02 噂

 ナイリアン国のあるラスカルト大陸は、多くの地方や国々に分かれている。

 その内の一地方アレンズは無限砂漠コズ・ディバルンを除いた大陸のほぼ中央に位置しており、ナイリアンを含めた三つの大国と五つの小国から成る。

 もっとも人々は自らの暮らす国と、あとはせいぜい隣り合わせた国のことくらいしか考えなかった。それはごく普通のことだ。

 八つの国家間は親密と言うほどではないが決して険悪ではなく、大きな戦は久しく起きていなかった。小国が大国に脅かされることはあったものの、深刻な事態に陥ることはなかった。

 しかしながら――国内も全て平穏だとはいかない。どの国でも多かれ少なかれ波瀾はあった。

 そう、ナイリアン国でも、過去には反乱が起きて騎士や王が殺害される事態にまでなったことがある。それは暗い歴史だった。

 いまではレスダール王のもと、ナイリアン国は平和な日を送っている。厳正に審査された精鋭たるナイリアンの騎士コーレスも、規定最大の人数である八人にまで達した。これは歴史上でも数えるほどしかなかったことだ。

 もっとも、いまでは七人となっている。

 しかし、第二位たる〈青銀の騎士〉が不在であるのは、不名誉な除名によるものなどではない。彼はナイリアンの民を守って名誉ある死を迎えたのだった。

「ジョリス様」

 ナイリアンが首都ナイリアールにある王城の回廊で呼びかけられた〈白光の騎士〉ジョリス・オードナーは、金髪を揺らして振り向いた。

「お尋ねの町民がやってまいりました」

 城の下男がジョリスに憧れの視線を投げかけながら言った。

「そうか。では案内してくれ、ナイン」

 下男は身分なき自分の名まで覚えられていることに顔を輝かせ、浮き足立ってジョリスを連れた。

「街の噂はどうだ」

 歩きながらジョリスは尋ねた。

「あの、申し上げにくいのですが」

「率直に事実を話してくれ」

「は、はい」

 騎士を心配させまいと事実を偽るなどは本末転倒だ。彼らはナイリアンを守るために存在する。下男が「不穏なことは何もない」などと言おうとしていたとしても、彼はそれをすぐにやめて包み隠さず話をした。

「そうか」

 ジョリスはかすかに顔をしかめた。

「もっと早く、これらの話を聞くことができていれば……いや」

 彼は首を振った。

「今更言っても繰り言だ。いまは次の被害を防ぐことだけを考えねばな」

「は、はい」

 首都ナイリアールの城下街にまで伝わってきた不穏な噂に対して、下男ごときに何ができる訳でもない。だがジョリスと話をしていると、まるで自分まで立派になったような気持ちになる。傍から見たら滑稽であったかもしれないが、下男は真剣に返事をした。

 噂は、薄い霧のようにナイリアン国に充満しつつあった。

 それを初めて耳にした者は、怪談話とでも思うことだろう。或いは、物語師や芝居師と言った芸人トラントたちの新作と。

 だがそうではなかった。それは事実だった。

 まるで「夜」が人間の姿を持って顕現したかのような黒鎧と黒衣を身につけた謎の剣士が、各地で目撃されていた。無論、それはナイリアンの騎士ではない。平時、彼らは王城にいて、王が騎士を派遣すべき事態だと判断したときに首都を出る。謎の剣士の足取りが彼らの行動とかち合うことはなかったし、第一、ナイリアンの騎士がそのような真似をするはずもない。

