第8話 天に認められし者

俺たち一行は、ついに島を結ぶ船乗り場に到着した。

 そこで新たな情報を様々仕入れることができた。

 漁業を生業にしている船乗りたちは、尸鬼の姿を見ていた。その姿は、腐りかけた人間だという。生きているはずもない人間が、島内を彷徨い歩いているというのだ。

 実り豊かだった島は枯れ果てているらしい。

 派遣した調査員とも合流し、さらに詳細を聞く。

 尸鬼は海には飛び込んでこないので、遠くから観察していたらしい。怖ろしくて島に上陸する勇気はなかったと申し訳なさそうに報告されたが、俺はそれで良いと労った。

 最初に害虫がたくさん出たとの報告は、船乗りたちが島が枯れていく様子を見て、害虫が出たのだろうと勘違いしたらしい。その後、多くの者たちが尸鬼の姿を目撃している。


「尸鬼が島内に留まってくれているのなら、このまま放っておいてもいいんじゃねぇの?」


 雄珀の言葉に、船乗りたちが一斉に口撃してきた。


「島の近くで泳いでいる魚たちが死んでいってるんだ。こっちは商売上がったりだよ」


 船乗りたちに責められて、雄珀はたじたじだ。


「海も汚染されていってるということか」


 俺は顎に手を当て、考え込むように言った。


「尸鬼は泳げないのか? なら、海に落としてしまえばいいんじゃねぇか」


「そんなことをしたら益々海が汚れちまうよ!」


 雄珀の案に次々と反対する船乗りたち。短気で気性が荒い者同士なので、すぐに言い合いになる。


「だとすると、弓か」


 俺の案に、武官たちはすぐに弓の準備を始める。


「弓で倒せるのかねぇ」


 雄珀は俺の隣に立ち、弓の準備を懐疑的に眺めた。


「とりあえず、安全な場所から攻撃し、尸鬼の生体を把握することから始めよう。当たった武器が腐るかどうかも見極めたい」


 島がよく見える船乗り場に野営地を作り、そこを本部として戦に備えることになった。明朝、尸鬼との戦いがついに始まる。

 使う船は、数人乗りの木製の小舟だ。乗るのは、ここら辺の海を良く知る船乗りと、弓矢の達人の弦武げんむ、雄珀、俺の四人のみ。

 他の武官たちは本部で動向を見守る。今回の船出は前哨戦。実際の目で尸鬼を見ることが一番の目的だ。

 そして、朝日が昇ると共に、俺たちは小舟に乗って島へと近付いた。


「案外簡単に死んでくれねぇかな、尸鬼」


 船に揺られながら雄珀が言うと、弦武が苦笑いして答えた。


「弓が有効だとしても、島内に入らず駆逐するとなったら長期戦になりますよ」


 弦武はまだ十代の麗しい青年だ。品が良く頭もいい。貴族出身だが簒奪帝に後宮妃だった姉を殺され、前回の戦いにも参加している。


「長期戦か~、それも嫌だな~」 


 雄珀は仰け反りながら嘆いた。

 尸鬼は海には入らないとわかっているので緊張感は薄い。

 俺は、すでに尸鬼が海を渡り領土を侵攻している最悪の筋書きを思い描いていたので、尸鬼が海を渡れないというのは嬉しい誤算だった。

 これなら被害が島一つで済むかもしれない。時間はかかりそうだが、被害を最小限に抑えることができるだろう。

 小舟はゆったりと揺れながら進んでいく。これから得体の知れない化け物と戦いに行くとは思えないほどの呑気さが俺たちを包んでいた。

 雄珀なんて昨晩遅くまで船乗りたちと酒を酌み交わしていたから、大きな欠伸と共に酒の匂いまで海の風に吹かれて運ばれている。昨日の昼は言い争いになっていたのに、夜には肩を組んで一緒に歌うほどの仲良しぶりだった。

 島に十分な距離を取って、尸鬼が現れるのを待つ。肉眼で確認できる距離まで出てきたら、弦武の天才的な弓矢を放つ。伝説上の生き物だと思っていた尸鬼を見ることができると思うと、恐怖よりも高揚感の方が上回っていた。

 それもこれも、安全な場所にいると思っていたからである。

 数刻ほどが経過し、太陽が真南に上がっていく時分に、ようやく尸鬼が姿を現した。

 痛んで雑巾のように汚れた布を着た人間らしき者が林の奥から出てきた。全身火傷をしたかのように黒くただれ、髪は抜け落ちたのか少ししか生えていない。顔の肉も落ち、白い頬骨が見えている。


(本当に死者が歩いているようだ)


 俺たちは固唾を飲んで尸鬼を見つめた。

 元は男なのか女なのか。それすらも判別できないほど体はただれていた。


「こいつぁ、おっかねぇ」


 雄珀は右の端の口角を上げて苦笑いするように言った。おっかないと口では言っていても、目は爛々で好奇心に満ちている。

 俺は目で弦武に合図をした。弦武は無言で頷くと、弓を引いた。

 ひゅんっと風を切る音がして、弓矢は尸鬼の左胸に命中した。心臓をとらえた渾身の一撃である。


「よしっ」


 俺と雄珀が小さな声で喜ぶ中、胸に矢を当てられた尸鬼は、なにが起こったのかわからず、刺さった矢を見下ろしていた。

 一拍の後、攻撃されたと理解した尸鬼が、天を切り裂くような金切り声を上げた。

 思わず耳を塞ぐほどの身がすくむような嫌な周波数を出す高い声だった。

 わらわらと尸鬼が集まってきて、数十人ほどの尸鬼の団体が海の側に寄って来た。


「どうします? とりあえず出てきた連中に矢を当てますか?」


 弦武が聞く。


「致命傷にはなっていないようだが、怒っているということは効いてはいるってことじゃねぇか?」


 雄珀が攻撃を後押しするように言った。


「そうだな、一網打尽にできる好機かもしれない。弦武、いけ」


 俺の命令に、弦武は矢を次々と放った。頭、腹、股間、様々な場所に矢が刺さる。もちろん、的を外したのではない。どこが弱点なのか探っているのだ。

 当てられた尸鬼は断末魔のような金切り声を上げるが、倒れる様子はない。矢の軌道から小舟を見つけた尸鬼たちは、怒り狂って俺たちの元へ行こうとするも、海に阻まれて近寄ることはできない。


「もっと距離を取れ」


 俺は船乗りに命じた。今日はここまでにするつもりだった。尸鬼の姿を見られたことでも大収穫だ。

雄珀は尸鬼がこちらに来られないのをいいことに、調子に乗って立ち上がり、腕をぶんぶん回して煽っている。


「やめろ」


 俺は雄珀を制しながら、あることに気がついた。


(足が、海の水についている)


