第45話 好きのしるし5(最終話)
このままだと
「タイムって何?」
動きを止めた尚人が、私の隣にいる健に声を投げる。
尚人に邪魔だとばかりに睨まれて、健は思わず肩をビクリとさせた。
「う……そんな目で見ないでよ。ちょっと伊利亜に言いたいことがあるだけだから」
「いいよ。どうせ勝つのは俺だから」
尚人が余裕を見せつけるように腕を組んで目を閉じる中、健はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「彩弓、ちょっと行ってくるね」
そう言うと、健は
すると、伊利亜の目が険しく吊り上がる。
「陛下との修行が身を結ぶ時だよ、頑張って」
そして健は伊利亜の肩を軽く叩くと、再び私の元に戻ってきたのだった。
「おい健、伊利亜に何を言ったんだ?」
「まあ、見てなって」
健が余裕たっぷりに言うと、尚人が再び拳を構えた。
「もういいの? じゃあ、今度は俺から行くよ」
束の間の休息でやや元気になった尚人は素早く移動すると、伊利亜の腹に膝を入れようとするが——伊利亜はそれを両手で受け止めた。
そして続けざま、尚人の膝をつかんだ伊利亜は、尚人をそのまま投げ飛ばした。
「なんだ? 伊利亜が急に強くなったぞ? 健、何を言ったんだ?」
「それは秘密」
「秘密だと? 気になるじゃないか」
「こうでもしないと、伊利亜は勝てないからね。ちょっとしたドーピングだよ」
「まさか、魔術で身体能力を強化したのか?」
「え? なんでわかったの?」
「私はあまり魔術が得意ではないが、そういう奴と戦ったことがあるからな。だが、あいつがこんな術を使えるなんて初耳だぞ。だれが魔術なんて教えたんだ? 健か?」
「それはちょっと言えないな……」
「そういえば、身体能力をあげる魔術なら、陛下が得意だったな」
「ぎくっ」
「どうした? 健」
「ほら彩弓、喋ってる場合じゃないよ! 伊利亜が尚人を圧してる!」
「おお、伊利亜! 頑張れ!」
***
「伊利亜、急に強くなったよね。何をしたの?」
「なんだろうな」
「まあいいよ。どんな小細工をしたって、俺が勝つから」
本気になった尚人は強かった。連撃に連撃をたたみかけた尚人に伊利亜は反撃することもできず、ひたすら守りに徹していたが——。
「——伊利亜! 尚人の足元を見ろ!」
彩弓の声を聞いて、下を向いた尚人の後頭部に、伊利亜が
「え? 今、何が起きたの?」
伊利亜の攻撃を見て、目を瞬かせる健に、彩弓は含み笑いをしながら説明する。
「ちょっとした不意打ちだ。伊利亜ならわかってくれると思っていた」
うつ伏せに倒れる尚人。
彩弓は尚人に駆け寄ると、その顔を横から覗き込む。
伊利亜の
「これは、伊利亜の勝ちだな」
「ちょっと反則だけど、勝ちは勝ちだね。それにしてもよく、彩弓の意図がわかったね、伊利亜」
「なんの話だ?」
「彩弓の『足元を見ろ』って言葉で、尚人が気をそらされた隙に攻撃したでしょ? よく彩弓の意図を理解したね。僕だったら、一緒に足元を見ちゃうけど」
「俺は何も聞いていない」
「え?」
「魔術で身体能力をあげている間は、反動で耳が聞こえなくなるんだ」
「じゃあ、さっきのは偶然ってこと?」
「……尚人に隙ができたのは有難かった」
「なんにせよ、勝ったのは私のおかげということだな」
誰よりも誇らしげに言う彩弓に、伊利亜はため息をついた。
***
伊利亜の
「どうだ、伊利亜は強かっただろう? 負けを認めるか?」
ゆっくりと身を起こす尚人に私——彩弓はそう確認する。
だが尚人はあくまで意地を張った。
「負けは認めてもいいけど、彩弓は諦めないよ」
「まだそんなことを言うのか?」
「俺はいつまでも待ってるって言ったでしょ?」
その頑なな態度に、さすがの健も困惑して告げる。
「待つだけ時間がもったいないよ、尚人」
「そうだぞ。私以外にも、世の中にはたくさん女がいるものだ」
「でも彩弓がいい」
「困ったやつだな」
私がやれやれとため息を吐く中、ふいに伊利亜が尚人に言葉をかける。
「尚人先輩」
その伊利亜の顔はいつになく真面目なもので——説教でもするのかと思ったのか、尚人はムッとした顔をしていた。
「なんだよ」
「相手が俺だから、こいつを奪えると思ってるんだろう?」
「そうだね。伊利亜は優しいから」
「ならもう、俺も好きにさせてもらう」
伊利亜はそれだけ言うと、私のほうに向き直る。
そしてひとつ咳払いをしたかと思えば、ハッキリとした口調で告げる。
「彩弓、結婚しよう」
「え、ええ!? 結婚だと?」
