹の花って平家物語に出てくるやつだよね?」


明里がひとりごちる。俺は質問を続けた。


「名字は何て言うんだ?」


すると、少女は困ったように汗を浮かべた。


「名字は…思い出せないわ。下の名前が凪沙ってことしか、覚えてないみたい」


「…マジか」


俺は腕を組んだ。名字が分かれば、誰かに「○○さんって知ってます?」と尋ねやすいものだが、どうにも下の名前しか分からないとなるとそれも難しい。


「でも凪沙さんって、東高の制服着てるよね?なら普通に考えて、東高の生徒なんじゃない?」


明里が口を開く。そう。明里の言う通り、少女の身を包んでいる紺色のセーラーと赤いリボンは、近所にある米神東よねがみひがし高校の制服だ。


「それも分からないわ。けど、この制服がその高校のものであるのなら、その可能性が高いのでしょうけど」


少女は、自分の胸元のリボンを見た。つられて俺も少女の胸元に視線をやる。


……結構大きいな。


一瞬、俺の脳内によこしまな思考がよぎった。俺は慌てて頭を空にするようにブンブンと振った。


「何してるの?おにいちゃん」


明里が隣から怪訝な視線を送ってくる。少女も不思議そうな瞳で俺を見る。


「な…なんでもない。気にするな」


「えーなんか怪しい」


明里はまだ俺を訝しんでいる。俺はそんな明里を無視して口を開いた。


「まあ、とりあえず明日にでも東高の方へ連絡を取ってみたらどうだ?それがダメなら警察に行くとか。…もしかしたら親御さんが捜索願いを出してるかもしれないしさ」


俺の提案を聞き、少女はそっと自分の顎に手を当てた。長い黒髪が少し揺れる。


「…まあそうするしかないわね。…けど、明日になるまでどこで過ごそうかしら」


少女が呟くと、明里が自分の胸をドンと叩いた。


「うちに泊まればいいじゃない!この家は私たち二人しか住んでないし、空き部屋も何個かあるし!」


「…ってマジで言ってんのか!?」


俺は慌てて明里の方を見る。明里は名案を思いついたように自慢げな表情をしている。


「大マジに決まってるわよ。それともおにいちゃん、こんな可愛い女の子に野宿でもさせる気なの?」


明里がまるで責めるような目をして言う。


確かに外で女子を一人で寝かせるなど、絶対に避けなければいけないことだが…一応、俺と少女は年頃の男女なわけで、俺もそうだが少女だって不安ではあるんじゃないか…?


少女はちらっと俺の顔を見た。


「…妹さんには悪いけど、遠慮しておくわ。いきなり押しかけてご飯までご馳走になって、その上泊めてもらうなんて申し訳ないもの」


そう言って少女は立ち上がった。


「ちょっと待ってよ、凪沙さん!」


明里も立ち上がる。俺は座ったまま二人を見上げていた。


「大丈夫よ妹さん。住宅街にある公園とか、夜でも比較的安全な場所で眠るから。私、そろそろ行くわね」


「凪沙さん…」


少女は明里に優しく微笑んだ。俺はそんな少女の姿を黙って見つめているだけだ。


「焼きそばおいしかったわ。腹ペコで死にそうだったから、本当に助かった。ありがとう」


少女は俺の目を見て小さく頭を下げた。そしてくるりと背を向け、リビングの出口へと一歩足を進める。



「待てよ」


「…っ!?」


気づいたら俺は立ち上がり、少女の手首を掴んでいた。少女は困惑したような顔で振り返る。


「俺は気にしないから泊まっていけよ。…ま、そっちが不安じゃないなら、な」


俺は少し俯いてそう言った。


「…本当にいいの?」


少女は少し目を丸くした。


「だから俺は大丈夫だって。明里もああ言ってるし、事件や事故に巻き込まれたら俺の責任になっちまうから、むしろ泊まってくれた方が助かる」


俺は握っていた手首を離した。少女は体の向きを変えて俺に向き直る。頭一個分だけ違う俺たちは目を合わせた。


「じゃあ、本日はお世話になります」


そう言って少女が深くお辞儀した。俺は少し慌てる。


「そ、そんな改まらなくても…えっと…」


俺が言い淀んでいると、少女は頭を上げた。そして、少しだけ口元を上げて、


「凪沙でいいわよ。…そっちの名前は?」


「えっと…間宮律まみやりつ。間宮とか、呼び捨てでいいから」


「了解。じゃあ、間宮くんと呼ぶわね」


凪沙が言うと、黙って見ていた明里が「はい!はい!」と叫んで手を挙げた。


「凪沙さん!私は間宮明里と申します!」


「わかった。よろしくね、明里ちゃん」


凪沙は少し首を傾けて微笑んだ。明里は「えへへ。凪沙さんに名前で呼ばれちゃった」と嬉しそうに笑みを溢している。


俺は嘆息し、ちゃぶ台の前に座り込んだ。


「疲れてるだろうから、先に風呂入りなよ。パジャマは明里のを貸してもらってさ」


そう言って、俺はリモコンを手に取った。


「ありがとう。そうさせてもらうわね」


「あっ!お風呂場案内する!」


そう言って二人はリビングを出ようとする。

俺はピッとリモコンを押し、テレビをつける。


画面には「いつか起こる地震に備えて」というテロップと、専門家が防災の重要性を語る姿が映し出された。防災特集か何かをやっているのだろう。


すると不意に画面が切り替わり、揺れる市街地と土砂崩れの映像になる。十年前の鳥取地震の瞬間だった。



「あの…凪沙さん?」


すると、後ろで心配そうな明里の声がする。俺はそれに気づいて振り返った。



「………」



そこには呆然とした顔を作り、微かに震える足で立ち尽くす凪沙の姿があった。








































































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