 水が最大の弱点なのかと思っていたが、水に触れても平気らしい。嫌な予感がする。

 尸鬼の一人が海にずんずん入っていき、海の中に姿を消した。周りの者たちは、様子を見ている。すると、もう一人海の中に入っていって見えなくなった。

 しばらく固唾かたずを飲んで見守るも、海に変化はない。


「浮き上がってこない、やっぱり尸鬼は泳げないんだ」


 弦武がほっとしたように呟いた時だった。


「あぶねぇ!」


 雄珀が弦武をかばうように覆い被さった。突如として海の中から尸鬼が出てきて、雄珀の腕に噛みついた。


「うっ!」


 雄珀は激痛に顔をしかめた。

 俺は素早く剣を抜き、尸鬼の体を真っ二つに斬りさいた。尸鬼の体は海の中に沈んでいく。


「大丈夫か!」


 雄珀の体を見ると、噛みつかれた腕が火傷の痕のようにただれていた。


「すみません、僕を庇ったから」


 弦武は自分の服の腕布を切り裂いて、雄珀のただれた手に巻いた。


「こんなもん、かすり傷だよ」


 雄珀は笑顔で言ったが、額には大粒の汗が吹きだしている。

 とりあえず無事なことに安堵したが、俺はあることを思い出した。


「戻れ! 早く本土に戻るんだ!」


 俺が叫んだので、雄珀と弦武は驚いて緊張感を高めた。船乗りはかいを大きく漕ぐ。


「海に潜ったのは、一人じゃない」


 俺の呟きに、雄珀と弦武の顔が曇る。


「くっそ、泳げないんじゃないのかよ!」


 苦々しそうに雄珀は叫んだ。


「泳げないのではなく、泳いだことがなかったのだろう。現に、他の尸鬼たちは島に残っている」


「俺たちが怒らせたからか?」


 雄珀が悔しそうに眉を寄せると、弦武が首を横に振って言った。


「いいえ、遅かれ早かれ尸鬼は海を渡ったでしょう。島は食いつくされたように木々が枯れ果てていました。食べ物がなくなれば、海を泳がざるを得ない」


 弦武の冷静な分析は、俺の見立てとも合致している。

 いつかは必ずこうなっていたのだ。自分たちがいる時にそれが行われたことを不幸中の幸いと思おう。


(だが、どうやって尸鬼と戦う? 真っ二つに斬った尸鬼はちゃんと死んだのか? そもそも、すでに死んでいる者をどうやって殺す?)


 結局全面戦争になりそうだ。尸鬼が本土に辿り着く前に戻らなくては。

 船が本土に近づくと、待機していた武官たちや船乗りたちが、笑顔で手を振っていた。彼らはまだなにも知らない。


「逃げろ! いますぐそこから逃げろ!」


 俺は大きな声で彼らに呼びかけたが、潮風の流れが悪いのか彼らには届かない。焦燥感だけが増していく。

 すると、負傷した腕を片方の手で支え、そこから熱が出ているのか額に大粒の汗を拭き出している雄珀が、船の先頭に立ち大声を放った。


「逃げろ~!」


 山にまで届くかと思うような大声だった。

 潮風すらものともしない声に、本土にいる味方の動きが止まった。手を下げ、笑顔が消えた。皆で顔を合わせて、様子を窺っている。

 すると、雄珀がもう一度声を張り上げた。


「逃げろ、尸鬼が来るぞ!」


 慌てて逃げ出したのは船乗りたちだった。彼らは俺たちを助けるためにというよりも、野次馬根性で一緒にいただけだ。責任がなにもない彼らは一目散に逃げだした。

 問題は武官たちだ。逃げろと言われても、皇帝を置いて逃げるわけにはいかない。


 そこで俺も船の先頭に立ち、追い払うような手振りをつけて「逃げろ! 命令だ!」と叫んだ。


 俺の声も本土にまで届いたのか、それとも俺の言わんとする意味がわかったのか、ようやく武官たちも逃げ出した。

 彼らが逃げたほんの少しあとに、尸鬼の頭が海から出てきた。本土の地に足をついた尸鬼は立ち上がり、ゆっくりと歩を進めていく。泳ぎ疲れたのか、歩みはとてもゆっくりだった。

 尸鬼が歩いた足跡は、黒く淀んでいた。触れるだけで腐らせる尸鬼の怖ろしさが、そこに現われていた。


(倒せるだろうか……)


 俺は剣のつかを握りしめながら、背中にゾクっとする寒気を感じた。

 圧倒的な人数差だった簒奪帝との戦いの前でさえ、不安な気持ちになることはなかった。しかし、これは人との戦いではない。果たして人間があんな生き物に太刀打ちできるのだろうか。

 一番頼りになる雄珀は怪我で朦朧もうろうとしている。弦武の弓は、尸鬼を倒せないことは実証済みだ。


(尸鬼を倒せるのは俺しかいない)


 静かな覚悟を固めた。



 私は歴代の皇帝が祀られた祠堂しどうに神官を集め、大規模な祈祷を連日連夜行っていた。

 神官は入れ替わり休憩があるけれど、私はほとんどの時間を祈祷に捧げていた。

 食事もそこそこ、睡眠もほとんど取らず、寒い祠堂の中で膝をつき手を合わせ、一心不乱に祝詞を唱えている。

 亘々は私が倒れるのではないかと気が気ではなく、当初はおろおろしているばかりだったけど、だんだん私の本気度が伝わったのか、今では私の後ろで一緒に祈祷している。

 それは、紅閨宮付きの女官たちも同じだった。私はなにも言っていないし、求めてもいない。他の者たちに構っていられるほど余裕がなかった。それなのに、誰に言われるでもなく、自らの意思で祈祷に参加し出したのだ。


