彼の名前を

糸冬

彼の名前を

改名したい。いや、絶対にする。

僕がそう決意したのは三年前の中二の夏、クローゼットの片隅から出てきたモロゾフのクッキー缶の中を見てからだ。

その中には厳格な中高一貫教育の男子校を卒業した父とその恋人との、むせ返るような親密なやりとりが収められた手紙や思い出の品々がぎっしり入っていた。

六年分の青い春が閉じ込められた手紙達によると、父とその恋人は卒業式の日にネクタイを交換してきっぱりと別れたらしい。

緑と紺のダサいネクタイの裏側にはなんとも言えない臙脂色の糸で名前が刺繍されている。

久住豊、それが父の元恋人の名前だ。

そして、僕の名前は三木豊だ。

名前の変更は戸籍法107条の2に規定があり、正当な事由があり、家庭裁判所が許可した場合のみ可能だとされている。

つまり、改名は誰でも自由にできるのではなく裁判所の許可が必要であり、その為には裁判所が納得するような正当な理由が必要なのだ。

父の学生時代の同性の恋人と同じ名前をつけられ、名前を呼ばれる度に精神的な苦痛を覚える為改名したいというのは、多分恐らく間違いなくこれに該当するだろう。

しかし、いざ改名手続きをするとなると僕は父にクッキー缶の中身を見てしまったことを話さなくてはいけないし、同時に母に父の秘密の恋人の存在を暴露してしまうことになる。

それは気まずい。本当に気まずい。

母が何も知らなかった場合、僕が改名したいと騒いだことによって僕以上の精神的苦痛を味わい、最悪離婚という可能性もある。

父に同性の恋人がいた件については知っていたが、その元恋人の名前を僕につけたことは知らなかった場合も同じく修羅場だ。

仮にもし、母が全てを知っていて父の「元恋人の名前を息子につけたい」という意思に同意していたのだとしたらどうだろう。

その可能性については僕があまりにも不憫なので除外させて貰いたい。

これは同性愛者に対する偏見や差別、嫌悪感がどうこう等といった問題ではないのだ。

父に同性の恋人がいた。

そこまでは良い。父の人生だし、僕がとやかく言うようなことではない。

でも別れた恋人の名前を息子につけるのはちょっと違うんじゃないだろうかと僕は思うのだ。

もしも母が母の元恋人の名前を僕につけていたとしても、きっと僕は改名したいと望んだだろう。

要するに僕は、親の過去の恋愛の思い出に浸る場として、僕が一生使う名前という重大なものを使われたことが許せないのだ。

モロゾフのクッキー缶はクローゼットの奥深く、小柄な母では脚立を使っても届かないような高い場所に厳重に保管されていた。

きっと父にとっては家族には秘密にしたいけれど捨てることは絶対に出来ない大切なものだったのだろう。

その秘密を僕は偶然とはいえ暴いてしまった。見るべきでは無かったのだ。

しかし、見てしまったからにはもうどうしようも無い。何も知らなかった頃には戻れない。

クッキー缶を開けてしまった日、僕はショックで高熱を出し、寝込んだ。

起きては眠り、眠りは起きて、顔も知らない久住豊と僕より少し幼い姿をした父が淫らに絡み合う夢を見ては汗まみれで飛び起きた。

三日目の朝、ようやく熱が下がると僕は憑き物が落ちたように静かな心持ちになり、こう思ったのだ。

改名したい。いや、絶対にする。

そしてこうも思った。別れて十年以上前経っても尚忘れず、息子に同じ名前をつけてしまうほど、久住豊という人は魅力的な人物だったのだろうか。

僕は久住豊に会いたいと考えるようになった。

改名はしたい。絶対にしたい。

けれど、家族を傷付けたり狼狽させるのは本意ではない。クッキー缶を開けてしまってから三年、未だ父にそのことを打ち明けられずにいる僕は現実から逃避するかのように父の書斎に忍び込み、卒業アルバムを開いた。

几帳面な父が卒業アルバムの類を本棚に並べているのは知っていた。見ようと思えばいつでも見られたのに僕はそうしなかった。

きっと自分の中で久住豊が実像を結んでしまうのが怖かったのだ。

開き癖がついていたので久住豊は拍子抜けするほどすぐに見つかった。

少し神経質そうだけれど端正な顔をしたその少年は分厚い眼鏡のレンズ越しに僕を訝しげに睨んでいた。

心の中で、どうして僕の父さんはあんたの名前を僕につけたんだと思う?と問いかけると、四角く切り取られたフレームの中の久住豊は僕を小馬鹿にしたように口元だけで笑った。

「そんなの僕が知るわけないでしょ」


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彼の名前を 糸冬 @ito_fuyu_owaru

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