61、霞幽の本音
四面楚歌という言葉がある。
助けがなく、周りが敵や反対者ばかりである状態を表わす言葉だ。
この状況に陥るまでの経緯を振り返ってみよう。
まず、自分が後見してきた『傾城』紺紺が自分を地上に呼び戻し、可愛いことを言って眠ってしまったので、寝室に運んだ。
すやすやと眠る姿は、愛らしかった。
寝室を出ると、
桓温は「自分が外で見張りをしますから、中で添い寝なさっては」と言う。
たいそう生真面目そうな顔だが、これは
その証拠に、桓温の口の端がひくひくとにやつきを噛み殺している。何が面白いのか――霞幽は無視して席に戻った。
「霞幽。おいっ、霞幽よ。我が息子よ」
通路をしばし歩くと、観覧席にいたはずのお飾り当主の父が来た。
霞幽が采配を振るう時は言いなりになり、霞幽が不在にする間は後の事を任せられる、大変都合の良い父である。最近は、ぜい肉を蓄えた腹が目立つ。
前回の人生では研ぎ澄まされた刃のような父だったが、今世ではどうも気が抜けているような……。
「
「お前、愛人を長く囲っていると思っていたが、父に紹介もせずに衆人環視の場で捨てようとするとはとんでもないぞ。朴念仁め」
何を言われているのかわからない。
桓温を見ると、「我が主君は朴念仁なのです」と言っている。
二人とも残念そうな顔だが、他にもっと別の言葉があってしかるべきなのでは?
「なぜ私が残念な人物のように言われるのでしょうか」
私は天仙っぽいのだが。
先ほどいかにも天上の使いめいた神々しさを見せたはずだが。
光に包まれて消えて戻ってきたばかりなのだが、あの一部始終を見ていなかったのだろうか。
宴席で待っていた妹は、怒っていた。
「お兄様。接吻して
「
「だからなんですの~~っ!」
隣にいる皇帝が「まあまあ」と宥めてくれている。
「霞幽の話も聞いてみようではないか」
皆、まるで普通の人間に接するように話しかけてくるではないか?
それに、騎馬民族の石王と
この事態は何事か。なぜ剣を向けられなければならないのか。
「お嬢様の保護者として、軟弱な男は許さんですよ。あと、以前『好きにおし』と言ったくせに裏切った恨みもありますんで」
「保護者は私ですが?」
石王の言葉に眉を寄せると、今度は
「兄なので私が保護者です」
「十年も離れていた兄君は保護者と言えるでしょうか? 私はずっと生活の世話をして、教育もしてきたのですよ」
「世間から隠して自分好みに育て、自分を愛するように仕向けるなんて、いやらしい」
「な……っ」
心外だ。
悪女にならないように、清廉潔白な術師になるようにと、気を使いまくって立派に育てたのに。
十年、文通しかしていなかったのに。
その手紙にも、甘い言葉などは書いていないのに。
ただ事務的に、後見人が書きそうなこと、必要なことだけを書いていたのに。
「私はやましいことをしていません。その言葉は彼女の名誉も穢していますよ。撤回を求めます」
「でも接吻したのでしょう?」
「……」
演舞台にあがると、皇帝が「ほいっ」と青釭剣を投げてくれて、見世物のように決闘が始まる。
「お兄様~~っ、やられちゃえ~~っ」
「朕の霞幽が負けるものか」
私は主上のものではない。
「念のため言うが、霞幽。相手は王と王子だから殺してはならんぞ!」
私を何だと思っているのですか、父上。
「おいっ、俺もまざっていいか!」
宮正の
ワイワイと人が集まり、酒を片手に野次を飛ばしてくる。それどころか酒樽を投げてきたり酒をぶっかけてくる。
人の集まりは、不可解だ。
「こんなことをして何の意味があるのだ?」と首をかしげるようなことで盛り上がり、熱気をあげて、ばか騒ぎ。気づけばみんなで笑っている。
