孤独な少女

 ヨハン・クレー。フランスを拠点にアーティスト活動をしているドイツ人画家だ。クレーとはドイツ語でklee、シロツメクサを指している。彼の生み出す写実的な筆の中にある大胆さとメッセージ性が一部界隈では親しまれているようだ。


 美術館への道は茅乃が知っているようで、目的地には恙無つつがなく辿り着いた。館内に行く道中に境界線が存在しなかったのは幸いだろう。

 俺は受付でニヒルに渡された紙のパンフレットを閉じると、絵画展の入り口を前に一息ついた。


「ここか」


 入館するとすぐに静謐な空間をツンと鼻を刺激する絵の具の匂いが充満していることに気づく。強烈で独特な香りだったが決して嫌ではない。中には拒絶反応を起こす人もいるようだが、茅乃も平気そうにしている。


 淡いグレーの壁に掛けられた幾つもの絵画は、適度に調節された照明を浴びて鮮やかで深みのある色を作り出していた。各絵画の隣、そこに置かれたプレートには作品のタイトルや著者、制作年が刻まれている。


「まるで、写真だな」


 一枚、また一枚と館内を奥に進んでいけば小から中規模の美術館など、わりとすぐに見終えてしまう。境界線を調べつつ、一通り絵画を眺めたが残念ながら胸を穿つような作品に出会うことはできなかった。

 芸術的センスというものは誰にでも備わっているわけではないのだろう。茅乃が俺をリアリスト・・・・・と言っていたのも納得だ。


 勝手ながら持論を唱えると、芸術とは過去の経験や知識、その人自身の境遇によって初めて解釈されるものであると考えているため、記憶のない状態の俺が見たところで、無垢で無知な幼稚園生の感性と大差はない。

 結論、上手いけどその絵の本来の良さが伝わらない、といったなんとも悲しい事態になるわけだ。


「————茅乃?」


 何処からだろうか。気づけば、茅乃と途中で逸れてしまったらしい。じっくりと作品を堪能するとしたら、見て歩くペースも違ってくる。


 茅乃を探しに元のルートを引き返した俺は、建物の面積があまり広大ではないこともあってか、幸いにもすぐ見つけることができた。


「っ——」


 茅乃に呼びかけようとしたが、立ち尽くす茅乃がやけに神妙な面持ちで、言葉に詰まってしまった。初めて見る茅乃の没頭した表情。瞬きを忘れ、周囲の音すら気にも留めずに自分の世界に埋没してのめり込む。


