第一章
記憶喪失の少年
死後の世界——。
そんなものあるとしたら、それはきっと、地の底にあるのかもしれない。
なんとなく、そんなことを思っていた。
死んだ後の世界に俺たちを招き入れるのは天使でも悪魔でもなく、もっと大きな——全ての生命を司るような流れのようなもので、飲み込まれるようにして深い地の底へと沈んでいく。
ああ、死んだのか——俺は。
形容するとしたら、深い海の底へと沈んでいるような感覚だった。
呼吸すらできない水の中で、息苦しさが後悔を穿ち、死という曖昧さを鮮明に感じ、恐怖に震える。
指先の感覚から徐々に失われて、全身を巡る生命の灯火もやがては消える。
境界なく溶け出していく。刹那のこと。
奇跡が起こった。
もはや自力で持ち直すことも絶望的で、迫りくる死を待つだけのこの命を、何かが、例えるなら神々しく煌く一筋の糸のような何かが繋ぎ止めた。
細くて脆い、だけどどこか力強い生命の糸。
春のような暖かさで、今にも崩れて消えそうな意識を包み込むようで、
ああ、助けないと。
訳もなく、俺は思った。なぜ。
理由など分かりきっている。
助けないと——助けないと、助けないと。
それは、俺が俺であるから。そのために。
だから、はやく————
この命の炎が燃え尽きる、その前に君の
ꕤ
————助けないと。
深い。深い眠りを妨げるように、龍が鳴いた。
龍。ほんとに龍なのだろうか。たぶん、違う。ただの空耳。
おそらくは、駅舎に近く列車の列車の汽笛と緩解音だろう。半醒半睡の状態だったせいもあるが、兎も角、目を覚まして最初に鼓膜を震わせたのはそんな機械音だった。
「い。きて、るのか」
掠れた声で吐き出してみて、まるで死にかけたような言い方だと自嘲した。
いやいや、冗談にしては笑えないんだよな。
「なに、してたんだっけ」
ただ、直前の記憶をいくら遡ろうとしても何一つ思い出せない。いや、それだけじゃない。自分という人間が何者かすらも、すっぽりと抜け落ちている。
記憶喪失、とでも云うのだろうか。
閉ざされた記憶を無理にでも辿ろうとすると、
「ぃ——っ」
何かに妨げられるような感覚に襲われた。軽い耳鳴りに小首を傾げて考えるもやはり、答えまで辿り着くことはない。
それ以前に記憶がないことすら、さして重要ではない気がしてきた。
そんなはずも、ないのだろうに——。
ただ一つだけ、思い出せることがあるとすれば、それは名前だ。
響谷アヤセ。この名前だけ。
アヤセは、
喉を軽く唸らせる。
どうやら長い間、ベンチに腰を下ろしていたらしい。その証拠に臀部と腰に鈍い痛みと不快感が駆け抜けていた。数分、いや数十分か。俺は考えを巡らすも、意識を失っていた間の時間感覚など信用に足るはずもない。
つまるところ、どれくらいこうしていたかを知る術はないわけだ。加えて、羽織っていた季節外れのコートは、サウナを彷彿とさせるこの暑さと相まって地獄のような猛暑を演出している始末ときた。
猛暑日にまるで似つかわしくない厚手のコート。ご丁寧にボタンまで締められたこの状況は明らかに変な話だ。
そんな感じで、今の状況を順を追って整理してみる。
「はぁ、なにがどうなってんだ」
