SS カミラの誓い
「そっちに逃げたぞ!」
「捕まえろ! 不吉な者め!」
なぜ自身がそこまで憎しみの対象になるのか、そんな憤りを感じる暇もなくカミラはただ逃げた。ただでさえ汚れている服も素足のままで痛む足も、気にする余裕はない。追ってくる男たちが投げた石でカミラの額からは血が流れている。
カミラはひたすらに見知らぬ者たちの悪意から逃げ出した。
物心ついたときにはカミラの家族と呼べる者は周囲にはいなかった。
没落した下級貴族の家で、カミラは賃金も与えられず働いていた。
黒い髪も黒い瞳も災いの証、肌の色も異なる異国の民。カミラがその家で働けていたのは単に人手と金がなかったからに過ぎない。
主人たちはもちろん、使用人からも見下されていたカミラがそこに居続けたのは他の世界を知らなかったからだ。
だが、ある日その家の娘から仕事を言い遣わされた。
家の外に出て、大通りにある店でパンを買ってこい、それが彼女からの指示であった。カミラが外に出れば、様々な悪意に晒される。そんな結果を期待してのことだ。
その日、カミラは初めてその屋敷の外へ出た。
「いたぞ! おい、誰か捕まえてくれ!」
「どうした? 何かあったのか?」
「あぁ? 不吉な髪の色と目の色で俺の前をよぎったからだよ!」
黒い髪も黒い瞳もこの地域や国にはいない。
そのため、異国の民の血を引く者たちが蔑みや差別の対象となることがある。
屋敷の中でもそういった差別を受けていたカミラだが、外の世界で何の接点もない自身にここまでの悪意が向けられるとは想像も出来なかった。
だが、立ち止まって説明してもわかり合える相手ではないことは確かである。
カミラは必死に走り続けた。
だが、走るカミラは大通りで派手に転んだ。
馬の嘶きと人々の叫びでカミラの悲鳴はかき消された。
「危ない!」
「公爵家の馬車だぞ! 無礼なことを……!」
「見て、黒い髪よ。本当にいたのね」
カミラの膝からは血が滲み、顔や髪、衣服にも土がつき、ただ地面に座り込む。
無礼者の異国の民がどう裁かれるか期待する視線、ただただ不快そうな視線、物珍しそうな視線、さまざまな視線が注がれる。
物心ついた頃より、こういった悪意ある視線に晒されてきた。
もうどうなってもよい、そう思ったカミラにかけられたのは愛らしい声だ。
「ねぇ、あなた。怪我をしているのではなくって?」
「お嬢さま、いけません。中にいてください!」
「でも、あの人が心配だわ」
乱れた黒髪の隙間から見えたのは、銀糸の髪と紫の瞳の子どもだ。
まだ幼い子はカミラを見て驚きで目を見開く。
向けられた厚意が、自分の姿を見てどう変わってしまうのか。
カミラは子どもが何を言うのかを恐れ、目を伏せた。
「いけません! お嬢さま、そのような者に近付いてはなりません」
「お嬢さま、お待ちください!」
小さな体は止めるメイドも御者の手もすり抜けて、カミラへと近付いた。
「ねぇ、あなた大丈夫?」
かすかに聞こえた声にカミラが顔を上げると、幼い子どもはにっこりと笑う。
すぐにカミラの側にしゃがみ込み、怪我をした膝を心配そうにのぞき込む。
「大変、血が出てる! お医者さまに見て貰わなきゃいけないわ! ねぇ、この子も一緒に乗せてって!」
「お嬢さま、それは難しゅうございます」
「だめよ、お父さまならきちんとお医者さまに見せるもの」
こちらを振り向いた子どもはじっとカミラを見た。
「あなたの髪と瞳、素敵ね」
初めて出会った日のエレノアのこの一言をカミラは忘れない。
エレノアとの出会いが全てを変えたのだ。
この日以来、他人のどんな視線にも恐れずにカミラは生きてこられた。
カミラが唯一信じられるのはエレノアの瞳だけなのだ。
その出会いをきっかけにカミラはコールマン公爵家の使用人となった。
カミラが仕えていた家は金銭と交換にあっさりと彼女を手放したのだ。
調べると幸いにもカミラは魔力があった。そのとき、カミラは初めて出会ったことのない家族に感謝をした。
これでもっとエレノアにとって有用な人材となれるのだ。