 俺は様子を見ながら、心の中で「そんな姿も絵になるな」なんて、決して口に出しては言えないようなことを思った。 


 しばらくすると茅乃の方・・・・からに気付いたようで、その表情に微笑みを浮かべた。茅乃の隣に並んだ俺はその絵を視界に収める。


 絵画自体は、キャンパスのど真ん中に描かれた少女が劇場の舞台でスポットライトを浴びている様子を客席からの視点・・・・・・・で描いたものだ。

 キャプションを確認すると『孤独少女』というタイトルが刻まれている。


「どことなく、寂しい絵だよね。誰もいない劇場で一人、踊っているなんて」


 無駄に広々としていて、豪奢な劇場。ベロア生地の光沢、繊維の一本一本まで緻密に描かれ、舞台袖の装飾まで全てが絵具で描かれたとは信じがたい一枚だと思った。

 キャプションのタイトル通り、舞台に立つ一人の少女を除いて、そこに役者の姿はない。題名にあるように少女は孤独だ


「誰もいない劇場で一人か」


 だが、俺は茅乃の言葉に微かな違和感に気づいた。


「これ。寂しい絵なのは認めるけど、誰もいないわけじゃないんじゃないか?」


 ちょっとだけ意味深な発言をしてみると小首を傾げた、茅乃。


「どういうこと?」

「いや、この絵って、劇場の舞台で孤独に踊る少女をモチーフにしてるから、こんなタイトルが付いてるんだよな。だけど、この絵の視点は明らかに観客目線だし」

「まぁ、そう言われればそうだね。——あっ、そういうこと」


 茅乃にも言いたいことを理解してもらえたらしい。


「だとしたら、誰から見た孤独なのかは分からないけど、少女の視点ではきっと観客がいる。そして、それは絵を見ている俺たちなんじゃないか?」


 観客、オーディエンス、聴衆。何だっていい。

 つまりは、絵を見ている鑑賞者俺たちがいることで、少女は孤独ではないということになる。だが、この理論でいけば、キャプションにあるタイトルの『孤独』との矛盾が生じてしまう。


 孤独少女でありながら、実際に観客が存在するのはなぜか。真に孤独少女を描きたいのであれば、わざわざ展覧会になど出品したりしない。展示しないことで、作品としての孤独少女は完成するはずだ。

 この矛盾を作者の遊び心と捉えて、曲解するのであれば、作者の伝えたいことはこうではないか。


 君にはこの子が孤独少女に見えるか?


 とか、だろうか。


「芸術ってのは、伝えること。誰かに見てもらい、解釈されて、初めて芸術になるのかもな」

「見てもらってか。なんか人間みたいだね。人と人も伝え合うことにより、真に繋がるからね。一人じゃ生きていけないってのは、ちょっと分かるかも」

「おっ、深いな」

「でしょでしょ」


 にへらと笑みを浮かべて茅乃は納得したような表情を浮かべる。


「まぁ、意図してこれを描いたのかを知るのは作者だけ。実際には何も考えてなかったかも。いや、むしろそんな気がしてきた」

「あはは、否定がはやいね」


 美術館特有の空気にあてられたのかもしれない。我に返って自分のした発言を思い出すと、小恥ずかしさで腕のあたりに鳥肌が立った気がする。恐るべし美術館の空気感。没入感に浸るあまり自分の世界を展開しすぎてしまった。


 俺は赤く染まった顔を茅乃から隠して、わざとらしく咳払いをした。だが念の為、俺は茅乃の顔色を窺うと、意外にもその表情は穏やかだった。


「だけどさ。もしそうなら、少女は一人じゃないってことだね」


 晴々とした口調で、そう呟いた。俺もそれに頷いて答える。


「なら少女もきっと救われてるよ」


 喜色を浮かべて頬を緩める、茅乃。なんだかその笑顔はいつもよりもずっと茅乃の本心を映しているような気がして、


「って、どうしたの? アヤセくん」

「え?」

「いや、なんかボーッとしてたから。私、変なことでも言っちゃった?」


 不思議そうに茅乃は、釘付けになっていた俺を見つめ返した。


「悪い。けどなんか、茅乃がちゃんと笑うところを初めて見たなって」

「えぇ? そんなことないでしょ。ほら」


 茅乃はそう言って頬肉を人差し指で持ち上げて笑顔を作った。


「まぁ、そうなんだけど。茅乃って相手に合わせて無理に笑うことができるタイプだろ。けど、そうじゃなく普通に笑った茅乃の方がなんか良いっていうか」


 またしても、恥ずかしいことを言ってしまってから気づいた。

 茅乃の表情を確認してみると困惑したように俯いていた。


「ごめん、アヤセくん。こういうときってさ。どういう顔で返事したらいいか、考えてなくて」

「なぁ、茅乃。人間関係とかはあんまり分からないけど、それって別に考えるもんでもないんじゃないか?」

「っ——」


 茅乃は目を見開いて、驚きながら息を吐いた。


「だよね、うん。ありがと。なんか刺さった」


 茅乃は小さく笑みを浮かべてから「うん」と再び、納得したように頷く。


「上手くできるか分からないけど、これから気をつける」

「あ、ああ」


 これに関しては、特に根拠があるわけじゃない。

 だがこのとき初めて、本来の紡希茅乃という少女の笑顔を見た気がした。

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