 私の必死の祈りは、宮廷内でも評判となりだし、入れ替わり立ち代わり、様々な官吏が参拝に訪れてきた。

 一時間ほど祈祷に参加する者、参拝だけですぐ帰る者など様々だったが、どんどん人が増えていき、祠堂の外まで埋まるほどの賑わいとなった。


 不思議なもので、歴代の皇帝が祀られている祠堂に赴くと、それまで雲朔は愚帝なのではと懐疑的だった者たちまでが、雲朔の生還を心から祈る気持ちになるという。

 官吏たちが話しているのを立ち聞きした亘々から聞いた。


 雲朔は由緒正しき血統の皇帝だ。簒奪帝とは生まれからして違う。

 歴代の賢帝たちのおかげで国は栄え平和に過ごせてきた。亡くなった皇帝に世話になった者は、昔を思い出しながら涙を流している者もいたそうだ。


 薄まりかけていた信仰心を思い出し、天に祈る。血も涙もない残酷な現実に打ちのめされ、天は大栄漢国を見捨てたと思っていたが、そうではない、天は新たな皇帝を我らに授けたのだ。今こそ天の御力を信じる時だ、とみんなの心がだんだんと一つになっているのを感じる。


 私の切実なる祈りの姿が、なくなりかけていた皇帝への求心力をあげ始めていた。

 けれど私は、そのことを意図して祈祷を始めたわけではなかった。最初は、祈祷に一生懸命になるあまり、こんなにも人が増えていることにすら気がつかなかった。


(天上にいらっしゃる皇祖の神々の御方よ、どうか雲朔をお守りください)


 今、自分にできることはこれしかない。

 天の御力を強め、雲朔に届けること。この行為が無駄だとは一片の疑いもなかった。なぜなら不思議な力が宿った鏡を実際に見ているからだ。


(雲朔、どうか、どうか無事で……)


 ひたすら真摯に祈り続けた。


 ◆


 本土に到着すると、俺は真っ先に船を降り駆け出した。弦武は雄珀を気遣いながらも、俺の後を追ってこようとしている。


「いいから、その場で待っていろ」


 走りながら二人に言うと、二人は歩みを止めるどころか加速して俺の隣に追いついた。


「おい、なめんじゃねぇぞ、このくらいの傷、屁でもねぇわ」


「その発言、不敬罪で処罰されますよ」


 淡々とした表情で雄珀に突っ込みを入れる弦武。

 一緒に戦うことを当然と思っている。この二人にはなにを言っても無駄だなと思った。

 呆れるような、心強いような……。


(ありがたい)


 死地をかいくぐった仲間だ。俺が彼らを守ろうとすれば怒るだろう。雄珀なら、『お前が俺に守られてろ』と言うかもしれない。

 俺は薄っすら笑みを浮かべ、尸鬼を倒すために頭を切り替える。


「尸鬼の後を追うのは簡単だな。ご丁寧に足跡を残してくれていやがる」


 尸鬼の踏んだところは、燃えたあとのように黒く汚れている。


「泳ぎ疲れているでしょうから、そう遠くには行っていないはずです」


 弦武の言う通り、尸鬼は海からさほど離れていなかった。生ごみの腐ったような匂いがしてその周辺を見渡すと、林の中で尸鬼がさまよっていた。

 茂みに隠れ様子を窺う。

 戦略を考えている時だった。林の奥の方から村人が大きな声で叫んだ。


「尸鬼だ!尸鬼が来たぞ!」


 指をさして、興奮するように騒ぎ立てる村人たち。船乗りや武官たちはこの場から逃がすことができたが、村人たちは盲点だった。


「くそ、あいつら、俺たちに石を投げてきた奴らじゃねぇか」


「大きな声を出したら尸鬼に狙われる」


 俺が立ち上がると、村人たちは、今度は俺を指さして罵った。


「皇帝のせいだ! 尸鬼が現われたのも、尸鬼が村にまで侵入してきたのも、全部あいつのせいだ! 愚帝め、帝位を降りろ!」


「あんのやろうっ」


 雄珀が怒って立ち上がった。


「やめろ、彼らは悪くない」


 俺が雄珀を止めると、弦武も悔しそうな顔で俺を見上げた。


「……彼らの言うことは一理ある」


 俺が視線を下げてポツリと呟くと、雄珀が俺の右肩を押した。


「一理もなにもねぇよ! 俺たちがどんな思いで簒奪帝を倒したと思っていやがる。どんな思いで命がけで戦ったか。国民のため、あいつらのためじゃねぇか、それを……」


「待ってください。気持ちはわかりますが、今は……」


 弦武が熱くなった雄珀を止めると、村人たちの方から悲鳴が上がった。

 尸鬼が村人たちに襲いかかったのである。


(しまった!)


 俺は一足飛びで尸鬼に向かい、先ほど罵倒してきた村人を尸鬼が喰おうと大きな口を開けた瞬間、尸鬼の首を斬り落とした。

 ボトっと音を立てて、尸鬼の頭が村人の足元に転がり落ちる。


「う、うわああ!」


 村人は腰が抜けたのか尻もちをついて倒れた。

 尸鬼が動かなくなったのを確認して、村人に背を向ける。


「ここは危険だ、早く逃げろ」


「おお、俺は謝らないからな!尸鬼を倒すのは当然だ。それが皇帝の仕事だろ?」


 謝ってほしいとは微塵も思っていないが、口に出されると腹が立つ。

 そもそも皇帝を目の前にして悪態をつくなどなめられている。どうせ処罰はしないだろうとたかをくくっているのだろう。


「そもそも、なんなんだよ、この気持ち悪い生き物は。尸鬼を発生させた皇帝なんて聞いたことがないぞ。よほど天から嫌われているんだな」


 村人は、落ちた尸鬼の頭を蹴った。その瞬間、絶命したと思っていた尸鬼の目が開き、大きな口を開けて村人の足首に食らいついた。


「あああああ!」


 村人の悲鳴が響き渡る。

 すぐさま尸鬼の頭に剣を突き刺し、串刺しにした状態で横に振り上げた。尸鬼の頭は俺の剣から抜けて飛んでいくと、遠くの木に激突し、頭は熟れた西紅柿トマトのようにドロリと崩れ落ちた。


「ああ、あああ、ああ……」


 尸鬼に噛まれた足首が火傷のようにただれている。その怪我の様子は雄珀と一緒だ。だが、少し様子がおかしい。


「大丈夫か⁉」


 傷口を見ると、赤くただれたところがどんどん広まっていく。数秒で傷は腹まで達し、どんどん体は腐っていく。

 尸鬼は人間を襲い、仲間にしていく。そんな言い伝えを思い出し、血の気が引いていく。


「雲朔、斬れ! 尸鬼になるぞ!」


 雄珀が叫んでいるのが聞こえた。


(斬る? 村人を? 敵でもない、武官でもない、ただの一般庶民だ)


 庶民は戦いに巻き込んではいけない。それは古くから伝承される鴛家の教えだ。

 村人は叫び声を上げながら、傷が広がり頬肉まで焼けただれた。


(違う、この者はもう、人間ではない)


 村人の手が助けを求めるように俺の胸に向かって手を伸ばした。

 一瞬で首を斬った。切っ先すら見えないほどの速さだ。半分尸鬼になりかけた顔が、地面に転がる。すると、体も倒れた。溶けるように朽ちていく。


「うわ~、人殺しだ!」


 少し遠くから見守っていた村人たちが俺を指さす。

 俺は剣を鞘に収めないまま、ギロリと村人たちを横目で睨みつけた。

 すると、村人たちは息を飲んで、それからはなにも発しなくなった。


(力で抑えつけるなんて簡単なことだ。ここで俺が彼らを全員殺しても問題にすらならないだろう。だからこそ、俺は……)


