われを畏れよ

きょうじゅ

けもののなまえ

 その獣は狡猾で残忍であった。牛を殺して喰らうのはヒグマとして驚くに値する振る舞いではないが、獲物に執着するヒグマという生物にしては珍しく、彼は喰いもしない牛を戯れに殺めたし、時には喰らい残しを放置して去ってしまうこともあった。人間は彼を忌んで、名を与えた。OSO18、と。


 しかし、彼自身はそんなことは知らない。だいたい人間からその名で呼ばれたことすら一度もあるわけではない。ただひっそりと闇に潜み、彼は日々に陵虐の限りを尽くした。


 彼はその名を与えられる前から、彼の方ではヒトというものを知っていた。人間とは恐るべきものである、ということを。まだ若熊であった頃、彼は一度人間の捕獲罠にかかってしまったことがある。どれだけ暴れようが、いくたび咆哮しようが、檻は頑として彼を捕らえ続けた。


 閉じ込めた自分をどうするつもりなのは分からないが、これはヒトという生物の仕業である、ということだけは彼にも分かった。彼は人間を憎み、恨んだ。一体どういうつもりなのかは分からないが、やがて彼は解放された。自分の知らない場所だが、森の奥であった。


 人里から引き離して、なおそこで生きろというのが人間が彼に向けた期待であったが、そんなことは彼には分からない。ただ、彼は自分の生まれた場所ではない森で容易に生をなすことはできなかった。元から住んでいる同胞の縄張りもある。森が広いからといって、それは別に彼のために広いわけではないのである。


 腹を減らし、彷徨い、飢え、また流離さすらい、彼はやがて人跡の地に辿り着いた。多くの牛がいた。実際に名が付くのはもう少し後なのだが、実質として、その日そのときこそがOSO18の誕生の瞬間であった。人に飼われた牛たちは愚図で鈍重で、彼はほしいままに飢えを満たすことができた。血を浴びることができた。


 それから、幾度の夏を迎え、幾度の冬を越えたか。彼は山で木の実を漁ることもようようせぬようになり、アケビを集めることもなくなり、専ら牛の肉ばかりを喰らって、年月としつきを送っていた。


 そしてその晩も、彼はこそこそと牧場に忍び込んだ。人間に見つからぬように、月の細く照らぬ夜を選ぶだけの知恵もあった。


 そこで、彼が見出したものは、まったくもっての巨体を誇る、堂々とした牝牛であった。その牛は、仲間たちの中でもっとも早く、ヒグマの襲撃に気付いた。そして、脳内に迸るアドレナリンの促すままに、大いなる咆哮を上げた。


「ブモォォォォォォ!」

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