少女の追憶
美術館を出たあとは、昼間に見て回れなかった洋服屋や近くのカフェで、時間を潰すことにした。
数軒ほどを見終え、外に出ると既に日も暮れ始める時間帯だ。
夏空がオレンジと群青とその中間色に染まり、その綺麗な空模様に思わず感嘆のため息を漏らしてしまった。
「あっ、このクレープっ。前に来たことがある場所だっ!」
沿道を歩いていると、その一角で開けたスペースを見つけた。広場のようなその場所は住宅街に囲まれていて、その中にクレープの屋台もある。
「まだあったんだ、懐かしいなぁ。何にしようかな〜?」
「いきなり食べる前提かよ」
「いいじゃんいいじゃん! お腹が空いちゃったんだもん」
「そんなに食べると——いや、太らないんだっけか」
「そそ! アヤセくんもこの世界の常識が段々と分かってきたじゃん」
なにが嬉しいのか、茅乃は頬を綻ばせて見せる。
「ちょっと待ってて、行ってくる! アヤセくんは食べる?」
「いや、やめとく」
「そう。えぇっと、じゃあコレと、コレをください!」
おい待て、二つも食べるのかよと内心で軽口を挟む。クレープ屋へと駆け込んでいく茅乃を見て、相変わらずの無邪気さに笑みが溢れた。
「さてと」
茅乃が注文をする間、近くのベンチへと腰を下ろした俺はニヒルに注文する茅乃を眺め、少しだけ考えていた。
「それにしても、この世界の常識か」
体型が変わらないこと。
通貨という概念がないこと。
不可視の境界線があること。
そして、ニヒルという謎の
この世界に来てすぐは、その異常さを受け入れられずにいたが、その姿にもすっかりと慣れつつあった。
今では笑顔でニヒルと会話をする茅乃の後ろ姿を見つめても、違和感を感じ取ることすらほとんどない。
——いや、
そんな馬鹿な妄想に花を咲かせていた、そのときだった。
夕陽に染まっていたはずの広場で、
虚空に浮かぶ、その泡沫を視界に収めたのは、
なんだ、コレ————。
ソレはバスケットボールほどの大きさで、シャボン玉のようにふわふわと宙を漂いながら彷徨っている。
外部の色彩はニヒルのように半透明だが、その膜の内側にはこことは別の景色が映し出されていて、青空のようにも見えるその下には、背格好の異なるシルエットが二つあった。
突然のことに驚いたが、ソレは綺麗で、きっとこれは情景反射なのだろう。檸檬や梅干しを見るだけで口内に唾液が分泌されるように、俺はその綺麗な泡沫に手を伸ばしていた。
「ッ————!!」
突如、自身の視界が霞み始めた時に、俺はそのナニカに指を触れていたことに気づいた。強引に意識だけが別の何処かへと誘われているようで抗うことも叶わない。徐々に身体のブレーキを失って、夢を見ているような感覚に襲われる。
もはや、思考もままならない。
『いいにおい——なに、あれ?』
ぽつり、と。
俺の耳に甲高い少女の声が届いた。変声期を迎える前なのだろう、その少女の容姿は小学生くらいだ。その手にはハート型の風船が握られていて、少女は頭に疑問符を浮かべながら、クレープ屋を指差した。
どうやら、さっきまで見ていたクレープ屋と同じものらしい。しかし、空は快晴で気温も涼しい。風景は類似しているが、その季節や場の雰囲気はガラリと異なる。さっきまでの空気感とは違うカラッとした風が吹き抜けた。
『あれか、クレープ屋だな』
『くれぇぷ? くれぇぷ、くれぇぷ!』
『駅の近くにこんな店があったとはな。どれ、一つ頼んでみるか』
