第7話 神になにを祈るのか
次の日、俺は数十人の武官を引き連れて出立した。
数日以内と言っていたので、こんなに早く出立するとは思っておらず、高官たちは慌てふためいていた。
なぜ、こんなに早く出立を決断したかというと、時間をかければかけるほど不利になると思ったからだ。仲間を増やされては犠牲者も増える。そうなる前に一掃しておきたい。
もう少し尸鬼について調べてから戦いたかったが、調べている間にも犠牲者が増えるのならば、一か八か、やってみるしかない。
勝算があるわけではない。だが、自信はあった。昨夜華蓮に会ってついた根拠のない自信だ。
(簒奪帝を倒す時の方が圧倒的不利な状況だった。人数を考えれば勝てるはずのない戦だった。でも、俺は勝った。天は俺の味方だ)
自分を鼓舞するように言い聞かせる。
「簒奪帝だろうが尸鬼だろうが、俺たちに敵はない。いくぞ!」
馬に乗った俺の掛け声に、武官たちが野太い声で「おー!」と応えた。
彼らは簒奪帝を倒した時に一緒に戦った頼もしい味方だ。
俺を信頼し、俺のためなら自らの命を犠牲にすることをためらわない忠臣だ。あの戦場を共に戦ってきた仲間と一緒にいると、心が落ち着く。
俺は先頭を切って馬を前進させた。
◆
その頃、皇后の住まいである紅閨宮の客室では雲朔の出立を聞いた亘々が悲しみに暮れていた。
「新婚なのに戦地に行かれるなんて大家は酷いです~」
半泣きで私に愚痴ってくる。
部屋には紅閨宮付きの女官が一同に集まっていた。
泣きたいのは私の方なのだけれど、立場上そうもいかず、静かに座して局丞からの報告を聞いた。
「そもそも敵が尸鬼ってなんですか。尸鬼って存在するんですか。何者ですか尸鬼って。どうやって倒すんですか」
「うるさいわよ、亘々」
私は冷静に諫めた。まあ、昨夜、同じようなことを言って雲朔を怒らせてしまったので、強くは言えない。なるほど、雲朔もこんな気持ちだったのか。たしかにこれは地味に苛々する。
「雲朔は皇帝として務めを果たしに行ったの。民を守るために」
私は膝の上で両手を握りしめた。
不安がないわけじゃない。むしろ不安しかない。
人間が尸鬼に勝てるのか。雲朔は無事に帰ってくるだろうか。
せっかく八年ぶりに再会できたのに、もしも雲朔が死んでしまったら……。
縁起でもない考えが浮かぶたびに、胸が締め付けられる。
(行かないでと言えたらどんなに良かったか……)
雲朔はもう、彼一人だけの命ではないし、私だけの雲朔でもない。
今や雲朔は皇帝で、私は皇后だ。
「そうですよね、天が大家をお守りしてくれます」
亘々の言葉に私はハッと顔を上げた。
「亘々、たまにはいい事言うじゃない! それよ!」
「はい?」
亘々はきょとんとした顔で私を見た。
私は高揚し、輝くような瞳で亘々を見つめる。
私を慰めるために深い意味もなく口にした言葉を褒められて、亘々は戸惑っていた。
「え、なんで? 私はいつだっていい事しか言ってないですけど?」
亘々は『ですよね、皆さん』と言いたげに周囲を見渡したが、目線を合わせてくれる人は誰もいなかった。私も亘々の言葉は無視して、郭解に向き合った。
「郭解、皇后の仕事は神事に関することも含まれるのよね⁉」
「はい、大家は政治や軍事のみならず、祭祀や占術なども行います。それは天に認められた娘々であっても同じく特別な御力が宿っていると考えられております」
「尸鬼が出たってことは、天神だって存在するってことでしょ。それなら、天の御力をお借りして尸鬼を倒せばいいのよ!」
私は立ち上がって言った。かなり興奮した様子で言ったので、皆が呆気に取られていた。そして、その場にいた誰もが思っていたのであろう言葉を亘々が口に出した。
「……どうやって?」
「わからないっ!」
私は自信満々にはっきりと答えた。
大丈夫だろうかと思ったのは亘々だけではないはずだ。
◆
尸鬼が出たという島にいく途中、野営して一夜を過ごそうとしていた俺たちの軍は暗い雰囲気が漂っていた。
皇帝となって旅に出るのは初めてのことではない。華蓮を探すために国中を歩き回った。
しかし、今回の旅は前回とは決定的に違っていた。
『尸鬼が出た』
というのは、すでに国中に広まっていた。人の噂の早さというのは驚異的である。
尸鬼を討伐しに皇帝自らが出立したというのに、国民の目は冷たかった。
前回の旅では、簒奪帝を倒してくれた新皇帝という歓迎する温かさがあった。
簒奪帝は重い税を課していたので、皇帝が変わったら生活も豊かになると期待していたのだろう。