 何の罪もない、いたいけな子供たちを無体に殺害するなど。

 噂がジョリスたちのもとに届いたのは、つい先日だ。不穏な話に王が驚いて調査を命じれば、半年から一年ほど前までの間にはじまった出来事であるらしいと判った。

 いったい何人の子供がその凶刃の犠牲になったのか。正確な数は掴めていない。だが十人や二十人で済まないことは確実だった。

 その犠牲を思うと、ジョリスのはらわたは煮えくり返るようだった。

 戦いはもとより、抵抗することもろくにできずに死んでいった子供たち。

 罪は必ず償わせるつもりだった。だが、子供たちが帰ってくることは決してないのだ。

「あ、ジョ、ジョリス様」

 小さな部屋に通されて待っていた町民は、白光の騎士の姿にぴょんと飛び上がるようにして立ち上がった。

「お、お初にお目にかかります、騎士様セラス・コーレス

「そのように大仰な態度を取らずとも結構だ」

 部屋の扉を閉じると、ジョリスは手を振った。

「確かに私は〈白光〉の銘をレスダール陛下からいただいているが、それはあなた方ナイリアンの民を守るための位であって、あなた方にかしずかれるためのものではない」

「は……」

 そう言われても、町民は緊張していた。

 白光、青銀、赤銅、黄輪の四位から成るナイリアンの騎士の、ただひとりの最高位。彼らは騎士団とは呼ばれないが、もしそうした名称が課せられたとしたら、ジョリスはその団長に相当する。平民たちにとってその地位は、王や王子に次ぐ高位という印象があった。

 実際には、そうではない。騎士などと言っても、名誉ある兵士に過ぎない。少なくともジョリスはそう考えていた。

「早速だが、話を聞かせてもらいたい」

 ジョリスは町民に座るよう促し、自らもその向かいに腰かけて、すぐ本題に入った。

「あなたは、噂の『黒騎士』を見たのだな?」

 謎の剣士は、民草の間で「黒騎士」と呼ばれていた。それは単純に、その人物の甲冑がジョリスのものと相対するかのように真っ黒なものであることからだった。

 「騎士」という呼び名は当のナイリアンの騎士たちには苦いものであったが、そのような細かな話にこだわる事態でもない。ジョリスはむしろ、王が「極悪な咎人を『騎士』と呼んではならぬ」と触れを出そうとするのをとめたくらいだった。

 そのような真似をせずとも民が「黒騎士」と彼らを同一視している訳ではないことは判っているのだし、触れを出して民が守っているかどうかを調べるなど、この上もなく無駄で馬鹿らしいことだ。

「はは、はい。見ました」

 町民はこくこくとうなずいた。

「あ、あれはふた月ほど前……俺が南方にあるカシールの村に荷を届けに行ったときのことです」

 仕事を終えた彼は、早くナイリアールに戻りたくて、夜であったにもかかわらず村を発ったのだと言う。その入り口で、小さな田舎村には不似合いの武装をした人影を見かけたのだと。

 不審に思ったが、急いでいたので彼はそのまま村を離れた。数日後、泊まっていた宿の酒場で、カシール村の子供たちが無惨にも殺されたという話を耳にした。

 あのとき村に警告に戻らなかったことについて、町民は汗を拭いながら言い訳をした。ジョリスは、罰する意図はないと彼をなだめなければならなかった。

「噂については、知りませんでした」

 言い訳か事実か、町民は言った。

「ですが俺も『黒騎士』という言葉を思い浮かべました。真っ黒な鎧とマントを身につけて……」

 彼は身を震わせた。

「怖ろしかった。すれ違ったとき、まるで冬みたいな冷気が感じられました。そのときは、夜だから不気味に見えただけだと自分に言い聞かせましたが……」

 怖ろしかった、と町民は繰り返した。

 ジョリスはそれからひとつふたつ質問をして、もうこの町民からこれ以上新しい話は聞けないと判断すると、礼を言って彼を帰した。

 彼は真剣な面持ちで下がったが、おそらく家に帰れば「ジョリス様とお話しをした」と家族に自慢することだろう。ふた月前の恐怖の記憶より、〈白光の騎士〉と言葉を交わしたという出来事の栄光はずっと強いからだ。

 騎士はしばらくその場で考え込むようにしていたが、ふと顔を上げた。

「ジョリス殿」

 すると年嵩の男が入ってきて彼に声をかけた。

「例の件か」

「ああ」

 ジョリスはうなずいて立ち上がった。

「サレーヒ殿、至急、騎士たちを集めてほしい」

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