 下を向いて、息を吐く。時々、なにが正しいのかわからなくなる。初めて人を殺したとき、思わず吐きそうになった。死人の見た目の気持ち悪さよりも、強烈な罪悪感が襲ってきたからだ。殺した人間の血しぶきが全身にかかり、体臭と鉄が混じったような匂いにえずいた。今は、血が自分にかからないように綺麗に斬ることができる。そんな器用さなんて、本来得ない方がいい。それだけ人を殺めてきたということなのだから。


 俺は何者なのだろう。皇帝は殺人を犯しても罰せられない。言葉一つで死刑を言い渡すことができる。多くの人の命を握っている。俺は、それに値する人物なのだろうか。

 苛ついて、悪態をつく村人を睨みつけるような未熟者なのに。こんな大人に、なりたくなどなかった。


「大丈夫か、雲朔」


 雄珀が俺の肩に手を置いた。顔を上げたら二人が側にいた。


「ああ、問題ない。それよりも、剣が錆びついた」


 先ほど村人を斬ったとき、少し切れ味が悪く感じた。まだ使えるが、戦闘において一瞬の時間の遅れは死に直結する。


「錆びた剣であの速さですか。さすがですね」


 弦武が感心したように言う。俺は剣を鞘にしまった。


「雄珀、傷の状態を見せろ」


 俺の言葉に弦武がハッとして雄珀を見る。雄珀は額に汗をかきながら、俺の言わんとすることの意味を理解したのか口を真一文字に結んだ。

 先ほどの村人は、尸鬼に足首を噛まれ、そこからどんどん尸鬼化していった。雄珀の腕も尸鬼に噛まれている。

 雄珀は黙って、巻いてもらった布を解いた。噛まれた傷口は黒くなっているが、赤ただれた痛々しい様子はなかった。


「治ってきている? どうして」


 弦武が傷を覗き込み、しげしげと眺める。傷が明らかに引いていっているので、雄珀は得意気に胸をそらせた。


「はっはー! だから言っただろう、このくらいの傷、屁でもないと!」


 雄珀の体が頑丈だからなのか、驚異的な治癒力からなのか。そのどちらでもないと俺は踏んだ。


「言い伝えでは、尸鬼になるのは憎しみや怒りで支配された者だという。つまり、尸鬼になるかならないかは、体ではなく心が関係しているのではないだろうか」


 これは推測というよりも、俺の直感だ。これまで直感に頼って外れたことがない。直感によって生かされていたといっても過言ではない。


「だとしたら、まずい状況ですね。ここの村人たちは率直に言って性格が悪い」


「そうだな、文句ばっかりは一人前だ」


「石を投げてくる時点で最低ですよ」


 弦武と雄珀が互いに共感している。この二人は性格がまるで違うので、意見が合うことはまれだ。なかなか珍しい光景だと思った。ちなみに俺も、村人たちは性格が悪いという意見には同意する。

 村人たちは、最初から表立って悪態をついてきたわけではなかった。最初は遠くから誰が言ったのかわからない状況で言ってきた。それを無視したら、処罰されないとわかった村人たちはどんどん過激になっていった。どこまでなら許されるか慎重に図りながらやっているので余計にタチが悪い。

 こういう者たちは、親切にすればするほどつけあがり、感謝の気持ちよりも、やってもらって当然という思考をしている。つまり、性格が悪い。または、性根が腐っているともいう。