突然のプロポーズに困惑していると、伊利亜は相変わらずぶっきらぼうに訊ねてくる。
「嫌か?」
「い、嫌ではないが……私には伊利亜ジュニアが……」
「ぬいぐるみの次っていうのは気にくわないが、俺はお前を守れるだけの人間にはなるつもりだ」
「いや、自分の身は自分で守る」
「それがお前の返事か?」
「だが、私とお前二人なら、もっと心強いだろうな。結婚くらいしてやろうじゃないか」
「なんで上からなんだよ」
「お前もだろう。何が守れるだけの人間になるだ。私がお前を守ってやりたいくらいだ」
「……お前は……言葉すら素直に受け取れないのか」
「その言葉、そっくりそのまま返してやる」
私が腰に手を当てて、伊利亜に言ってやると、それを見ていた健がおかしそうに吹き出す。
「あはは、二人は本当に似たもの同士だね」
「やっぱり俺の方が、彩弓の相手に向いてると思うけど」
尚人の諦めない姿勢を見て、健はため息混じりに指摘する。
「尚人、この様子を見てもまだわからない?」
「何がだよ」
「彩弓と伊利亜は、心と心で繋がってるってことだよ」
「……認めたくない」
「ほら、二番目に好きな僕が相手をしてあげるから、彩弓は諦めなよ」
「……」
「ちょっと、そこはつっこんでよ。無言の肯定みたいで怖いんだけど」
「そうか、尚人は健のことが二番目に好きなのか……」
「彩弓、本気にしないでよ! 尚人も、なんとか言ってよ」
「……」
それから尚人は、心底おかしそうに笑った。
***
夜も遅くなり、薄暗い住宅街を歩いていた私は、隣の伊利亜に声をかける。
「尚人はあれで諦めたと思うか?」
私が少しだけ不安を告げると、伊利亜はふっと息を吐くように笑った。
「まさか。あいつは諦めるという言葉を知らないだろう」
「そうか。だが今度こそよそ見はしないつもりだ」
「……」
「なんだ。信じられないという顔をして」
「さんざんあいつに隙を見せておいて、信じられるかよ」
「なら、信じられるよう、私はお前と添い遂げる覚悟をしよう」
「結婚したところで、お前を独占できるとも思わないが」
「そんなに信用がないのか……仕方ない。ほれ」
私は道の真ん中で立ち止まると、襟元を少しだけ開けて伊利亜に見せた。
すると伊利亜も驚きながら立ち止まる。
「なんだよ」
「私の首にお前のしるしをつけろ」
「は?」
「この間ドラマで見たんだ。深い仲の男女が、キスマークというものをつけていた」
「お前……それはわかって言ってるのか?」
「ああ。内出血をつけることで、自分の物だという証にするんだろう?」
「お前……その中途半端な知識をどうにかしろよ」
「中途半端とはなんだ。好きのしるしくらい、つけさせてやると言ってるんだ」
「だからなんで上からなんだ」
「どうした? 嫌なのか?」
「だったら、覚悟しろよ」
「なんだ? ちょっとくすぐったい……何をする気だ?」
突然伊利亜に横抱きにされて、私は伊利亜の顔を見上げる。
伊利亜はなんだか楽しそうな顔をしていた。
「そんなにつけてほしいなら、隅々までつけてやるよ」
「はあ!?」
それから伊利亜は私を抱えたまま、うちのマンションに向かったのだった。
***
「今頃、彩弓たちは仲良くやってるかしら」
彩弓が帰路についた頃、尚人たちが戦ったビルの屋上には、友梨香の姿があった。
本当は伊利亜と尚人の戦いの一部始終を見守っていたのだが、彩弓がいる手前、姿を見せられなかったのである。
「成人するまで彩弓に触れさせないんじゃなかったんですか?」
だがずっとその存在に気づいていた健が、友梨香の隣に並んだ
すると、友梨香は独り言のように空に向かって告げる。
「私の言うことを守ってくれるお利口さんなのは有難いけど、ここまで進まないのは予想外だったのよ」
「だから、尚人と伊利亜を戦わせたんですか?」
「そうよ。人形遊びしてる二人を見てると、情けなくなって……思わず尚人くんをけしかけちゃったじゃない」
「……尚人も可哀想に」
「あら、健くん。あなた首に赤い痕があるわね」
「ただの虫さされです。勘ぐるのはやめてください」
「私は何も言ってないけど?」
「とにかく、彩弓と伊利亜が幸せなのは何よりです」
「そうね。あとは可愛い子供を待つばかりだわ」
「友梨香さんは意外と気が早いですね」
友梨香は綺麗に笑いながら、健を残してその場を去った。
***
翌朝。
伊利亜との戦いも色んな意味で幕を終えた尚人は、一人音楽室に来ていた。
誰も来ないとわかっていても、期待してしまうのは——団長の優しさが永遠だと思っていたからだ。