頭がこの状況に追いつかず、投げやりにそう呟く。すると、それに呼応するように目の前で何かが少しだけ左右に振れた。
「————うそっ」
とても柔らかく、心地の良い声色。目を見開いてその声の方向を確認すると、視界の端っこに佇む、人の形を成したシルエットから発せられたものらしい。
しばらく目を閉じていたせいで、景色はしばらく白んだままだ。
「驚いた。ほんとのほんと、ほんとに。まさかこの世界に、人がいる、なんて。そんなことありえない、のに」
容赦のない陽光に瞳孔を慣らしながら、少しずつ景色を映し始める双眸。
捉えたのは、一人の少女だった。
前傾姿勢を保ったまま、驚きと困惑のどちらともとれる表情で、こちらを眺めている。若々しく揚々とした声で、おかしなことを口走りながら。
誰だろうか。もしかすると、俺の知り合いかもしれないが、その辺の記憶がないのでどうにも心当たりがない。
「えーっとさ。人がいるとかいないとか、なんのこと?」
「なにって、や、やっぱ、喋ったよね!?」
期待した反応とは異なる態度に俺もどうしていいか分からず、苦悶を浮かべる。
「ご、ごめんね。なんかこうして話してみると、やっぱり、生きてるというか、人なんだなぁって、ちょっと驚いちゃって」
これはどう捉えるべきか、新手の悪口ではなさそうではある。噛み合わない会話にどう対処すべきなのか考える必要がありそうだ。
「人、ね」
「うん」
何を当たり前のことを、というツッコミは今は置いておこう。いかにも目の前の少女は真剣なのだから。
「いやいや、なんだその変な物言いは。驚きの沸点も低いし、まるで俺が機械か死人にでも見えたような反応だけど」
だが、思考より先に言葉が出てしまった。
「まぁ、この暑さなら人が死ぬくらいありそうだけどって、そうじゃなくて! 私が驚いたのは、兎に角、仕方ないわけでね」
少女は明からさまに動揺していて、後退るとコンクリートを擦る軽快な靴音を響かせる。その姿は矢鱈と興奮気味で、息も荒々しく震えていた。
俺は適当に「はあ」と相槌を打ってみる。少女の耳にはそれすら届いていないようだ。なので、とりあえずは目の前の少女が平常心を取り戻すのを待ってから、話を切り出すことにした。
少女が落ち着くまでの数秒間で、俺は周辺の地形を見渡してみた。
見渡す限りの山、蝉の声、夏の匂い。それと駅舎か。
どうやらここは鉄道駅のようだった、それもドがつくほどの田舎らしい。ベンチはレトロな空色のデザインで、横並びに二つあった。
緑の山々はどこまでも続くようで、蒼穹に浮かぶ入道雲が夏を物語っている。駅幅は学校の25メートルプールほどの大きさだ。その中央には巨木がめり込むように屹立している。
自然を活かしたシックなデザインといえば聞こえは良い。単線と呼ばれる上下線共用の構造で敷かれた二本のレールが陽の光を受けてぎらぎらと瞬いていた。
肺の空気を吐き出して、少女を真似をして深呼吸をする。
さてと————どこだ、ここ。
俺の第一印象はなんとも情けないものだった。
やはりだ。ここに至るまでの経緯、その記憶がまるでない。あるのは酷い倦怠感と胸の奥にじりじりと灯る一つの想い。
助けないと、という使命感。
なにを、というか誰をだ?
