無題
ケストドン
第1話
電車の窓から見える景色が綺麗だった。晴天。海と山しかないが、東京の喧騒から逃れられたようでとても嬉しかった。
向かいの席に座る母は物憂げな表情で僕と同じように海を見ていた。するとゆっくりと僕に視線を移した。
「学校は楽しみ?」
唐突に訊いてきた。初めて見る日本海に心が踊っていて、釣りをしたり、友達と海水浴をする想像ができてー。
「うん、とっても」
先程の憂鬱そうな顔が消えて、笑顔になった。
「それなら良かった」
また、海を見た。フェリーが視界の端に居る、ゆっくりと進んでいく。電車の速度と比較して、こちらの方が明らかに速そうで、小さな優越感に浸った。
「ねえ、フェリーより絶対こっちの方が速いよね」
「ええ。でも、フェリーも良いものよ」
「いつか乗れるかな」
トンネルに入った。ガタガタと規則的な音、母は何か呟いたが聞こえなかった。
「次の引っ越しのときに乗らしたげるわ」
陰った表情が見えた気がした。トンネルを抜けるとまた海を見た。
「学校の子とうまくやりなさいね。あなたくらいの年に体験する別れは辛いから」
良く分からなかったが、頷いた。フェリーは見えなくなっていた。
半年ほど前、離婚して母は心を病んだ。アルコールを浴びて現実から逃避する母は次第に痩せていった。
しばらく、精神病院に入院して体調を戻したときに母の親友から連絡が来た。それは、田舎の小さな工場の事務員の仕事をしないかとの誘いだった。
貯金がかなり減ってきて、パートにも行けなくなっていた母は環境を変えて心を入れ換えて働いてみようと思ったらしい。引っ越して働く選択肢を取った。
「ごめんね徹。4年生になったばかりなのに。全部私が悪いのよ」
使用感のある青色のランドセルを見て涙ながらに謝ってきたが、仲間外れにされていたのでむしろ嬉しかったのは言わなかった。その頃、仲間外れにされた原因は母のせいだと感付いてしまっていた。
駅に着いた。リュックを背負って電車から出て、母と手を繋いで歩いた。温かい手。僕の首を締めたときにはあんなに冷たかったのに不思議だった。
切符を駅員さんに渡して駅前の駐車場に行くと、母の親友の京香さんが大きく手を振っていた。母は僕の手を離して駆けて、京香さんに抱きついた。
「久しぶりー。もう今日が楽しみで楽しみで」
嘘付けと思った。
「やっぱり、めんどくさいな働くのも引っ越すのも。ちゃんと死ねないとこうなるのね」って荷物をまとめながら言ってただろ。毒づいたが声には出さない。
温もりの残る自分の右手を握り絞めて京香さんの方に歩を進めた。
「おおー、りーちゃん大分痩せたなあー。けど、顔色良うなって。良かったわあ」
僕に目が向けられた。
「おっ、徹くん大きなったなあー」
頭を撫でられた。恥ずかしくて少し離れた。
「あー、そういう年頃かあ」
「やめてくださいよ。でも、大分久々ですね」
彼女の黒の軽自動車を見ると、ドアが巨人に殴られたように凹んでいて面白くて、思わず指摘した。
「それなあ、隣の家のジジイの車が突っ込んで来てできたやつなんよ。来週には保険で直してもらうから。ごめんな。恥ずかしいやんな、こんな車乗るの」
「むしろかっこいいですよ。トランスフォームとかしそう」
「いや、ロボットちゃうねんこいつ」
京香さんは凹みを叩きながら笑った。僕も口を開けて笑った。素直に笑えたのが久しぶりで感動した。
母も微笑を浮かべながら、トランクに荷物を詰めた。
「せっかくだし、運転するわ」
「え?大丈夫なん?」
京香さんは母が病んでいたことを知っている。でも母が僕を殺して、自分も殺すつもりだったことは知らない。
「大丈夫よ。先生からも許可を得てるの」
驚いていた。
「おっ、それなら安心できるな。よろしく頼むわ」
京香さんが助手席のドアを開けて屈んだとき、彼女の金髪が風で靡いて、オレンジのような整髪料の香りを嗅いだ。呆気に取られながら、後部座席に座った。この記憶は何故か、一生残る気がした。
団地の前に車が停まる。通りすぎてくれると期待していた。その団地は白の塗装が大きく剥がれていて、駐車場の線も視認できるか危うくて、ハンドルが人為的に捻り曲げられたマウンテンバイクからは治安が悪そうな印象を受けた。
あらかじめ、洗濯機や冷蔵庫などの大きな荷物は移してあると聞いていたが、その時は今住んでいる家と同じくらいに綺麗なアパートだろうと勝手に想像していた。
想像と現実のギャップで身震いする。鳥肌が立っていた。
新築みたいな綺麗なアパートが団地の前の公園を挟んで建っている。アパートの住人が団地に住み始める僕らを蔑んだ目で見ている気がした。
「ここやで。りーちゃんには言ってあるけど、癖強い人も居るけど、基本的にはみんないい人やから」
「団地住むの初めてなんで、楽しみです」
上手く笑顔を作れているだろうか。嫌な予感は今までずっと的中してきた。僕の人生は長くないかもなともう一度覚悟しないと駄目か。母はもう一度壊れる。根拠はない。
脇腹に押し付けられたタバコの熱を思い出しながら目を瞑って車のドアを開けた。
荷ほどきが終わって、4畳の自室に布団を敷いて泥のように眠った。10時間の移動はさすがに疲れた。
「なんかお前、脇腹に変な痕付いてんぞ?」
「あーこれな、生まれつきなんだよ」
やめてくれ。
「犬みたいな臭いするな。風呂入ってる?」
「いやー、近所の犬と戯れてさあ」
やめてくれ。
「やっぱり食うの早いなー。今日もおかわり?3杯くらい行くよな。それも米だけで」
「成長期って保健で習ったよね」
やめろ。そんな冷たい目で見るな。言い訳もごまかせなくなるだろ。これは全部母からの仕打ちだと言いそうになるだろ。違う、これは愛なんだ。そうだ。そうなんだよ。
みんな、僕と関わらなくなった。
誰もいなくなった教室。先生が僕の身体をゆっくりと、全体を見た。
「やっぱりお前、虐待を受けてないか?」
先生の目。黒目に僕が写っている。その黒目からタバコの灰が溢れて、学校は海に落ちた。沈む。息が出来ない。誰も居ない。父の謝る声が反響してー。
声にならない声が出て飛び起きた。涙で頬が濡れている。溜め息を吐いてティッシュで涙を拭いた。ふと時計を見ると夜の10時半だった。立ち上がってリビングまで歩く。すると、唐揚げの匂いがした。空腹に襲われた。思わず急いで歩く。
「母さん、唐揚げ作った?」
「ええ、あなたが寝てる間にね」
母はテレビを見ながら素っ気なく答えたが、口角が自然に上がっていた。テーブルに並ぶ、唐揚げとサラダとコンソメスープとご飯。湯気も空腹を煽り、お腹が鳴った。なんだか恥ずかしくて誤魔化したかった。
「食べて良い?」
「ええ」
割り箸を差し出された。受けとると、母はコップに麦茶を注いで僕に渡して、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
「飲み過ぎないでね」
「1本だけにしとくわ」
「乾杯」と僕が言って母はカシュッと音を立ててプルトップを開けてビールをあおると、テレビのリモコンを操作して、僕が好きなアニメのチャンネルに変えた。
唐揚げを頬張ると、さっきの夢の気持ち悪い余韻は霧散して幸福に包まれた。
唐揚げの隠し味のラー油に感動した。
母の料理は変わらない。これからもずっと変わらないで居てほしい。
脂っこくなった口の中。冷えた麦茶を一気に飲んだ。胃だけではなくて、心に馴染む味だった。
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