第36話 プライド
木曜日の早朝。
涼しい地方ではあるが、六月下旬にもなると夏服の学生がほとんどだった。
校舎内が生徒の明るい声に包まれる中、伊利亜は無表情で廊下を歩いていたが——そんな伊利亜に一人の少女が声をかける。
「……あの」
「なんだ?」
制服ではなく、半袖ニットにロングスカートを来た少女は、行き交う生徒の注目の的になっていた。
そして少女自身は目立っていることが気になるのか、どこかそわそわと落ち着かない様子で、伊利亜に訊ねた。
「あの……
「あいつなら、すぐそこの教室にいる」
「ありがとうございます」
少女がにこやかに挨拶をして去る中、伊利亜はとくに気にする風もなく自分の教室に向かった。
***
「ねぇ、次のコンテストっていつなの?」
登校して間もなく、ルアにそう訊ねられて私——彩弓は手帳を広げる。
アナログが好きな私は、スマホよりも手帳に書き込むほうが好きだったりするのだ。
「ああ、次は七月だな」
「じゃあ、その時は誰のぬいぐるみを作るの?」
「まだ決まっていないが……健にしようかと思ってる」
そんな他愛のない話をしていた矢先、
「あの……」
クラスメイトの女子生徒に声をかけられた。羽柴さんだった。
ぬいぐるみ事件で気まずい雰囲気になって以来、話したことはなかったのだが……珍しく声をかけられて驚いていると、羽柴さんは引きつった笑みを浮かべた。
「えっと、彩弓さんにお客さんです」
「私に?」
「この人が……」
羽柴さんが連れてきたのは、私服の女性だった。
だが会った覚えのない女性を紹介されても、私は困惑することしかできず、黙っていると——ルアが耳打ちする。
「なに? 彩弓の知り合い?」
「いや、私は知らない……」
見知らぬ女性になんと言っていいのかわからず、ひたすら戸惑っていると、そのうち女性の方がルアに声をかける。
「あなたが彩弓さんですか?」
そう告げた女性の様子からして、やはり私の知り合いではないだろう。
すると、ルアが私に向かって手を差し出した。
「彩弓はそっちよ」
「わ、私が彩弓だが」
とりあえず挙手すると、女性は綺麗な目をいっそう輝かせて私を見つめた。
「嬉しい、やっと会えました」
「君はいったい誰だ?」
「私は
「……え」
霧生先輩と聞いて、衝撃を受ける私だったが、
「ええ!? 霧生先輩の妹!?」
いつの間にかそばにいる健が、私の代わりに驚いて見せる。
霧生先輩の妹と言えば、私より一つ年下じゃなかっただろうか。それにしては大人っぽい少女である。
私が黙って見つめていると、千枝さんは深々と頭を下げた。
「いつも兄がお世話になっています」
「霧生先輩の妹さんが、私になんのようだ?」
「あの……ここではゆっくり喋れそうにないので……授業が終わったらまた来ます」
「待つと言っても……」
「大丈夫です。
「甚十も一緒なのか」
「はい。なので、車で待ってます」
「わかった。今日は短縮授業だから、終わったらすぐに行く」
私が頷いていると、健と尚人、それにルアがそれぞれ顔を見合わせていた。
***
放課後、午前中のことなどすっかり忘れていた私だが——校門を出るなり駆け寄ってきた少女を見て瞠目する。
そういえば、霧生先輩の妹と約束したんだった。
「あ、彩弓さん」
「……えっと」
「千枝です。待つのは得意なので、気にしないでください」
「そんなにしょっちゅう待つことがあるのか?」
「その……いつも病院で一人だから……毎日兄や甚十さんを待ってるんです」
「そうか」
私が千枝さんの顔をじっと見つめると、千枝さんは恥ずかしそうに下を向いた。
「あの……やっぱりこのお化粧、おかしいでしょうか?」
「いや」
「私、顔色が悪いから……看護師さんにお化粧を教えてもらったんです。でもあまり上手にできなくて」
「そんなことはないぞ。千枝さんは綺麗だ。それに
「ふふ、よく言われます」
それから私は千枝さんと一緒に、学校近くの繁華街でカフェに入ると——外のテラスでお茶を飲みながら事情を訊ねた。
「それで、千枝さんはどうして私に会いに来たんだ?」