しかし実態は変わらなかった。
重い税のまま暮らしは一向に豊かにならない。加えて尸鬼の発生である。
天が皇帝を決めると信じている信仰深い国民性なので、尸鬼という得体の知れない呪われた生き物が出たということは、天がお怒りになっている証だと思っているのだ。
尸鬼の発生は、皇帝の評価を著しく下げた。
村を歩いていても、罵詈雑言や石まで投げられる始末である。
俺を慕う武官たちは、無礼極まりない村民の行動に怒り心頭だった。しかし、攻撃してはならないと俺が言ったので、ただ耐えるほかなかった。
武官たちの精神疲労はどんどん蓄積していった。
「誰のために尸鬼を対峙しに行こうとしているのか、あいつらは全然わかってねぇな」
野営地を作り終え、焚火に川魚を串に刺しながら男は言った。
皇帝相手に軽率な口の利き方をしているこの男の名は
鎧の上からでもわかる鍛え上げられた長身と、赤茶色のごわついた長髪。野性的な雰囲気の中に精悍な面立ちと気さくな笑顔で女性に大変人気があるらしい。こんな粗悪な奴がなぜ人気なのかは俺にはわからない。
ただ、腕っぷしの強さは確かだ。二十代という若さで禁軍の
元は山賊の長で、俺と出会い臣下になった。俺の初めての臣下であり、もっとも信頼を寄せている男だ。
「宮廷からも国民からも、ここまで侮られる皇帝もいないだろうな」
俺は乾いた笑いと共に自嘲した。
他人に弱さを見せるようなことを言うのは俺にしてはとても珍しい。それだけ堪えているということでもあるし、雄珀を信頼しているということでもある。
「お前はな、優しすぎるんだよ」
焼き上がった川魚を俺に渡しながら雄珀は言った。
「優しい? 冷徹皇帝といわれている俺が?」
川魚を受け取り、ガブリとかぶりつく。元は山賊だったこともあり、雄珀の作る野営料理は絶品だ。川魚を焼くだけでもなぜこんなに美味しく焼けるのか不思議だった。
「お前は口下手で人見知りだからな。俺みたいに笑顔を振りまいていれば女から黄色い声が上がるぞ」
雄珀は白い歯を見せて豪快に笑うと、俺は冷めた目で雄珀を睨みつけた。
「華蓮以外の女性に興味はない」
「おお、さすが鴛鴦の子孫」
「しかしまたお前と旅ができるとはな。宮廷に戻ってからは、お前は女にうつつを抜かして会う機会もなくなっちまったからな」
「誤解を招く発言はやめろ。女遊びをしていたわけではない」
でも、うつつを抜かしていたというのはあながち間違ってはいない、と俺は心の中で付け足す。
「政治ばっかりで体を動かしていないからなまっちまったんじゃねぇのか?」
「仕方ないだろ、高官たちに仕事を丸投げして旅に出ていたんだから、押さなければいけない判が山積みだったんだ。それに国の借金もどうにかしないといけないし」
「そうだなぁ、今やお前は国一番の借金持ちだもんな。そんな男に嫁いでしまったお嬢ちゃんも難儀だよなぁ」
俺は本気の殺気を込めた目で雄珀を睨みつけた。
これにはさすがの雄珀もたじろぐ。しかし、これだけ俺が怒るというのは図星だからということだ。
雄珀も冗談で言ったのに、俺がとても気にしていることだったことがわかったからか、それからは黙って焼き魚を食べたのだった。
◆
雲朔のためになにか手伝えることはないかと祈祷や占術に一縷の望みをかけようと思った私。
郭解に案内されたのは、特別な廟堂だった。
朱色の柱に、
四隅に龍の置物が配置されている渾天儀や、大きな亀の甲羅の置物、
「娘々、どうぞご自由にお使いくださいませ」
郭解が
「え、ちょっと待って。使い方を教えて」
「わたくしは後宮の局丞でございます。占術の使い方は専門外ですよ。それに、この廟堂は特別な御方しか入場が許可されておりません。わたくしは案内まで、失礼致します」
お役御免、といいたげにさっさと部屋から出て行ってしまった。
一人残された私は、途方に暮れながら立ち竦んだ。
(どうしよう……)
わけのわからない道具ばかりを目の前にして固まる。とりあえず、自分が言い出したことなので、自分でなんとかしなければいけない。
(占術なんてしたことないから分からないわよ。祭祀を司る神官や占術師を呼んでもらおうかしら。でも、占ったところで役に立つかしら。そもそも、戦い方に口を出すべきじゃないし……)
考えれば考えるほど、名案だと思って興奮してきた案が、愚策に思えてきた。
(違う、私がやりたかったのは天に助けを請うことよ。結婚式であれだけ大掛かりな祭祀をやったのだもの、私にだって天のご加護が宿っているはずじゃない?)