コールマン公爵家に訪れてからは平穏な日々が続く。
今日も廊下で出会ったエレノアはカミラの姿を見つけるとパタパタと駆け寄り、メイドに注意をされた。その姿にカミラもつい口元が緩む。
「ねぇ、カミラ。ほら、綺麗でしょ?」
「まぁ、美しいですね。お嬢さまの瞳と同じお色です」
「じゃあ、これはカミラと一緒ね」
エレノアから差し出されたのはスミレ色のリボンと黒いレースのリボンである。
メイドにエレノアが黒いレースのリボンを差し出す。
「今日はカミラと同じリボンにするわ。カミラにはこれをあげる! 私と同じ色よ」
「…………」
「カミラ、どうしたの? この色、嫌い?」
リボンと同じ紫色の瞳が不安そうにカミラを見つめる。
「そのようなことはございません! カミラはこのお色が、……大好きでございますから」
震える声でなんとか呟いたカミラに、エレノアはにっこりと笑う。
カミラの後ろに回ると黒い髪に触れた。
「じゃあ、カミラにも結んであげる」
エレノアの小さな髪がカミラの髪に触れている。
彼女が触りやすいようにと、カミラはそっと腰を下ろししゃがむ。
忌まれる髪に触れてくれる小さな手、出会った幼い子どもは当たり前のようにカミラが今まで得られなかったものを差し出す。
最も欲しかったのは他者からの信頼だ。
再び、カミラの前に立つとエレノアは満足そうに笑う。
「うん、いいわ。可愛い! カミラ、似合ってるわ!」
紫の瞳はまっすぐにカミラを見つめる。
その瞳に映る自分がより良い者でありたいとカミラには思うのだった。
*****
「それでね、お父さまやお兄さまに贈るには、どんなお菓子がいいかと悩んでいるのよ」
「カミラはお嬢さまがお作りになるものでしたら、ご当主さまもカイルさまもなんでもお喜びになるかと思いますが……」
「うーん、そうかしら」
「えぇ、確実でございます」
正道院で過ごし始めたエレノアは、「聖なる甘味」を復活させ、白い狐を顕現させた。神を信じたことのないカミラだが、聖なる存在としてエレノアを見出したことは褒めてやって良いと考えている。
正道院に現れた白い狐は聖女の証とも言われる。
エレノアが優れていることは重々承知しているカミラとしては、この状況は当然のものとは言え、王家や他国の王族、国内の高位貴族には決して知られてはならないと考えている。エレノアの願いである菓子作りに関して扱える魔法というものも、決して口外しないようにエレノアには言い含めた。
だが、寛容で自分自身が困難に遭っているにもかかわらず、他者を案じるエレノアのこと、どこまで納得しているのかはわからない。
何より、そんなエレノアの優しさをカミラは敬愛し、今日この日まで側で仕えてきたのだ。
エレノアの髪を丁寧に梳かしながら、カミラはその艶やかな髪の美しさに目を細める。銀糸のような髪はするりと手が零れ落ち、窓からの日差しを受けて輝く。
「お嬢さまの髪は本当に美しいですね。素敵なお色です」
長い睫毛に覆われた目を瞬かせたエレノアは、鏡越しのカミラを見てにっこりと笑う。それは幼い日のように素直で無邪気な表情、これは正道院に訪れてからよく見られるようになったものだ。
「あら、私はカミラの黒髪と黒い瞳が好きよ。安心するわ」
ハルとしての記憶を持つ今のエレノアにとっては、カミラの黒髪と黒い瞳は凛とした美しく親しみと安心感を与える。
じっとこちらを見るエレノアからは気を遣っていったような素振りは全くない。
出会ったあの日と同じように本心からの言葉なのだ。
あの時と同じように、どのような立場となっても変わらない柔軟さと優しさを、目の前の少女は持ち続けている。
「……私はお傍にいられて幸せですね」
「もう、どうしたの? カミラったら急に」
くすくすと笑うエレノアの姿に、カミラも微笑む。
幼い頃と変わらぬ笑顔を、これからも絶やさぬように傍で見守り、紫の瞳に映る自分がより良い者であるように努めようとカミラは胸に刻むのだった。
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