だから尸鬼になるんだ、と言ってやりたい気持ちもあるが、辛い環境が性格を歪ませたとしたら、皇帝として彼らを救ってやりたい気持ちもある。

そんな性格にならざるを得なかった背景は、国の責任でもある。もしも彼らに心の余裕ができたら変わるのだろうか。

それとも、彼らは彼らのままなのだろうか。


「とりあえず、本部に戻って戦況を立て直そう」


 俺が言うと、玄武が頷いた。


「そうですね、一旦逃がした武官たちも集めましょう。剣なら戦えることがわかりましたから……ってなにしてるんですか、雄珀さん⁉」


 雄珀は、形を失い、ドロドロの粘土状になった尸鬼を燃やしていた。


「え? いや、こいつ、ピクピク動いているから、とりあえず燃やしてみようと思ってよ」


「とりあえず燃やすってどんな発想しているんですか」


「海に捨てたら船乗りたち怒るだろ」


「まあ、そうですけど。その前に触りたくないですけど」


「だから、燃やしたら息絶えるかなと思ってよ」


 能天気な会話を聞きながら、燃えている尸鬼を注意深く観察する。水分が多そうで燃えないのかと思いきや、しっかり炭になっていく。良い方法だと思った。

 下火になっていく様子を見ていると、遠くの海の方で甲高く鳴る笛の音がした。


「この音は……」


 俺たちは目を合わせ、すぐに音の方に駆け出した。

 この笛の音は、武官たちが鳴らしたものだ。なにかがあったのだ。

 武官たちの群れはすぐに見つかった。狼煙のろしも上げてくれたので迷わず辿り着けた。


「なにがあった⁉」


「陛下、あ、あれを……」


 武官たちは小高い丘の上から、海を指さした。そこには、島から泳いできた尸鬼の群れが、どんどん上陸していた。

 目視するだけで、ざっと数十人以上の尸鬼が陸地にいる。尸鬼の大移動だ。

 錆びついたこの剣でどこまで戦えるか。新しい剣を貰うにしても、必ずそこで隙が生まれる。この人数を一度に相手にするのはなかなかきつい。


「陛下、僕らも戦います」


 俺は、不安そうな顔をしてしまっていたのだろうか。武官の一人がそんなことを言ってきた。


「いや、お前たちは……」


「俺たちは、大栄漢国の武官です。陛下をお守りすることが俺たちの仕事です!」


 他の武官たちも賛同し始める。どんどん士気が高まっていき、俺の声が届かないほど熱くなっていた。

 困惑していると、雄珀が俺の肩に手を回してきた。


「お前が皆を守ってやりたいように、皆もお前を守りたいんだよ。お前はいつだって一人で背負い込もうとする。簒奪帝との戦いの時だってそうだ。一人の犠牲者も出したくないってお前は言った。あの時も皆に怒られただろう、学ばない男だな」


 励まされているのか責められているのかわからない言葉だ。でも、不思議と胸が熱くなっていく。

 あの時の戦いで、味方からも多くの犠牲者が出た。一人では決して勝てない戦だった。でも、やらなければいけない戦いだった。


「また、戦わないといけないのか」


「そうだよ、未来のためだ」


 国のため、未来のために亡くなっていく者たちがいる。彼らの命は無駄ではない。虐殺された者たちの命も無駄ではない。全ては未来に繋がっていく。そのために、俺たちは命を張る。


「大栄漢国のために! 行くぞー!」


 声を張り上げ、先陣を切って丘を駆け下りていく。尸鬼の群れが俺たちに気づき、襲いかかってきた。

 躊躇なく尸鬼を切り裂く。未知の生き物との戦いだったが、今回の方が気持ち的に楽だった。簒奪帝との戦いは、大栄漢国の武官たちとの戦いだった。殺すたびに、自分の大切ななにかが失われるような気がした。彼らにも、家族がいて、大栄漢国のために戦っているのだと思うと、剣を持つ手が震えた。

 すぐ隣で、味方が斬られ、それにカッとなって敵を斬る。あの地獄に比べたらまだマシだ。尸鬼はもう、人間ではないのだから。


「うあああ!」


 悲鳴の方向を見ると、尸鬼が武官の首筋に喰らいついていた。尸鬼を後ろから切り裂いた。


「大丈夫か⁉」


 喰われた武官の首は赤くただれていて、武官は額から大粒の汗をかき、ブルブル震えていた。


「気をしっかり持つんだ。尸鬼になるな!」


 武官は泣きながら、頷いた。

 周りを見渡すと、太陽が沈み、夕陽が海を照らした。海辺はまさに地獄絵図。尸鬼の悲鳴か、人間の悲鳴かもわからないほど、渾沌こんとんとしていた。

 尸鬼は斬っても動く。倒したと思った尸鬼に後ろから噛みつかれる。しかし、皆の奮闘で多くの尸鬼を倒すことができた。海辺には尸鬼のドロリとした液状化した遺体がそこかしこに転がっている。