大栄漢国の民は信仰深い。それは私だって同じことだ。生まれた時から皇帝や皇后は選ばれた天の使者だと聞いてきた。だからこそ心から敬い、崇めていた。
まさか自分が、その皇后になるとは思ってもみなかったし、皇后になったところでなにかが変わったとは思えない。
けれど……。
私は香炉の煙を手を使って全身に浴びせた。そして、祭壇の前に膝をつき手を合わせる。
(天の神様、どうか御力をお借しください)
昔から、数多いる後宮妃の中で、皇后だけが結婚式を執り行う理由。
あれだけ大規模な祭壇を設け、神聖な式を行うのは、天に皇后をお披露目するためだ。皇后は皇帝と手を取り合い、天地を守る役割がある。
私は必死で祈った。必ず天は雲朔の味方になってくれる。なぜなら雲朔にはその器があるからだ。私利私欲で動くような簒奪帝とは違う。民を憂い、家臣を守る気概がある。
(天の神様、どうか……)
その時だった。私の後ろでゴトっとなにかが動く音がした。
驚いて振り向くも、なにも変わったところはない。
(ネズミかしら)
私が再び前を向こうとしたとき、見知った物が視界に入った。
(あれは……)
立ち上がると、渾天儀の後ろに置いてある鏡に手を伸ばした。
(これは、真眩鏡)
以前、皇帝の宸室で見せてもらったものだ。どうしてこれがこんなところに。これは絶対に偶然ではないと、私の胸が高鳴った。
真眩鏡を手に取り、その黒鏡に己の顔を映す。すると、真っ黒だった鏡がゆらゆらと動き、透明で澄んだ鏡となっていく。
そして、その鏡に映し出されたのは私の顔ではなく、目を黒布で覆っている老人だった。
(雲朔が師匠と呼んでいた人だわ!)
「そこにいるのは誰だ」
老人は地底に響くような厳格な声で訊ねた。
「わ、私は、華蓮と申します」
慌てて返事をする。
「おお、そなたが華蓮か。雲朔がよく寝言で名を呼んでおったわ」
(そ、そうだったんだ……)
私は恥ずかしくなって頬を赤らめた。
「綺麗な瞳をしておる」
「見えるんですか⁉」
驚いて尋ねると、老人は口元を綻ばせた。
「目を隠していた方が、よく見えるものもある」
よくわからないけれど、深い言葉なのだろうと思って安易に感心する。
「それより、なぜ儂を呼んだ」
「呼んだ……のかはわからないのですが、天に祈ったのです。どうか雲朔を助けてほしいと」
「雲朔がどうかしたのか?」
穏やかだった老人の雰囲気が険しくなる。私はこれまでにあったことをできるだけ詳細に説明した。尸鬼が発生し、雲朔が対峙しに出立したこと。尸鬼の正体も倒し方もわからないこと。老人は黙って私の話を聞き、そして口を開いた。
「尸鬼の正体は悪霊じゃ。不平不満、愚痴が多く、努力はしないのに他責思考の者に悪霊が寄って来る。悪霊は淀んだ魂が大好物じゃ。引き寄せられ寄生虫のように人間の体に住みつく。昔からの言い伝えで尸鬼になるぞ、というのは悪霊に憑りつかれるという比喩なのじゃ。しかし、今回の場合は見た目も変わり果ててしまった。つまり、それだけ強い悪霊が憑りついたということじゃ。何百、何千人もの命を奪うような怖ろしい行いをした者しか、それほど強い悪霊にはならない」
何百、何千人もの命を奪った残忍な人物。私はそんな怖ろしい人間を一人しか知らない。
「まさか、簒奪帝……」
私の言葉に、老人はコクリと頷いた。
「それだけ強い悪霊になれるのは、そやつしかおらぬだろうな。皇帝の座を奪い、多くの罪なき人の命を奪った」
「死してなお人々を苦しめるなんて酷すぎます」
