彼女の望むたった一つの条件

そばあきな

彼女の望むたった一つの条件


「それでは本日はよろしくお願いします」


 待ち合わせ場所の駅前の不動産屋。

 そう言って微笑みかける不動産会社の女性に、私の後ろにいた彼女が少しだけ緊張した表情でお辞儀をする。その様子を見て、担当者の女性は安心させるように彼女に向けて笑いかけてから、私の方に向き直った。


「今回はお嬢さんの暮らす住居の内見ということでよろしかったでしょうか」

「ええ、そうですね。正確には私は彼女の親ではなく保護者、といったところですが」


 二十代半ばの成人男性と未成年の女子の組み合わせなので、年齢的にも親子とは思われていなさそうだったが、一応そう断っておく。

 しかし私の言葉に、彼女は少しすねたような表情を浮かべて背中をペチペチと叩いていた。

 そのやりとりを、なぜか担当者の女性は微笑まそうに見つめている。


「……ああ、そうだ。住居に向かう前に、一つよろしいでしょうか」


 彼女からの攻撃が一通り終わったところで、私は改めて担当者の女性に向き直って口を開く。


「一応こちらの方で書類を用意したのですが、書類の方に不備がないか確認していただいてもよろしいでしょうか」


 そう言いながら、私は持参していた鞄の中からクリアファイルを取り出し、担当者の女性に差し出す。


 ――――本人確認書類。


 本来なら入居の申込の段階で出すような書類なので、相手から求められなければ見学の時点でこちらから出す必要のないものなのだが、「書類の不備の確認のため」と言えば断りづらいだろう、というのは彼女からの提案だった。


「ありがとうございます。拝見させていただきます」

 案の定、担当者の女性が書類を受け取ってにこやかに微笑む。


 しかし書類に書かれた彼女の名前を見て、担当者の女性の表情が一瞬だけ固まった。


 ただ、そこはプロの営業者の意地か、そんな表情を出したことすら気のせいかと感じるほどの笑みをこちらに向けた。



 ただ、私たちにはその反応で十分だった。



 担当者の女性から書類を受け取り、私は深々と礼をする。


「すいません、ここまでご足労いただいて申し訳ないのですが、今回の内見は見送りでお願いします」


 突然の私の言葉に驚く担当者の女性に対し、私はにこりと笑って言葉を付け足す。


「……あと、もし、私たちのことがこの周辺で広まっていたら、この不動産会社ではお客様の情報を漏洩していると判断しますので、情報の取り扱いにはお気を付けるよう、お願いいたします」


 最後に、念押しという名の脅しも忘れないでおく。

 担当してくれた女性には悪いが、そこまでしないと彼女の情報が遮断される気がしなかった。


 さっきまでの緊張した様子から一変して興味をなくした彼女を横目に、私は過去に思いを馳せる。



 数か月前、ある一家で殺人事件が起きた。

 たまたま外出していた一人娘を残し、その子の両親は「誰でもよかった」と後に語った犯人によって惨殺されたのだ。


 犯人はすぐに捕まったが、その殺害方法があまりに残忍だったために、テレビや新聞では連日にわたって事件の報道が繰り返された。


 一人残された一人娘の少女はプライバシーの配慮から名前を公開されてはいなかった。


 ただ、その被害者一家の苗字が、あまり他では見かけない苗字だったことが災いした。


 その子は一転して有名人となり、今までの暮らしが難しくなった。


 周りに溶け込むよう母の旧姓を名乗る、というのもあったけれど、彼女はそれを拒否した。


「どうして悪いことをしていない私が配慮をしなければいけないの?」


 彼女の主張はもっともだ。

 ただ、そう主張しても世間が無視してくれないほどには、彼女は有名になりすぎた。


 例えば、目の前の反応がまさにそうだった。

 一瞬だけ見せた、異物を見るかのような目。

 ここが事故物件でないとしても、彼女が住むことで事故物件になるのではないかと邪推するような目を向けられたこともあるので、それよりはマシだったけれど、これだけ有名だと赤の他人の私でも堪えるものがあった。


 電話口では私の名前で予約を入れたので彼女のことには気付かなかったのだろう。



 事件のニュースを見て、被害者が私の知っている人物だとすぐに気付いた。

 人生に絶望し、自暴自棄になっていた頃に出会い、無償の愛を与えてくれたあの人たちは、もういない。

 しかし、彼らがよく話題に出していた、溺愛する一人娘はまだ残されている。


 いなくなってしまった彼らの恩義から、私は今の仕事をしながら、身寄りのなくなった彼女の保護者のような役割を行っていた。


 

 やっぱり駄目かあ、と彼女が小さく息をついて踵を返す。


 彼女が望む条件は、たった一つだ。



「自分のことを知らない場所で暮らしたい」



 それは、実際に暮らす前段階の不動産の担当者が相手だとしても、同じだった。


 だから、もう十分だったし内見も取りやめることにしたのだ。


 一度担当者に礼をしてから、すでに興味をなくしてしまった彼女の後を追って、私も足を進めていく。



 担当者が書類を見た反応で私たちが諦めるのも何回目なのだろうか。



 どうやら、書類選考が通って実際に住居を見学できる日が来るのは、まだまだ先のようだった。

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