少女の隣にいるのはその父親だろうか。少女の頭にぽんと手を置いて、穏やかな表情を浮かべる。
この景色は、なんだろうか。
しばらくすると、店員の快活的な声が聞こえて、その男はクレープを受けとった。注文したのはオーソドックスなチョコバナナクレープだ。
少女の背丈まで屈んだ男は、クレープの包装紙を剥いて言葉を続ける。
『ほれ、茅乃。ここの部分を齧ってみろ』
————茅乃と。
紛れもない、紡希茅乃の名前。しかし、どういうことだろうか。あまりに唐突なことで、理解が追いつかない。
『どうだ、食べられるか?』
『んーっ!! もうひとくち、もうひとくち!』
『ハハッ、そう焦らなくても獲ったりしないから大丈夫だぞ。でも、このことは、君の母さんには内緒だからな』
『しーーーっ』
『おっ、流石は我が娘だ。よく分かってるな』
楽しそうに談笑する父と子供。その姿を見ているだけで、どこか心が洗われるようで、ふと少女の横顔が俺の知る茅乃に重なるような気がした。
その時だ。ぷつり——と、誰かに外側から身体を揺すられ、内部に集中していた意識が強制的に切断される。
起こしたのは他でもない、茅乃だった。その表情はどこか儚げで、不安そうな茅乃を前にして、やっと現実感を取り戻すことができた。
一体、どれくらいの間、あの微睡みに浸っていたのだろうか。
気付けば、さっきまでの長閑な風景は吸い込まれるようにすでに消え失せていて、身体の自由も効き始める。しかし、依然として理解は置いてけぼりだ。
「——ねぇ、どうしたの? 茅乃くん」
椅子に座っている俺を前から呼ぶ声がした。
「いや、なんだか頭がボーッとして——夢? を見ていたような」
「ゆめ?」
「いや、夢じゃないな」
俺が見たものは茅乃と呼ばれる少女とその父親らしき者の会話の一部だ。そして、あの泡のようなナニかに触れた瞬間に起こった。
「あれは、記憶か?」
そう口にした瞬間にさっきまでの違和感がすとんと腑に落ちた気がした。だが茅乃は、俺に何が起こっていたのかを知らないようだ。
「なぁ、茅乃。ここに初めて来たときは誰と一緒だったか覚えてるか?」
「えっ。えっ!?」
いきなりの質問に茅乃は慌てふためきながら、必死に思い出そうと頭を回し始めた。普段は余裕な態度をとっているけど、予期しないことには弱いのだろうか。
「誰と、だっけ。んー、あんまり覚えてないかも。でも確か、お父さんだったかな? あ、いや。お母さんだったかも!?」
「そう、だよな。随分と昔のことだもんな」
「うん。けど、あの時に初めてクレープを食べてから、甘い物の魅力にはまっちゃったんだよね」
茅乃の答えを聞いて、やっぱりそうだと納得していた。
茅乃は前に来たことがあるとしか言っていなかったが、どうやら初めてきたのは子供の時のようだ。だとすれば、あの景色が茅乃の記憶であることも、あながち間違いではないのかもしれない。
忘却の彼方に忘れ去られてしまった、茅乃の記憶。
「よっと。隣もらうねっ」
じじ臭い掛け声と共に茅乃が隣に座ってきた。さっきから、目だけは手に持ったクレープへと向けられていた。どれだけ、食欲に素直なのか。
観察していると茅乃がどちらのクレープから食べ始めるか迷っていることに気付いた。これは見物だと観察を続けると、いくら考えても答えがでなかったらしく、両手に抱えたクレープを見比べて、同時に齧りついた。なるほど。
味、混ざらないか?
「ん〜、へっひんはえぇ!!」
「それは良かったな」
茅乃が購入したのは苺チョコレートとバナナチョコレートというクレープらしい。右、左、右右、左と、両手のクレープを交互に口に運んではその甘さに頬をゆるませている。
まるで可愛いを極めたようなその仕草の一つ一つは、いい意味でも、悪い意味でも実に女の子らしかった。
「あっ、アヤセくんも欲しい?」
しばらく食べ進めたところで、自分だけ食べていることが申し訳なくなった茅乃が訊ねてきた。
「いや別に」
「ほんと? なんか、こっちをじろじろと見てたし、私ばっかり食べてるのが不満なんだね!?」
「そんなに見てたか?」
「うん、まぁ」
さっきの泡沫の件もあり、観察していたのがバレたらしい。しかし、急にそんなことを言い出しても、困惑させるだけなので、誤魔化した方が良さそうだ。
「ああ。実を言えば、さっきから羨ましいと思っててだな」
「あっ、やっぱり!! じゃあ、アヤセくん! ほれほれ」
「ほれ? クレープをこっちに向けたりして」
「いや、だから一口あげるってこと」
茅乃は顔を傾けながら、クレープを更に突き出してきた。
「——? なんでそんなことになったんだ」
「違うの?」
クレープとともに前傾姿勢で迫る茅乃を見て、俺は茅乃が一口食べさせようとしているのだと気付いた。
たしかに羨ましいと言われたら、ちょっとだけならと差し出す流れになるだろう。ここは流れに身を任せて、一口だけでももらうべきか。
俺は齧りつくために顔をクレープに近づける。すると、茅乃の口角がにやりと上がったのを視界の隅に捉えた。
「あれ? アヤセくん、もしかして、間接キスとか考えちゃってる?」
「かんせ——っておいっ、変なこと言うなよ」
「ん〜? 変なこと?」
素っ惚ける茅乃を見て、俺はようやくその策略に気がついた。
これは茅乃が俺を揶揄うために敢えて恋人っぽいことを提案しているのだ。実際に茅乃のクレープに口をつける行為自体は恥ずかしい。
だが、それを伝えることは敗北を意味しているのも事実なのだ。
目の前に突き出されたクレープをじっと見つめて、生唾を飲み込む。
「別に何も考えてないからな。食べればいいんだろ」
「おっ、やけに強気だね。ならはい、あーん」
そんな恋人同士のような掛け声と共に突き出されたクレープをゆっくりと口に運んでみる。俺が噛みつくと茅乃の口角が一層、上がった気がした。
味だ、味に集中しよう。そうすれば、変に意識させられることもない。
余計な邪念を消し去るため、そう試みることにした。
味、どんな味だ? 甘い香りの生地を覆うようにして配置される苺の感触とチョコレートの渋み。それと生クリームの食感が口に広がり、さらにそこに加わっているのが茅乃の——、
「ゴホ、ゴホッ」
考え事に余計な邪念が入ったせいで、つい噎せてしまった。考えないよう味に集中する行為自体が、逆効果でだったようで、余計に間接キスを意識させられてしまうことに。
いちおう、平然を装ってみるも、効果はなかったようだ。
「あっ、アヤセくん。顔赤い〜」
「——いや、夕陽のせいだろ」
「言い訳がベタなんだよなぁ、それじゃあ、私は騙せないよ」
勝利への確信を含んだ目で、茅乃は笑っていた。
ああ、負けでいいよ。
そう告げようと様子を見てみると、ふと茅乃のある変化に気付いた。
「ぐっ。なら、茅乃だって赤いけどな」
「私? あはは、そんなわけないじゃん————って、あれ?」
おかしいな? と、そう頬に手をあてて、その温度を確かめているようだ。そして、軽く俯いてから、顔を上げた茅乃は飄々と言い切る。
「これは、夕陽のせいだね」
「おい」
そんな軽快なツッコミにくすくすと笑う、茅乃。結局、この無駄な一連の流れは全てが夕陽のせいということで話がつき、いつ始めたかも分からない勝負は引き分けで終わった。
「それで、味はどうだったの?」
「味? ——ま、まぁ普通に美味かったかな」
正直なところ、味にそこまで集中することはできなかったのだが。
「でしょでしょ!! スタバの時から思ってたけど、やっぱりアヤセくんもスイーツ道の才能があるよ」
「なんだよそれは」
「一言で言えば、甘い食べ物を極める者たちの志す道だね。アヤセくんがどうしてもというのなら弟子にしてあげても。ん、甘い〜」
「遠慮しておくよ。あと、食べるか喋るかどっちかにしたらどうだ?」
「ほうはえ」
「分かってないな」
喋っている間ですら、クレープを食べる手を休めることはない。器用なやつだと思いながら、俺は茅乃が食べ終わるの眺めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます