偽物の笑顔

 窓からの月明かりは洗面台近くにまで差し込み、消灯された電球と相まって幻想空間を演出していた。

 風呂を上がると茅乃が用意してくれた、衣服へと着替える。父親のものらしい。胸板のあたりには『時すでにお寿司』とプリントされていて、その致命的なセンスに苦笑した。

 苦言の一つもぶつけたかったが、まずは茅乃の善意に感謝するべきだろう。


 茅乃の家は、リビングルームとダイニングルームが隣接し、それらを隔てる壁はない解放的な造りがなされていた。


 リビングまで行くと、茅乃が壁際に設置されたテレビをソファの上から眺めていた。棒アイスを舐めながら、うつろな瞳でただじっと一点を見つめて、

 茅乃は時々、ああやって少しだけ遠くの景色に焦点を合わせていた。情緒が豊かな反面、こんな感じで哀しそうな横顔を浮かべている。


「あ——っ」


 俺に気づいた茅乃は表情を綻ばせてながら、隣の開いたスペースを軽く叩いた。隣に座れと指示しているらしい。

 どぎまぎとした心を落ち着かせ、茅乃の隣まで近いてみる。


「アイス、食べる?」

「じゃあ」

「ほれ」

「ん、さんきゅ」


 流れていたのは、地上波のお笑い番組だった。テレビに映るのは当然のことだが、ニヒルではなく人間だ。

 2015年の番組らしく、だいたい五年ほど前の再放送だと分かる。画面に映し出された年数と俺の知識にズレがあり単純計算でその差分を求めた。


 ん、ズレ、て?


「どう、したの?」


 棒アイスを一向に舐める気配のない俺を茅乃は訝しげな瞳で見ていた。


「いや、このテレビって五年前のだよなって思ってさ。記憶はないけど、今の西暦は確か2021年だったからさ。年号も違うし」


 話しながら、棒アイスを袋から開封し、隣の開いたスペースに腰を下ろした。


「あ。そっか、今は2021年だもんね。平成じゃないよね」

「頭でも打ったか? 今は令和だろ——って、茅乃?」

「ん? どうしたの?」

「いや、なんかボーッとしてたから」

「そうかな? 私たまにボケッとしてるし。なんでもないよ? たしかに再放送だねって思って、けどこれ以外のチャンネルも古いのしかやってないんだよね」

「まぁ、こんな世界だからな。それくらいのおかしさくらいあっても変じゃないのかもな」

「だねぇ」


 西暦に関しては思い出したという感覚だった。季節は冬で一月の後半。もちろん、この世界ではなくて、現実の世界のことだ。

 俺はそれが分かるや、だからコートを着ていたのか、と妙に納得する。現実の世界は冬だったから、俺も冬服だったと考えると辻褄も合う。

 きっと、現実の世界は冬でこの世界は夏なのだろう。

 ——『夏』と『冬』——

 だとすると、この世界と元の世界では半年ほどのズレがあることになる。この前提は、こっちの世界に季節という概念があればの話にはなるけれど。


   ꕤ


 ソファに腰をかけ、テレビを眺めてから一時間ほどが経っていた。俺と茅乃はどちらが提案したわけでもなく寝室のある二階への階段を上る。

 茅乃の部屋も二階にあるようだ。廊下をさらに進んだ最奥にもう一つ扉があり、ドアには「茅乃の部屋」という木製の板が下げられていた。


「いやぁ、ずっと座ってたから腰が悲鳴をあげてるよ。いてて」


 互いの部屋の扉前まで行くと、茅乃はボソボソと呟く。独り言のようにも聞こえたが、無視をするのはなんだか気が引けた。


「若いのに年寄りみたいなことを言うんだな」


 俺は腰に手を添えた茅乃に返答をすると、にまにまと目を細める。


「んーまぁ、見た目以上に歳はとってるかもしれないよ? 童顔どうがおだからね」

童顔どうがんって、言うんだよ。素で間違えただろ。それで、茅乃は実際のところいくつなんだ?」

「んー、ひみつ。ちなみに、アヤセくんからして、私は何歳に見える?」

「勿体ぶるな。何歳でもいいよ。もう寝るからな」

「あわわ」


 なんだ、その声は。

 茅乃の年齢は気になるが、どうにも手のひらの上で転がされている気がするので、無理やりにでも話を切り上げる。


「それじゃあ、おやすみ、アヤセくん」

「ああ、そうだな。また明日」


 ガチャリと扉が閉まる音とともに、唐突な静けさが訪れた。

 一人になると思考が加速して、流されるままに女子の家に泊まることになってしまったことを強く自覚させられる。


 俺はベッドに座ると一息ついて、心を沈めた。今日はこれ以上、何もせずに布団に潜る方がいいだろう。


 夜は副交感神経の働きで、憂鬱になりやすいらしい。

 まさにその通りで、波のように不安が押し寄せてくるようだった。絶え間なく押し寄せるざわざわと心を抉るような波。

 この世界のことやニヒルのことが脳裏から離れてくれない。


 布団から顔半分を出した俺は天井を眺めながら、俺はボーッと考える。


 最初に浮かんだのは、他でもない茅乃のことだった。

 少女は演じていた。

 如月駅で会ったときから、言動や振る舞いにわざとらしさがあった。明るくて幼気な少女の仮面。多分、引っ掛かったのは笑い方だろうか。面白くて笑っているのではなく、笑った方がいいと思って笑っているというか。

 茅乃なりの生存戦略というやつなのか、どうしてそんな風なのか、考えるたびにが胸がざわついた。茅乃のことが気になってしまっていた。


 ただ、幸いなことに今日はいろいろとあったせいか、眠気がひどい。一日の疲れがどっと現れたようで、数分もすれば夢の世界へと誘われた。

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