カルキの海

外都 セキ

生きたかった

 子供の頃、それはとても小さかった。

 穏やかで、優しく、腰の高さにも満たない小さな海。頑張れば全てを飲み込めそうだった。

 両親が暖かな瞳で私を見つめる。それが無意識に嬉しく、単調な笑顔を私は浮かべる。何をしても喜んでくれた。この時が一番楽しかった。悩む必要の無い無垢な自分を自然に演じられたから。


 パシャパシャ、パシャパシャ、パシャパシャ、パシャパシャ、パシャパシャ、パシャパシャ、パシャパシャ、パシャパシャ、パシャパシャ、パシャパシャ、パシャパシャ。


 学生の頃、それはとても大きくなった。

 私は背が低かった。溺れないように必死に踠いた。他人を巻き込まないように、一人孤独に淡々と。手足は水中から出さず、僅かに起きる水流に全ての身を乗せる。辛うじて水面から出た口で肺いっぱいの空気を吸い込み、それを糧に次の数秒を生きる。

 助けの手は振り払った。巻き込みたくない。その一心だった。不器用だけど、それが私のできる精一杯の努力だった。そのうち、誰も助けてくれなくなった。

 外野から見れば滑稽な姿だろう。けれど、とても生を実感した。恐怖と苦痛が、私が今生きている証明をしてくれる。この感覚は嫌いだけど、嫌いじゃない。

 

 その時味わった化学的なカルキの味。不快ではないが、舌先が少しピリピリとする人工的な水の味。それが忘れられない。


 バシャバシャ、バシャバシャ、バシャバシャ、バシャバシャ、バシャバシャ、バシャバシャ、バシャバシャ、バシャバシャ、バシャバシャ、バシャバシャ、バシャバシャ。


 社会人の頃、それは世界全体に広がった。

 どこにいても濁流にのまれ、空気はあるのに息ができない。どれだけ踠いても、何も掴めない。

 人、社会、環境、情緒の全てが私に襲いかかる。どれだけ穏やかな場所にいても、五感が緊張を生み出し、縛り付ける。

 逃げたくても逃げられない自分を嫌悪する。辺りを見渡せば、上手く荒波に乗る者、船に乗って優雅に過ごす者、私と一緒に沈んでいく者。

 この世は不平等にできている。生まれ持った環境などは採点に値しない。勝者がいれば、敗者もいる。私は後者だ。

 ならば、もういっそのこと今沈んでしまえばい。特段珍しいものでもないだろう。現に今がそうだ。他人のことを表面上では気にしても、真に憂いている者など一握りもいないのだから。

 自分と身近な人間さえ幸せならそれでいいのだ。過ごした環境の違いなど、記憶を転写でもしなければ分からない。理解する気のない他人の薄っぺらい感傷に浸られるのは、とても癪に障る。


 理解されないのなら消えてしまおう。私が沈んで消えれば、誰も私を理解する必要がなくなる。元からなかったことにしてしまえば、誰かの心に痼りも残らないだろう。


 バシャバシャバシャバシャバシャバシャバシャバシャバシャバシャバシャバシャバシャバシャバシャバシャバシャバシャバシャバシャバシャバシャバシャバシャバシャ。


  溺れる。溺れない。そんな中途半端ばかりな人生。

 家族はいつの間にかいなくなった。最後に見たのは棺に入った家族だったモノ。ぱっと何の前触れもなく全てが壊れ、余韻を残さず消えていった。

 たらい回しの邪魔な子。親類から絶縁されていたと幼心ながら感じたのは、あの目を見たからだった。

 

 向けられるのは嫌悪の瞳。厄介者の穀潰し。誰も私を見ない、話さない、褒めない、叱らない。無意識の彼方へと飛ばす。

 成長するにつれ、それが心の枷になる。うまく人前で声が出ない。過呼吸になる。自分の形が保てない。

 水の中に入るとさらにそれを実感する。自分が溶けていくような危うい感覚に包まれた。それを本能が必死に阻止しようと、陸へ引きずり出そうとする。


 腰についたカラビナ。その先にあるのは、私を現世に繋ぎ止めておくための命綱。天から伸びているそれは、切ろうとしても切れない。ハサミでも、引きちぎろうとしても、噛みちぎろうとしても。

 沈もうとする体を必死に手繰り寄せるかのようにピンと張った綱は下に、下にと体重をのせるほど、逆行するかのようにゆっくりと昇っていく。

 踠いた。けれど、私の意思が反映されることはなく、綱は同じ行動を繰り返す。

 ついには体の全てが水中から出た。水は私を離さんと飛沫をあげる。私もそれを掴もうとするが、水は流動体となって手の内をすり抜けた。無機質な綱は、私の意思を真っ向から否定するかのように、私を引き上げる。髪から滴る水滴一つ一つの音が水面に波紋を無数に生み出し、一層悲壮感を掻き立てた。


 もう全部終わりにしたい。なのに、なんで。なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで。


 …タパ、…………タパパッ。………パパッ。………………タタタタ、タタ。タタタ。……タタタタタタ。タパ、タパパ……タタ。タパパパパ、パパタパパ。…………ッタパパ。


 こんな綱さえなければ、私は消えるのに。誰も私を要らないのに。そう思うたび、綱は勢いを増して昇っていく。


 私は、生きたがっているの?


 そう一瞬思った。綱はその思考に呼応したかのように、勢いを増す。まるで空が飛べそうなほど。


 生きる…。生きたい。生きたい!まだ生きていたい!


 他人のことなんて知らない。逃げてちゃダメだ。自分の人生なんだから、好き勝手に生きてやる!先のことなんて考えるな!今が楽しければそれでいい!


 単純だった。けれど、心からつきものが取れたようだった。天は明るい光を発し、私を迎え入れようとしている。綱はその光目掛けて繋がっていて、段々と眩しくなってくる。

 気分が昂る。上に着いたら何をしようか。海外に行ってもいいし、国内の温泉を巡ってもいい。ペットも飼いたい。大きな犬と猫がいい。それに、いずれは結婚をして子供も


 カチャン


 とても軽い金属音。直後、カナビラのロックが外れた。それが意味するものを理解するのに、そう時間はかからなかった。


 落ちていく。


 光が遠のいていく。命綱が外れて、暴れている。内臓が浮遊する感覚に包まれる。落下速度は徐々に増していき、光は空に浮かぶ星の様に小さくなった。

 落下しながらも、頭は妙に冴えていた。恐怖も苦痛も何も感じない。むしろ、心地いいまでもある。もとより自分がこの結果を望んでいたのだ。もう決断は変えられないというのに、多少の希望が幻想を生み出した。

 この結果に異論はない。ただ、


「あぁ、もっと素直に生きたかったなぁ…。」


 ドボンッ


 凄まじい勢いで水面へと叩きつけられる。過去一番の深さへと潜る身体。勢いは収まることを知らず、どんどんと底へ沈んでいく。私と共に沈んだ気泡たちは、我先にと、私を見捨てるかのように昇っていく。水中から微かに見える景色は真っ暗で、二度と現世に触れることができないことを物語った。

 

 口を少し開けた。吸えない空気を吸おうとして。

 口に入った水は、あの時と同じカルキの味がする。化学的で、自分に素直に生きられなかった記憶を呼び覚ますあの味。



 



 静かに涙が出た。カルキの海はその涙の味を飲み込み、静かに揺らいでいる。

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カルキの海 外都 セキ @Kake0627

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