第1話 Summer is coming

『黙祷』


教室中に、スピーカーから流れる放送の声が響き渡った。


席を立った生徒たちは静かに目を閉じ、それぞれ祈りを捧げる。



静寂の中、聞こえてくるのはジージーと鳴くアブラゼミの声だけ。


首筋にじんわりと汗が滲むのを覚える。俺は瞼を上げることなくこの時間が過ぎるのをただ待った。


きっちり三十秒経った時、『黙祷、おわり』との放送が流れた。その瞬間、教室中を包んでいた静寂が途切れた。


教壇に立つ担任教師が、ゴホンと咳払いする。


「みんな、ちゃんと亡くなられた方々へ祈りを捧げたか?今日で震災から十年だ。それぞれ辛いこと、悲しいことがたくさんあっただろう。それでもみんなは、今高校生として日々を全力で生きてる。もちろん、先生含め周りの大人たちだってそうだ。あの経験があったからこそ、みんなは…」


「先生、部活あるんで帰っていいすかぁ?」


担任教師の話に割り込む、坊主頭の野球部員。


クラス中がワッと笑う。担任は顔を赤くして一度咳払いをする。


「とにかく…!今日は多くの方にとって思うことがある日だ。くれぐれも羽目を外しすぎないように」


新卒ホヤホヤの担任は、そう言って教室を出て行った。これでやっと帰れる。みんなスクールバッグを担いで、談笑しながら足早に教室を出ていく。


あの野球部のおかげで担任の長話を聞かずに済み、俺は胸を撫で下ろす。


窓から校門前を見下ろすと、既に多くの生徒が帰路に着こうとしていた。今度は校庭に視線をやると、早々にユニフォームに着替えた野球部員とサッカー部員が元気にはしゃいでいた。



教室内に視線を戻す。既にほとんどの生徒が出ていき、がらんとしていた。電気も切られ、薄暗くなった空間に太陽が差し込んだ。



「帰るか…」


俺は一人呟き、バッグの中から銀色のベッドホンを取り出す。買った当初のキラキラとした光沢は色褪せ、今や銀色というよりネズミ色になっている。何度か落としたせいで細い傷も何本か入っている。


無言でベッドホンを首に下げ、バッグを担いで席を立った時-。



「あ、ちょっと待って」


不意に声をかけられた。顔を上げると、正面に女子生徒が立っていた。眠たげな垂れ目と、二つに括ったおさげが印象的な杵村きねむらさん。うちのクラス委員長だ。



「…何か用?」


俺は伏せ目がちに答えた。すると杵村さんは自分のバッグに手を入れ、中からスッと一枚の紙を取り出した。



「これ、間宮くんまだでしょ?」


そう言って、杵村さんが掲げたのは先週配られた進路調査票だ。名前の欄には綺麗な字で「杵村舞夏きねむらまいか」と記入されている。


「ああ…いつまでだっけ?」


正直配られたことすら忘れていた。杵村さんは調査票をバッグにしまい直してから口を開く。


「終業式までだから、タイムリミットは後三日ね。何も思いつかないのなら、名前だけ書いてくれればいいから」


杵村さんは優しく微笑む。そんな彼女の顔を見て、俺は一つ引っかかったことを口にする。


「杵村さんも、書いてないんだな」


「え?」


小首を傾げる杵村さん。


「だから、進路調査票。今杵村さんが見せてくれた紙、名前以外白紙だっただろ」


俺の言葉に、杵村さんはなぜか少し顔を綻ばせた。


「うん。間宮くんが提出してくれたら、私も書くつもり。だから最後の一人は私になる予定」


「それって…」


「それって俺への気遣いか?」と言おうと思ったがやめた。俺が最後の一人になって変なプレッシャーを感じないようにという配慮など、心優しい杵村さんがいかにも思いつきそうなことだ。


言葉を止めた俺を不思議そうに見つめた後、何かに気付いたように杵村さんは笑った。


「『間宮くんが最後の一人にならない』っていうのは、裏を返せば『間宮くんが提出しないと私が提出できない』ってことだからね?」


「あっ、そうか…」


俺は杵村さんの魂胆にやっと気づく。


杵村さんはスクールバッグを担ぎなおして、くるっと踵を返した。結んだおさげがふわっと揺れる。


「じゃ、私のためにも必ず書いてきてね。

 よろしく間宮くん」


ほんの少しだけ意地悪な笑みを浮かべ、杵村さんは教室を出て行った。



「…さすがは委員長、だな」


俺は誰もいなくなった教室で、一人呟いた。


ジージーとうるさいセミの鳴き声と、野球部のかけ声が窓の外から聞こえてくる。


うざったいくらいに暑い夏が、すぐそこまで来ていた。



*******


「ただいま」


玄関の扉をスライドし、機械的に声をあげる。


返事はない。足元を見ると靴はあるため、妹は帰宅済みのようだ。


ガラガラと音の鳴る扉を閉め、鍵をかける。


靴を脱いで、歩くたびギシギシ悲鳴を上げる木の床を進んでいく。やや傾斜のきつい階段を登り、俺は二階に上がった。


二階は三つ部屋がある。左手が妹の部屋。右手が俺の。そして、俺たちの部屋に挟まれている小さな部屋が、物置き部屋だ。


俺はつま先を左手に向け、歩を進める。


コンコンコン、と妹の部屋の古びた扉をノックした。


「はーい」と中から元気のいい声が聞こえてくる。


カチャリ、と音がして扉が開く。



「おかえり、おにいちゃん」


中から姿を現したのは、中学のセーラー服に身を包んだ妹。右手にはシャーペンが握られていることから、勉強でもしていたのだろうか。


「ただいま。今朝明里が言ってたアイス買ってきたから、夕飯できるまで食べてていいぞ」


そう告げると、明里は満面の笑みを浮かべてシャーペンを放り出した。


「やったー!さすがおにいちゃん、わかってるぅ」


そう言って、扉も開けたままで明里はドタドタと階段を駆け降りていった。


「…ったく」


俺は嘆息しながら扉を閉めた。



自室にバッグを置き、制服を脱いで部屋着に着替えてから、下に降りる。


リビングを覗くと、ちゃぶ台で幸せそうにアイスを頬張る妹の姿があった。


俺は少し微笑んでから台所へ向かう。腕をまくって手を洗う。エプロンをつけて、米を炊飯器にうつし、水で研ぐ。


研ぎ終わった米を炊飯器にセットし、ピッとボタンを押す。そして冷蔵庫を開け、本日の夕飯の材料を取り出した。


今日はカツ丼とサラダを作る。


俺は先程スーパーで買ってきた具材たちを見下ろして、「ふう」と一つ息を吐いた。



リビングから流れてくるテレビの音。

「今日で鳥取地震から十年となりました。十年前の今日、鳥取県全域を震度六強、マグニチュード七.三の揺れが襲い、土砂崩れや家屋の倒壊によって多くの人々が…」



アナウンサーが深刻な声で、十年前の震災について話している。



「あれから十年か…」


俺はカタカタと音を立てて回る換気扇を見つめて、ぼそっと呟いた。




十年前。二千十年の七月二十二日、山間部を震源とした地震が鳥取を襲った。未整備だった山では土砂崩れが発生し、山間部に住む多くの人たちが生き埋めになった。また、この地震の後に市街地を震源とした中地震が群発し、建物の倒壊によって多くの人が犠牲になった。


幸い日本海側に位置することもあって大きな津波が来ることはなかったが、鳥取県で起こった自然災害としては観測史上最大の人的被害をもたらすことになった。


そして俺と明里は、この地震で両親を失った。父も母も倒れた家屋の下敷きになったのだ。


もちろん亡くなったのは両親だけではない。小学校の同級生や近所の人たちの中にも、命を失った人は数多くいた。


当時七歳と五歳だった俺と明里は何とか生き延び、その後は隣の市の倉橋市にある親戚の家で育てられた。


そこは母方の親戚の家だったのだが、正直に言うと俺たちとの折り合いはあまりよくなかった。なぜなら、俺たちの母は親族の反対を押し切って父と半ば駆け落ち的に結婚したからであった。そんな母と父との間にできた子である俺と明里は…当然可愛がられることはなかった。


そんないざこざに経済的な事情も加わり、俺が中学三年になる頃には母方の親戚たちは俺たちの面倒を見切れなくなっていた。



そこで俺たちは、最後の望みである父方の祖父母を頼った。彼らは俺たちがもともといた市である米神よねがみ市で医院を営んでおり、お金はたくさん持っていた。それに町のみんなから頼りにされるほどの人格者だった。


父方の祖父母は、俺と明里を引き取ることを快諾してくれた。俺と明里は当然安心のあまり胸を撫でおろしたが、その時の母方の親族たちの邪魔者が消えてせいせいしたような顔つきは今でも忘れられない。



ただ、俺たちは祖父母にある条件をつけられた。それは俺と明里で二人暮らしをすること。


祖父母は毎日夜遅くまで医院で働きづめであり、年齢的にも俺たちの生活の世話をする体力がなかった。そのため、祖父母が長年使っていなかった古い一軒家に、経済的な面倒だけ見てもらって住むことになったのだ。



そういうわけで、俺は米神よねがみ市の高校を受験し、高校入学を機に生まれ故郷へ帰ってきたわけである。




出来上がったカツ丼とサラダ、それに烏龍茶をちゃぶ台に並べる。俺と明里は向かい合って座り、手を合わせた。



『いただきます』


二人の声が重なった。


自分で作った料理に舌鼓を打ち、なかなか上手くなったもんだと思う。


「ん〜やっぱおにいちゃんは料理上手だねぇ。いっそ、お店とか開いちゃったら?」


明里がカツを頬張りながら言ってくる。


「いや…厨房だけならいいけど、接客が無理だから自分で店開くのはナシかな」


俺は烏龍茶で喉を潤してから言った。


「そっかー。もしおにいちゃんが陽キャだったらきっとメチャクチャ繁盛するだろうなー」


明里が俺をからかう。言い返したいとこだが、実際俺は…自分では思いたくないが、まあ、少なくとも陽キャではないことは本当だ。


「……」


俺は無言でどんぶりをかきこんだ。


「あっ。この猫可愛い〜!」


明里はテレビに視線を向けた。こいつの興味はすでに画面の中の猫にあるようだ。


俺はカチャッと箸を皿に置き、手を合わせる。


「ごちそうさま」そう呟いて、食べ終わった食器を台所に下げるため立ち上がる。


「えっ。おにいちゃんもう食べたの?」


明里が箸を置いて俺を見上げた。俺は肩をすくめ、「お前が遅いだけだろ?」と言う。


食器を持って台所に向かう俺の背中に、明里の声が届く。


「私がお皿洗うから、置いたままにしといてね」


明里の気遣いに、「ありがとさん」と俺は短く返した。


水で軽く汚れを落としてから、重ねた食器をシンクに置く。手を洗い、ギシギシと音を鳴らして俺は二階の自室に向かった。



ぼふっ。


すのこの上にマットレスを敷いただけの即席ベッドに倒れ込む。


「あー…なんか疲れたな」


天井を見上げ、呟く。なぜかいつもより疲れていた。それに、体よりも頭が。


「慣れない会話なんてしたせいかな…」


俺は放課後を思い出す。


杵村さんの策略にまんまとハメられ、進路調査票を提出しないといけなくなった。


穏やかで、誰にでも優しい。


ただそれだけの、人畜無害な感じの人だと思っていたが、まさかあんな落とし穴を掘るようなこともやってのける人だったとは…。


「人間って、本当に多面的だよな」


つい独り言が口から出る。俺は頭の後ろで手を組んで枕を作る。ふと天井に黒いシミがあるのに気づく。


杵村さんは、友達のいない俺に気を遣っていつも話しかけてくれる。それにみんながいる時ではなく、今日みたいな放課後とか、休憩時間で人が少ない時とかに。


それも全て俺への配慮なのだろう。なるべく俺が話しやすいように、と考えて時と場所を選んでくれている。


「はぁ…」


俺はため息を吐く。米神市に戻ってきたはいいが、小学生の時のような友達は誰一人として出来なかった。いや、俺自身が友達を作ろうとしていないだけだろう。


両親が亡くなり、明里と二人きりになった。


初めて行く土地にいきなり住むことになって、親戚の大人たちには散々鬱陶しがられた。


気持ちが落ち込んだまま新しい学校に転校し、同級生たちには厚い壁を作られた。


地震が起きる前のように、明るくて誰とでもすぐ友達になれた俺は、もうそこにはいなかった。


いつしか俺は、無気力無関心を地で行くような、冷え切った人間になってしまった。



もう高校二年の一学期が終わろうとしている。


きっとこれからあっという間に時間が流れていくのだろう。


来年は受験生だし…いや、そもそも今の俺の成績じゃ大学に行けるかどうかも怪しい。もし進学を諦めるのであれば、あと一年半後には就職して社会に出なければいけない。


ためしに自分が働いている姿を思い浮かべてみた。


「……」



無理だな。仕事で成果をあげられるかとか以前に、「報告・連絡・相談」すら出来そうにない。


外から微かにリーリーと虫の鳴く声が聞こえてくる。今日は夏の夜にしては涼しく、どこか寂しさ漂う静かな夜だった。


「はぁ…」


俺はまたため息を吐き、ポケットからスマホを取り出した。画面の光が俺の顔を照らす。


時刻は八時前。


俺は疲れを取り去るように重い頭をブンブンと振り、ベッドから立ち上がった。


机に置いたベッドホンを首にかけ、スマホをポケットに突っ込んで部屋を出る。


下に降りると、ちょうど明里が皿洗いをしていた。イヤホンで何か音楽を聴いているのか、ふんふんと鼻歌を歌っている。


「明里、ちょっと出てくるぞ」


俺の声に、明里は片耳だけイヤホンを外した。


「はーい。あんまり遅くならないでよ?」


俺は右手を挙げて答え、廊下を歩いて玄関に向かった。


靴を履き、鍵を開けて外に出る。


リーリーという虫の音が、部屋で聞いた時よりもさらに大きく俺の鼓膜を揺らした。


俺は裏庭に回り、たまにしか乗らないママチャリを引っ張り出すと、勢いよくまたがった。


ペダルを踏み込み、夜の冷えたアスファルトの上を走らせた。



心がモヤモヤする時は、海でも見に行こう。



俺は思い立つまま、虫の声だけが響く真っ暗な田舎道を、ママチャリで走り抜けるのだった。































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