自問自答を繰り返しても、さっぱり分からない。果たして何がどうなって、こんな状態になっているのだろうか。
「ん」
顔を上げると少女もこちらを覗いていた。
すぅと風にさらわれた栗色の髪の毛が燦然と陽の光を反射して、山奥の風趣に溶け込んでいる。ミルク色の肌に切れ長の目、二重の瞼、鼻筋。どれをとっても、美しいのに、それが端正に並んでいた。
見惚れるあまり、間の抜けた声が漏れそうになる。
ただ、なんとなく夏が似合う女子だなと思った。だが、俺がどれだけ言葉を尽くしても筆舌し難いだろう。
俺はその両眼に少女の姿を映しながら、ごくりと息を呑んだ。そして、しばらく見惚れていた。少女もこちらをまじまじと見つめていて、数秒の時が流れて気づいた。
「なん、で、泣いてるんだ?」
胸中で思ったことがそのまま言葉になったような感覚があった。
「え。泣いて? あっ、ほんとだ」
「気づいてなかったのか」
いつのまにか、その頬には透明な滴が流れていて。
「あはは、気づかなかったよ。嬉しい時も涙が出るってほんとなんだね」
「どういう意味だよ」
「うんん、こっちの話」
少女は線路側へと身体の向きを変えてそれを隠した。その一連の仕草を俺は訝しげな目でそれを眺めていた。
「ごめんね、なんだか嬉しくて。誰かにこうやって会えたことが久しぶりで」
さっぱり、分からなかった。調子も妙に狂わされる。
この状況もこの少女が誰で、何を言っているのかも。ただ今は、戸惑いを抑えるので、精一杯だ。
「それで? もういいのか?」
「うん、大丈夫だよ」
くるりと身体の向きを半回転させると少女は白い歯を見せて、にっと笑う。
実にわざとらしい笑みだった。心做しか強がっているような感じがして、無理に笑わなくともいいのに、そう声を掛けようとしたがやめた。
俺はもう一度だけざっと周囲を確認する。念のため。やはり覚えはない。
「ところで、ここはどこ? 見覚えもないし、とりあえず家に戻りたいんだけど、東京に帰る方法って、知らないか?」
『東京』——これは自然と頭に浮かんだものだ。
「東京って、そっか——君もやっぱり分からないよね。なら、家に帰るのは難しいと思うよ」
「難しい、ね。というかここに来るまでの記憶もないし、誘拐でもされたとしたら笑えないな」
「ぷふっ、何それ。面白い! だとしたら、この辺りには誰もいないし、誘拐犯は私ってことになるのかな?」
この少女が本当に誘拐をしたのだろうか。考えるまでもなく、あり得ない。
誘拐というワードを使ったのも、ほとんど冗談のつもりだったし、この子が人を拐うようにも見えない。
「そもそもさ。君は誰? 初対面だよね、俺たちって」
本来であれば、起きて早々に訊くべきことだが、気を改めて尋ねる。失われた記憶を懸命に探るも、どうやら俺はこの少女を知らない。
見知らぬ土地に、これまた見知らぬ少女。
どんな因果でこんな状況になるのだろう。
「うん、初対面だよ。そういえば、自己紹介すらしてなかったよね。私は紡希茅乃。紡ぐ希望とかいて『紡希』、名前の方は
「茅蜩って」
普通は、茅蜩と言われてもすぐに漢字が出てこないだろう。
「茅蜩は暑さに弱いから、早朝と夕方にしか鳴かないらしいよ?」
「いや、聞いてないけど。というか、かなり独特な自己紹介だな。それにやっぱり初対面だよな、俺たち。あまりに自然に話すから古い知り合いかと思ったよ」
「ごめんごめん。驚いたよね」
「まぁ、な。それで、君は地元の人?」
「地元ってここのこと、だよね? それなら答えはノーだよ。ここがどこかとか私も詳しく知らないし」
「そっか」
少しだけ肩を落とした俺に、少女は食い気味に付け足す。
「ちなみにね! 私の好きな食べ物はお饅頭と粒餡の大福! 苦手な食べ物はナス科の野菜かな〜。あっ、それとね。これは言っとくべきだと思うから伝えるんだけど、私は君を除けば、おそらく
少女は落胆した俺のことを元気付けようとしたのだろうか。妙に会話が噛み合ってない感じがするが、気遣いには感謝すべきなのだろう。
「あ、おう。いきなりの情報量で気圧されそうだったけど、とりあえずナスが食べれないことはわかった」
「食べられないというより、苦手なだけ。頑張れば食べれないこともないから」
別にそこで、意地にならなくてもいいんじゃないだろうか。
俺は眉根を寄せてから小さく呻った。そして、少女の言葉を脳内で反芻する。しかし、理解に至る過程で、常識から逸脱する一言が幾度も邪魔をしていた。
この世界に存在する、唯一の人間とは、どういうことだろうか。
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