私が単刀直入に訊くと、千枝さんは少し戸惑いを見せた。
なかなか口を開かない千枝さんに、私はさらに訊ねる。
「何か理由があって、私に会いに来たんだろう? 違うのか?」
「あの……その……実は、お願いがあって来ました」
「お願い?」
「はい。……あの、えっと……兄さんと結婚していただけないでしょうか!?」
「は?」
「実は私、病気で先が見えなくて……だから、兄さんを一人にしたくなくて……」
「それでなんで私なんだ?」
「兄さんはよく、彩弓さんの話をしてくれるんです。彩弓さんの話のをする時の兄さんはとても楽しそうで……兄さんはきっと彩弓さんのことが好きだから、それを伝えたくて——」
千枝さんが最後まで言い終える前に、私たちの間に人影ができる。見上げると、霧生先輩が怒った顔をしてそこにいた。
「おい、こんなところで何してるんだ」
「ああ、
私が声をかけても、霧生先輩は耳に入っていないようだった。
そして千枝の腕を引いて無理やり立たせた霧生先輩は強い口調で告げる。
「俺の知らないうちに外出許可なんかとって……病院に帰るぞ、千枝」
「いやだよ」
「自分がどんな状態なのかわかっているのか?」
「わかってる。……だから彩弓さんに会いに来たんだよ」
「彩弓に何を言ったんだ?」
「兄さんと結婚してくださいって」
「お前は……」
眉間を押さえながらため息を吐く霧生先輩に、私は目を丸くする。
「許可がおりたなら、外出してもいいんじゃないのか?」
「お前には関係ない。これはうちの家族の問題だ」
「なんだと!?」
「ほら、帰るぞ千枝」
「いや」
「お前! また調子を崩したらどうするんだ」
「だから、会えるうちに会ってるんだよ。兄さんが意気地なしだから。……ねぇ彩弓さん。彩弓さんは兄さんのことどう思ってるの?」
「余計なことを言うんじゃない。帰るぞ」
「お願い彩弓さん」
千枝さんに懇願されて、私はいつになく動揺してしまう。
こんな時、あいつの顔が浮かぶなんてどうかしている。それに私はだれも選ばないと決めたんだ——。
「千枝さん」
私が覚悟を決めて口を開くと、霧生先輩が早口でまくしたてる。
「答えなくていい。お前の答えなんて、だいたいわかってるんだ」
「兄さんは、やっぱり意気地なしね」
千枝さんに意気地なしと言われて、黙ってられなくなった私は、真剣な目を千枝さんに向けた。
「いや、霧生先輩は意気地なしなんかじゃないぞ。霧生先輩の気持ちはよくわかってるんだ」
「じゃあ、兄さんと結婚してくれるの?」
「悪いが、それは出来ない。私は誰も選ばないと決めてるんだ」
「……そうなの」
「ほら、わかっただろ? 用が済んだなら、さっさと帰るぞ」
「ごめんなさい、兄さん。まさかこんな結果になるなんて……思ってなかったから」
「お前のそういう猪突猛進なところは、彩弓そっくりだな」
小さく肩を落とす千枝さんに追い討ちをかける霧生先輩だが、私はとあることを思いついて千枝さんに声をかける。
「……今度は私が千枝さんに会いに行ってもいいか?」
「え?」
「これも何かの縁だ。私は千枝さんとも友達になりたいぞ」
私が言うと、千枝さんは心から嬉しそうな笑みを浮かべた。
***
「……おい」
「え!? 彩弓さん?」
「会いに来たぞ」
日差しが暖かい昼下がり。
ルアの父親が運営する総合病院に私服でやってきた私は、中庭のベンチに座っていた千枝さんに声をかけた。
千枝さんはパジャマを着ていて、今日は化粧をしていなかった。
「もう来てくれたの?」
「ああ。友達だからな」
「学校はいいの?」
「今日は休みなんだ」
「そっか」
「千枝さん」
「千枝でいいよ」
「千枝はいつもここにいるのか?」
「そうだね。やっぱり外の空気は気持ちがいいから」
言って、千枝は伸びをしながら空を見上げた。
その顔はとても穏やかで、やっぱり霧生先輩に似ていると思った。
それから私は、週に一、二度ほど千枝に会いに行った。
千枝は学校について聞きたがっていたので、私は健たちの話をたくさんした。
