第四章 7

 ハムレット殿は運命について、興味深い話をされていた。

 横でじっと聞いていただけの自分の耳に、その言葉は妙に引っかかっている。

「来るべきものはいま来れば、後には来ない」

「あとで来ないならば、いま来るだろう」

「いまでなくても必ず来るものは、いつか来るのだ」と。

 それは死を指しているのではないか。

 こことよく似た川底で、口からあぶくを出しながら、以前にも同じような意見を述べる者がいた。

「生ある間は死なし」

「死が訪れれば、すでに我も生もなし」と。

 くよくよと悩んでいても埒が明かない。それは確かにその通りなのだ。理性ではそれを十分に分かっているつもりだ。

 雀一羽が落ちるのも神の摂理であるという。あのハムレット殿もまた、それを言いながら別の件では大いに迷っているというのに。

 そもそも何かが起こるとは何であろうか。それを偶然や必然と分類できるのはなぜだろうか。

 もし、将来のどこかの時点で、この自分が取り返しのつかない不義、悪事や過誤を犯すか、重くはなくとも不幸に見舞われたとしたらどうだろう。この道をもし通っていなければ、昨日のあれをしていなければ、一昨日のあのことを行っていれば、それは避けられたはず、という後悔が生じるのではないか。

 悪事ならばともかく、不幸な事故を起こした場合、その瞬間の、ほんの一瞬だけ前の自分の行いや考え、そのまた一瞬前の自分、そしてまた一瞬前の自分と、遡っていけばその原因である自分は連続している。

 その自分に関わったすべての人びと、物事、縁によってつながった全てがその原因として関連してしまうではないか。一本の樹木を支える、無数に広がる根のように。

 仏の教えでは偶然はなく、みな必然という考えらしい。

「よろずのものは我れ独りではない」という。

 では、骰子を振って、出た目も必然なのだろうか。

 よくよく考えてみれば、僅かな手の振り方の加減や、微妙な骰子の向き、微かに吹いているそよ風の力など、あらゆる小さな力の総合的なつながりの結果、ある数字が出るようになっている。

 悪事ではなく、何かの良い行いも、平凡な行為も、無意味に見える何かも、みなそのように原因が無数の根となって、必然を構成しているのだ。

 とすれば、何を為そうと為すまいと、神羅万象が必然の根に支えられていることになる。ただ一歩の歩みさえも、ひと息つく、その息も、元には無数の根が広がっているということだ。これでは寝ても起きても、歩いても、河の底で瞑想していても、必然に飲み込まれてしまうのではないだろうか。

 もし、この自分が誰かから教えを乞われるとしたら、たったひと言、「必然」と唱えればそれで終りだ。必然、必然、自分も他人も、世界も自然も、過去も未来もみな必然、必然。必然に生きて、やがて最期を迎える。そのように考えれば確固としてはいるようだが、頼りない気もする。

 悪も善も、偶然に見えることもみな必然なのだろうか。道なき道を行くつもりで、必然の網に絡み取られ、酔って出鱈目を述べていても、必然の牢獄に捕えられているのだろうか。

 あまりに単純で、切れすぎる理屈というやつは、どこか怪しげなもの。おや、何かがふわふわと、流れてきたぞ。


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