だがそれも、今日で終わりだろう。今度こそ手の届かない存在になった彩弓は、音楽室にも来ないに違いない。
それは最初からわかっていたことだった。
そう、全ては彩弓のために——。
こうなるきっかけは、彩弓の姉——友梨香の言葉だった。
「あなた、友達に嫌われる勇気はある?」
「なんの話ですか?」
彩弓のマンションに遊びに行った際、買い出しで皆が出払っている時に、友梨香に声をかけられた。
まるで、二人になるタイミングを狙っていたかのように。
そして友梨香はコの字ソファに座る尚人に告げる。
「伊利亜くんもあなたも、優しすぎるのよ。このままだと何も変わらないまま年だけ取るわよ」
「だからって、なんで嫌われる勇気なんですか?」
尚人がコの字ソファから立ち上がると、友梨香は綺麗に笑って——まるで尚人を見透かすような顔をしていた。
「みんな仲良しというのもいいけれど、本当に欲しいものを手にいれたいなら、友情を断ち切るくらいの気持ちでいなきゃ」
「でも、俺……伊利亜のこと、嫌いじゃないし」
「そういうところよ。団長の教育が行き届いているのは良いことだけど……お互いに遠慮しているでしょ?」
「遠慮なんて、しているつもりはないですけど」
「そう? だったらあなた、伊利亜くんから彩弓ちゃんを奪える?」
「……そのつもりです」
「なら、本気で奪ってみなさいよ。これからあなたたちは別々の道を進むんだから、これが最後のチャンスかもしれないわ」
「最後のチャンス?」
「そうよ。最後なんだから、決闘するくらいの気持ちでいなさい」
「でも伊利亜はそう簡単に挑発に乗るようなやつじゃないし」
「それなら、彩弓ちゃんをとことん伊利亜くんから引き離せばいいわ。そうすれば、きっと伊利亜くんも彩弓ちゃんを守ろうとするわ」
「そんな簡単に行くでしょうか」
「それもあなた次第よ。本気で彩弓を奪いなさい」
「それで、友梨香さんはいいんですか? 決闘なんて、俺が勝つに決まってるし」
「あら、わからないわよ」
「それに、勝った人間と一緒になるなんて、そんな強引なやり方……彩弓は嫌じゃないかな」
「彩弓ちゃんは勝負にシビアな性格してるから、勝った方と付き合うことで納得すると思うわ」
「……」
「どうするの? このまま指をくわえて見ているの? それとも、彩弓ちゃんを——」
「……やります。俺、彩弓を手にいれます」
そんな風に友梨香の話に簡単に乗ってしまった尚人だが、まさか伊利亜に負けるなどとは思わなかった。今になって、乗せられた自分を情けなく思う。
負けて全部を失うことになるなんて。
「——あ、尚人。来てたんだ」
誰も来ないと思っていた矢先、音楽室に健がやってくる。卒業まであと少しということもあって、自分と同じで名残り惜しくなったのだろうか。
そんなことを考えながらも、天邪鬼な尚人はそっけない態度をとる。
「べつに」
「そういえば、彩弓がまた人形遊びしようって言ってたよ」
「え?」
「今度は皆で」
「彩弓は……俺のこと、嫌いになったりしてない?」
「なんで?」
「だって、さんざん伊利亜から彩弓を引き離そうとしたのに」
「そこんとこは、僕がフォローしたから安心しなよ。それに皆、尚人が悪いやつじゃないこと知ってるよ」
「なんだよそれ……」
「これからは、いくら友梨香さんの言葉でも乗せられないようにね」
「……知ってたの?」
「聞いたんだよ。彩弓に嫌われるようなことをして、損するのは尚人でしょ?」
「違うよ……俺はきっと彩弓に嫌われたかったんだ」
「どういうこと?」
「そばにいられないなら、嫌われた方がマシだと思って」
「馬鹿だなぁ。好きな人に嫌われて、いいわけないし。無理するなよ」
「……」
「へい——友梨香さんみたいに変化を求めるのもいいと思うけど、尚人は尚人らしくいればいいんだよ。悪役気取って苦しむなんて尚人の性にあわないよ。普通にしなよ」
「……うん」
「ほら、帰るよ」
「もう帰るの?」
「どうせ彩弓たちは来ないだろうし、ラーメンでも食べに行こう」
「なんでラーメン?」
「僕たちの失恋祝いだよ」
「なんで祝いなの?」
「失恋したら、また新しい恋が始められるよね。だから祝いでいいんだよ。僕たちにとって新しいスタートなんだから」
「俺、健のそういうところ好きかも」
「惚れないでよ」
「……」
「だからそのタイミングで黙るのやめてよ」
口を膨らませる健を見て、尚人はこれでもかというほど大きな声で笑ったのだった。
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