そしてあっという間に仲良くなった私と千枝は、時々外出許可をとって出かけるようになった。
「彩弓は将来の夢とかあるの?」
「将来の、夢……?」
いつもの病院の中庭で、突然訊いてきた千枝に、私は少しだけ困惑する。
将来と言うと、なんだか胸が詰まる感じがしたが、千枝は気にする様子もなく優しい笑顔を浮かべていた。
だから私も気兼ねなく告げる。
「私はぬいぐるみ作家になりたいんだ」
「すごい! 彩弓はぬいぐるみが作れるの?」
「ああ——そうだ、千枝のぬいぐるみも作ろうか?」
「ほんとに? 彩弓はどんなぬいぐるみが作れるの?」
「なんでもいいぞ。猫でもウサギでもトラでも」
「じゃあ、
「おお、猫なら得意だぞ。最近よく作ってたからな」
「彩弓は猫が好きなの?」
「そ、そうだな。猫が好き……かもしれない」
「もしかして彩弓、好きな人が猫に似ているの?」
「ななな、何を言うんだ! 私は猫が好きであって、あんなやつのことは……」
「そっか。彩弓には好きな人がいるんだね」
「いや、決してあいつのことは……」
「どうして否定するの? 人を好きになることはいいことだって、甚十さんが言ってたよ」
「だが、私が好きになることで、壊れてしまうものがあるんだ。大切なものがバラバラになってしまうんだ」
「彩弓の大切なものってなあに?」
私は言うべきかどうか悩んだ末、千枝に前世の話をしてみることにした。
すると、千枝は話の間、ずっと目を輝かせていた。
「素敵! とても素敵なお話だね。……いいなぁ、私も騎士団に会ってみたい」
「なら、今度連れてこよう」
「本当に? 嬉しいな」
「皆、良い若者ばかりだぞ」
「それで彩弓は、騎士団が壊れてしまうのが嫌なんだね」
「ああ、そうなんだ」
「でもやっぱり、彩弓には兄さんを選んでほしいな」
小さな声で告げる千枝に、私は何も言うことができなかった。
***
翌日、私は学校の体育館倉庫を訪れた。
そこに行けば霧生先輩に会えると思ったからだ。
そして相変わらずジャージ姿でマットに寝転ぶ霧生先輩に、私は大きな声で呼びかける。
「よう、霧生先輩」
「なんだ。彩弓か」
のそりと動きだす霧生先輩。
いつからだろう。霧生先輩に団長と呼ばれなくなったのは。
少しだけ違和感を覚えながらも、私は気にしないふりをして霧生先輩に近づく。
「今日は話があるんだ」
「なんだ? どうせなら、うちに来るか?」
霧生先輩の誘いに、私はぎこちなく頷いた。
「何かあったのか?」
「別に……何もない」
「俺の部屋には来ないって言ってたやつが、突然どうした?」
「話があるんだ」
「なんだ?」
「私は……霧生先輩のそばにいたいんだ」
「それは、俺を受け入れるってことか?」
「ああ、そうだ」
彩弓はごくりと固唾をのみこむ。
「千枝が何か言ったのか?」
「……いや」
「悪いが、帰ってくれないか」
顔を上げると、いつの間にか立ち上がっていた霧生先輩がきつい形相で私を見おろしていた。
「霧生先輩」
「同情はやめてくれ」
「同情なんて」
「だから千枝に会わせたくなかったんだ。なのにあいつが勝手に……」
「千枝のせいじゃない。私が考えてここに来たんだ」
「俺が……なんのために走り回ったと思っているんだ。俺はあいつらと正々堂々と戦いたかったんだよ! お前はそういうやつが好きなんだろ?」
「……霧生先輩」
「わかったなら、早く帰ってくれ。このままここにいたら、俺はお前に何をするかわからないぞ?」
「……私が悪かった。お前の気持ちを考えもしないで……」
「ああ、彩弓がトリ頭なことくらいわかっている。だがたとえあいつにお前を取られても、このまま諦めるつもりもないから、覚悟しておけよ」
自分の間違いを悟った私は、霧生先輩の清々しい笑みに見送られながら体育館倉庫をあとにした。
「霧生先輩はカッコいいやつだ。私も負けてられないな」
霧生先輩の強さにときめいてしまったことは、その日の私だけの内緒だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます