第31話 白い狐と銀の髪
星明かりに照らされた銀の髪が輝くのを、エレノアは静かに見つめていた。
長い睫毛に覆われた青い瞳にはなぜか見覚えがあるような気がする。
神々しいまでの美しさと静謐さを湛えたその男は、エレノアを見ると口元に弧を描いた。寝起きの働かない頭でぼんやりとその姿を見ていたエレノアは、これはまだ夢を見ているのではと考える。
《我に見入っているのか? 清らかな魂を持つ子よ》
「…………シルバー?」
神の遣いを名乗る白い狐だということに衝撃を受けたエレノアは眩暈を感じ、意識を失った。
再び、目を覚ますと白々と夜が明けている。
目覚めたのはいつもと同じエレノアの自室だ。
おそらく悪い夢を見たのだろう。狐が人になるわけがないのだから。
不安になったエレノアは自分に言い聞かせるように口に出して確かめる。
「はは、夢だよね」
《気付いたか? 清き魂の子よ》
先程聞こえたのと同じ声に驚いて、エレノアは振り向く。
エレノアと同じ銀の髪の男がまるで自室のように寛いでいるではないか。
慌ててベッドから立ち上がったエレノアは、重要なことを確認する。
「……シルバー? あなた、シルバーなの?」
《いかにも。汝らの祈りの力で我はこのように体を人と同じように……!》
そうシルバーを名乗る男が言い終える前に、エレノアは彼に詰め寄る。
余りの勢いにたじろいだ銀の髪の男の襟元をぐいと掴み、顔がくっつく程に引き寄せたエレノアは普段より低い声で言い放つ。
「戻って。今すぐ、元の姿に! でなれけば、ここから追い出します」
*****
いつもより言葉少ななエレノアにカミラは首を傾げる。
だが、この部屋にはそれ以上にしょんぼりと落ち込んでいる者がいた。
真っ白な毛を持つ神の遣い、シルバーである。
「その犬、いつもは節操なくガツガツと良く食べるのに、今日は大人しいですね。食が進まないような繊細さを持っていたとは驚きです」
《…………》
いつもならきゅうきゅうと抗議するであろうカミラの言葉にもシルバーは反応しない。しゅんと落ち込んだままのシルバーにエレノアはまだ素っ気ない。
そんなエレノアに耳を下げて、シルバーは拗ねる。
《……清らかな魂の子を喜ばせたかったのだ》
「ここはあの姿じゃいられないわよ」
ぼそぼそと呟くシルバーの悲し気な様子に、エレノアも折れる。
貴族研修士ヴェイリスの宿舎はもちろん、平民研修士ラディリス用の宿舎も厳しく管理されている。正道院内も一般の者が入れる場所とそうでない場所はきちんと分かれているのだ。
もし、男子を自室に招き入れたとなれば、懲戒を受けることになるだろう。
《かつて我の姿は美しいと人は皆、称賛した。清らかな魂の子も喜ぶかと思ったのだ。我が姿を人に変えられるようになったのも、汝たちの祈りの成果だからな》
どうやら、人々が祈りを捧げた結果、シルバーは力を増やし、姿を人に出来るようになったらしい。
以前より言っていたことはこのことだったのだとエレノアは納得する。
めずらしくしゅんとした様子のシルバーにエレノアも心も些か痛む。
「でも、説明のしようがないでしょう?」
《愛らしき姿から、麗しき姿になったと誇ればよいだろうに》
「却下! 聖女じゃないか? って噂になっちゃうじゃない!」
《だが、そもそも聖女だ何だと言うが、大部分の者は汝たち人が言い出したものでしかないぞ。神や我が聖女と認めた者は今まで数える程しかおらぬ》
その言葉にエレノアは目を見開く。
幼い頃に聞かされた童話や古い言い伝え、正道院の伝承と様々な形で聖女というものを皆、知っている。
しかし、その多くは神やシルバーに認められた聖女ではないというのだ。
「え、神様やシルバーに認められなくっても聖女って名乗れるの?」
《膨大な魔力や資質、そして純粋な祈りの力を持つ者が聖女となり得るのだ。だが、そうではなくとも人が勝手に作り上げることがある。政や宗教、人の都合でな。だが、聖女としての力がありながら、静かに生涯を終えた者、その力を国や民のために使った者と様々なのだ》
今まで、エレノアの知識や常識の中では聖女という者は国や民のために尽くす存在として考えていた。伝承や正道院で聴く話の聖女がそうであるからだ。
だが、それすらも後世の者や国や正道院が作った可能性があるということに、エレノアは今気付かされる。
この国、アスティルスでは白い狐の顕現と正道院で誕生すると信じられてきた。
そのため、この事実を知っているカミラや父たちは、エレノアが聖女である可能性が極めて高いと考えている。
シルバーが訪れてから使えるようになった、菓子を作りたいという願いを叶える魔法は規格外だ。そういったことからも、エレノアは聖女となるのではないかと不安を抱えてきたのだ。
《汝のように清らかな魂を持つ者を中心に、民が祈ることで神の力を支え、世界を安定に導いていく。そうであれば、聖女がどうあろうと神も我も気にはせぬ》
「本当に本当ね!? 嘘は言いっこなしよ?」
