心霊ハンター研治と首なし地蔵

田島絵里子

第1話 プロローグ

  プロローグ

西国街道。それは京都と下関を結ぶ江戸時代の西日本における幹線道だったが、公式に定められた呼称ではなく、山陽道と呼ばれたところもあった。


しかし、広島藩では西国街道でほぼ統一されていたようだ。街道の道幅は4.5メートルほどあり、東海道や中山道などの五街道に次ぐ規模を誇っていた。



 1633年に整備されたそれは、西国における重要な街道として、宿場や一里塚、街道松なども整備された。しかし、西国街道はところどころ草が生い茂り、道なき道になっていたり、住宅造成や道路拡張などで大きく変貌していたり、迷子になりやすい道になっていた。


 そんな西国街道の井口峠いのくちとうげは、山が海まで迫っているため平坦地が少なく、街道も山間部が多かった。なかでも小己斐山こごいやま(現在の龍神山)の峠越えは、厳しい難所として知られていた。


 正順寺の裏側を通っていたそのころの西国街道の峠からは、真下に小己斐明神が見え安芸小富士(似島)と厳島(宮島)が海に浮かぶ素晴らしい風景が展望できた。



 明治時代には海沿いの道ができて、井口峠は廃道になった。井口峠からは瀬戸内海の美しい景色が見えるが、現在は開発によって昔の面影は少なくなっている。


 急な坂の多い井口いのくち方面では、山の中で道が二手にわかれるところなど、方向を教えてくれる標識が必要になる。


ところがその道しるべは一里塚や並木とは異なり、徳川幕府が交通政策の一環として設置したものではなかった。多くは町の有志、もしくはその道をよく往来する大きな町の大きな商人、あるいは信仰の篤い人たちが、お地蔵様を目印に立てたのである。


 一里塚根際の道端に小さな地蔵が鎮座されている。

 この井口のお地蔵様は寛永の頃(十七世紀前半)の造立と言われ、台座に「三界萬霊」の銘があり、一里塚とともに里程にもなっていたという。


 井口は、300m級の鈴が峰に通じている。アスファルトの住宅地から、山へと通じる道がいきなり現れるため、景色の変化が激しい。その中で、面白い伝承のあるお地蔵様がひとつある。


 井口の坂の途中にある「首なし地蔵」だ。


「首なし地蔵」は井口小学校の体育館まえに鎮座しており、小さな祠の手前には首のある地蔵、右奥に首のない地蔵が置かれている。その祠のとなりには、地蔵の由来が書かれた看板が立て掛けられている。


  

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