 すると、液状化した物体から煙が出てきた。白い湯気のような煙は空中で一つに集まっていき、だんだんと人の顔の形になっていった。


「あれは……」


 空を見上げた弦武の顔が曇る。この世で一番憎い人物の顔が浮かび上がったからだろう。

 もちろんそれは俺も同じだ。親も、兄弟も、信頼する家臣たちも、全てこいつに奪われた。胸の奥に仕舞っていた憎悪が膨れ上がる。顔を見るだけで吐き気がするくらい憎い。憎悪で頭がおかしくなってしまいそうだ。


「簒奪帝、いや、盾公とんこう


 久しぶりに奴の名前を口にした。簒奪とはいえ帝がつく名を口にしたくなかった。あいつはもう、帝でもなんでもない。大量虐殺を犯した罪深き人間だ。


「どうしてあいつの顔が浮かび上がる」


 顔面蒼白になりながら雄珀が呟く。


「黒幕は盾公だったということだろう。死してなお、俺たちを苦しめようということか」


 髑髏ドクロのように人相の悪い顔が空に浮かび上がっている。

 盾公のくぼんだ目、わしのように湾曲した鼻、そして歪んだ薄い唇。

 白い煙は奴の特徴をしっかりと映し出していた。顔だけの盾公は、まるで業火に焼かれているかのように苦しみ悶えていた。しかし、その苦痛に歪んだ顔が、逆に怖ろしさを増長させていた。

 お前らも共に苦しむがいいと言っているようだ。

 武官たちはあまりの怖ろしさに尻込みしている。無理もない、盾公の顔の形をした白い煙は、今にも俺たちに向かってきそうだった。切り裂こうにも実態がないのだ。

 盾公は俺たちの憎悪を膨らませ、尸鬼にしてしまうつもりらしい。憎しみを操り、地獄へといざなおうとしているのか。


(このままではいけない)


 俺は皆の心に湧き上がった恐怖や絶望を打ち払うために大きな声を上げた。


「俺たちは負けない。何度絶望を味わおうとも立ち上がるぞ!」


 剣を掲げ、空に浮かんだ盾公に向かって宣言する。

 すると、地面でカサカサと音が鳴り、一匹の金蜥蜴が俺の体を這い上がっていった。あっという間に、剣を掲げた俺の腕を上がっていく。


「お前、いつの間に……」


 金蜥蜴は俺の手によじ登ると、トンっと空に向かって飛び跳ねた。

 その瞬間、金蜥蜴は、大きな麒麟きりんへと変貌を遂げる。


 麒麟は、神話に出てくる伝説上の瑞獣ずいじゅうだ。顔は龍のように獰猛で、牛の尾と馬のひづめを持っている。

 麒麟は空に駆け上がり、盾公の形をした白い煙の中に突進すると、盾公はまるで絶叫するように消えていった。

 月の光に麒麟が輝く。まるで黄金の宝のように神々しい光を放つ麒麟は、俺たちの真上を駆けた。すると、宝石のような小さな粒が空から降り注ぐ。その粒に触れた尸鬼たちは、バタバタと倒れ、黒い炭になって風に吹かれて飛んでいく。

 そしてその光り輝く粒は、赤くただれた武官たちの傷までも綺麗に治していく。


「天からの思し召しだ。皇帝を助けに来たんだ」


 雄珀が空を見上げながら、感慨深げに呟いた。

 麒麟は、仁の心を持つ皇帝が現われると姿を現すと言われている。麒麟とは、すなわち名君の誕生を知らせる神獣で、平和な世が訪れる前兆とされる。


ひざまづけ!」


 雄珀がよく通る声で武官たちに命令する。この号令は三跪九叩頭さんききゅうこうとうの合図だ。

 武官たちは一斉に俺の前で跪き、地面に三回頭をつけて最上級の礼をした。

 その様子を丘の上から野次馬のように眺めていた村人たちも、その場で膝をおり、涙を流しながら拝んでいる姿が見えた。


 麒麟は俺の上で、馬が前足を上げ高い声で鳴くような体勢を見せた。


まるで、新たな皇帝の誕生を祝福してくれているようだった。

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