私は悔しさに、ぐっと拳を握った。
八年前のあの惨状は今でも脳裏に焼きついている。落ちた軒轅鏡から流れ出る赤い血。
理不尽な最期を遂げることになった皇帝と、必死に戦った私の父。そして、惨殺された後宮妃たち。
彼らが一体なにをしたというのだ。たった一人の欲深い人間のせいで無慈悲に命を奪われ、盾公は簒奪帝となり私欲の限りを尽くした。たくさんあった国費を使い込まれ、民は重い税を払い、後宮妃たちや側近の文官たちは奴の最期に巻き込まれた。
ようやく死んだと思ったら、今度は悪霊となり人々を襲い来る。こんな理不尽なことがあるだろうか。
「簒奪帝のやったことは怖ろしいことだ。悪霊は常に業火で焼かれているような痛みと苦しみを伴う。奴の魂はこれから何万年、何十万年、永遠に苦しみ続けるだろう。どんなに終わらせてほしいと願っても終わることはない苦しみだ」
「それなら、地獄で永遠に苦しみ続ければいいんだわ。どうして表に出てくるのよ」
つい本音が出てしまう。永遠に苦しみ続けると聞いても同情する心はまったく湧いてこない。
「それは悪霊のせいではない。悪霊は意思を持たない。悪霊は引き寄せられたのだ、人間の醜い
尸鬼が発生したのは、私が以前住んでいた村の住民が移住した島だという。
彼らがいかに心根が腐っている人たちか知っている。彼らはいつも愚痴や悪口を言っていて、自分たちが苦労したり努力することは決してせず、他人の金を当てにして自分たちがいかに楽して生活できるかばかりを考えていた。
村人たちは働くことが大嫌いだった。島に流されても、一致団結して開拓していけば暮らしていけるだけの資源や食料がある島だったらしいけれど、彼らは不満を口にするだけで勤勉に働こうと思う者はいなかったに違いない。
自らの処遇を呪い、島流しにした皇帝を呪い、衰弱していったのならば、同じく皇帝を呪って死んだ簒奪帝の悪霊を呼び寄せたとしてもおかしくはない。
「天の神はどうして私たちを助けてはくれなかったの……?」
私の瞳から一粒の涙が零れた。どうしてあんな
すると、老人は私を慰めるどころか叱責するような厳しい言葉を投げかけた。
「どうして他者に救いを求める。どうして強き者が弱き者を助けることが当たり前だという思考になる。なぜ自分では動かない。弱き者が損をする世の中を嘆くなら、自らが強き者となり助ければ良いだろう。神に全てを任せる前にやるべきことがある。神はなんのために存在するのか、それを考えろ」
頭のてっぺんから稲妻が落ちたような衝撃だった。天からお叱りを受けた気分だ。
(そうよ、私はなにもしてこなかった。ただ理不尽な現実に嘆くだけだった。悪だくみをする人物がいるなら、それを防げるくらい頭が良くなればいい。力でねじ伏せようとする者がいるならば、それ以上に強くなればいい。頭も良くない、力も強くない、なにも勝るものがないならば、せめてできることを一生懸命するしかない。自分の力で世の中を切り開くのよ。強き者になれないのなら、強き者を支える人になればいい)
私は自分のことをわかっているつもりだ。力では男に勝てるわけもなく、雲朔のように賢くもない。一芸に秀でたものもなかった。でも、意思の力だけは誰にも負けないくらい強い自信があった。
「ありがとうございます、自分のやるべきことが見つかりました」
私が礼を述べると、真眩鏡は黒くなり、老人の姿は映らなくなっていた。
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