《……嘘と言えば、早朝、汝の言っていたことはどうなのだ》
「私の言っていたこと?」
ぼそっと小さな声で呟いたシルバーは、絨毯を前足でモサモサと毛羽立てる。
拗ねたその様子にエレノアはハッとする。
人の姿で現れたシルバーに慌てて、つい強い口調で元の姿に戻るように言ってしまったのだ。どうやら、そのことをシルバーはかなり気にしているらしい。
《また、あの姿になったら我を追い出すのか?》
「だから、あの姿だとここでは一緒にいられないのよ。それに私はシルバーがもふもふしてた方が好きよ、可愛いもの!」
《……そうか! 我は愛らしいのか!》
その言葉に伏せていた耳がピンと立つ。しっぽもきゅんと上を向き、青い瞳が輝きだした。どうやら、美しいと称賛される自分の姿を拒絶したことで傷付いたシルバーは「可愛い」という誉め言葉が気に入ったらしい。
ゆらゆらとしっぽを振って、満足気な様子を見せたシルバーは用意された器に口を付け、食べ始めた。
エレノアはシルバーの姿に口元を緩め、シルバーの声が聞こえないカミラはやれやれといった表情を浮かべる。
人の姿になったシルバーにさほど動じず、そのままの姿の方が愛らしいと言い放つエレノアはなかなかに大胆で肝が据わった少女でもあった。
公爵令嬢エレノア・コールマンとしての記憶と体、そして新たにエレノアとして転生した天海ハル、二つの記憶を持ったこの少女は膨大な魔力を持つ。
断罪され、送られた聖リディール正道院で白い狐シルバーを顕現させた彼女は今、最も聖女に近い存在であろう。
にもかかわらず、彼女の願いは「この世界でも菓子を作ること」とエレノアの願いであった「家族の幸せ」のみである。
そんな彼女の純粋な願いは正道院の「聖なる甘味」の復活、そして貴族研修士ヴェイリスと平民研修士ラディリスの関係を改善しつつある。
エレノアを中心に、周囲は大きな変化を遂げているのだ。
だが、当の本人は今日も菓子作り、そしてどうにかスローライフを出来ないものかと願いながら過ごしていた。
*****
聖リディール正道院は今、国中から注目を集める存在となっている。
聖なる甘味の復活、建国記念の祈祷の会では第二王子エドワードがそれを口にした。今後は聖女も出るのではないかと噂が広がったのだ。
正道院には今、謹慎中の貴族研修士ヴェイリスと平民研修士ラディリスがいる。
その中には聖なる甘味の復活に尽力されたと言われる公爵令嬢エレノア・コールマンがいるのだ。
膨大な魔力量を持つという彼女を中心に、聖リディール正道院から聖女が現れるのではと皆、期待をしていた。
そんな聖リディール正道院の正道院長イライザは不機嫌である。
平民研修士ラディリスであるグレースも困惑した表情を浮かべる。
正道院長室で椅子に座ったまま、イライザは眉間に深い皺を寄せた。
「もちろん、この正道院から聖女が現れればそれは光栄なことでしょう。ですが、それを期待して本質から外れてしまってはいけません」
「……研修士希望者はそんなに多いのですか?」
返事の代わりにイライザは深いため息を溢す。
本来ならば、信仰を共にしていく者が増えることは喜ばしいことである。
ヴェイリスとラディリスの関係が他の正道院より良好なため、娘を入れたいと人気が高まっているのだ。
だが一方で、 だが、その目的が「聖女になる可能性、あるいは聖女となり得る者と親しくなること」という者たちもいる。
中には圧力や賄賂をちらつかせる貴族もいて、信仰が篤く生真面目な正道院長イライザとしては信じられぬ思いなのだ。
「本来ならば歓迎すべきことなのでしょうね。ですが、目的を違えている者を研修士にするわけにはいきません。一方で本当にこの道を歩もうとしている者もいることでしょう……研修生希望者を見極め、対処せねばいけませんね」
それは容易なことではないはずで、グレースもため息を溢しそうになる。
しかし、グレースは気持ちを切り替えるために話題を変える。
聖なる甘味が認められ、聖リディール正道院の研修士たちは自信を持った。
貴族と平民、その身分の差を越えた関係が築かれようとしており、聖なる甘味を求め、正道院へと皆が足を運ぶようになったのだ。
「聖なる甘味に関して、エレノアさまに今後のご相談をしなければなりませんね。あの御方は本当に菓子への知識が豊富ですから」
「――そうですね。今は何よりも聖なる甘味の販売と開発、皆さんに正道院という存在を近しく感じて貰うことが重要です。せっかく、研修士たちも意欲的なのです。研修士を増やす必要があるわけではありませんからね」
机の上に溜まった手紙の束から正道院長イライザは目を逸らす。
最近の頭痛の種であるこの手紙だが、イライザの気持ちとは裏腹に魔法鳥や郵送でまだまだ届くことだろう。
物事には優先順位がある。そう自分に言い聞かせて、答えの出ない手紙の束を引き出しへとしまうイライザは他の業務へと意識を向けるのだった。
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