そんな人の輪の在り様が心地よく感じる自分もまた、不可解だ。
「だいたい私は、彼女が私以外の男を望んだ際は、相手が良い人物であれば結婚も許すつもりでしたよ。ただ、私が認めるような相手がいない、という残念な現実があるのですが……」
「なぜ接吻したんです?」
「……」
霞幽は、紫玉を幸せにするつもりで育てたのだ。
彼女に好きな男ができて、その男が自分の基準を満たす「彼女を任せてもよいだろう」という男なら、結婚を許すつもりだった。
しかし、紫玉は美しく高貴なので、放置していると無限に男が寄ってくるだろうし、一度目の人生のように男を手玉に取る悪女になっても困る。だから、とても慎重に育てていたのだ。
「おい、霞幽。都合の悪い質問は聞こえないふりか? 朕はそういうの、よくないと思うぞい?」
主上の好奇心を満たす必要性は、感じない。無視でいいのではないだろうか。
「やはり、釣り合いというものがあるでしょう。家格も上等で、能力も高く、人柄もよく、年齢的にも離れすぎておらず、一途で……そんな男、なかなかいません」
彼女は、高嶺の花だ。
高貴な、ただ一輪の、至高の花だ。
そんな花に手を伸ばす男は、生半可な男では許せない。
私の大切な花なのだから、愛でていいのは私だけなのだ。
「……譲っても良いと思える男がいないのです」
「霞幽?」
【自分の中に妙な思いがある】
霞幽は、それを自覚した。
「主上に初接吻を奪われるなど、とんでもない」
「朕がなんだと? 霞幽?」
「……?」
本当だろうか。
では、この胸の落ち着かないわだかまりは、なんだろうか。
【自分の心が、わからない】
使命感はいつも胸にあった。
目的ははっきりしていた。
それは、一度目の人生の自分が課した重荷だ。
過去の自分には、情熱があった。切望があった。
だが、その狂おしい情念を叫び、天に聞き届けてもらった後、霞幽はそれを失った。
情熱は消え去り、心は波風の立たない湖水のようで、ただ「使命を果たさなければ」という思いだけが残った。……はず、なのだ。
【十年前は、紫玉公主に何も感じていなかったはずだ】
【……そうだっただろうか?】
十年前、自分にとって特別だった紫玉公主が手紙を送ってくると、年齢に見合わぬ利発さに驚いた。保護した当時、すでに紺兵隊を虜にする魅力的な性質がある様子でもあった。
「やはり、特別な人物は生まれたときから凡人とは違うのだな」「公主でもあるのだから、人の上に立つ者としての教育を受けているのだな」と思ったものだった。
彼女は普通の人間とは違うのだから、どのように育つかも予想がつかない。
【危険だ――その程度の感想だった気がする】
保護者と被保護者としての文通の日々は、十年続いた。
手紙を送ると、返事は返ってくる。それが霞幽の日常だった。
他愛もない日常をつづる文字に、季節の花を添えて、香り付けした手紙は、平和の象徴のようだった。
学んだこと、見聞きしたもの、それについてどう思ったか、そんなことを書いてある手紙は、乾いた心を潤してくれた。
「……」
【私は彼女を気に入っていた】
都で会った彼女は、一度目の人生で会った彼女とは違っていた。
揶揄ってやると顔を赤くして、可愛らしい。
ふにふにの頬はやわらかく、何度も触れたくなる。
【可愛いと思った】
他の男が同じように触れて、同じような表情を見てしまうのは、いけないと思った。危険だと思った。どんな男も「可愛い」と夢中になってしまうような、世を乱す原因になるような、危険な可愛らしさだったのだ。
【他の男には、やらない】
あの娘は自分のものなのだ。一度目の人生では妻だったのだし。
接吻して揶揄っていいのも、自分だけなのだ。
「……?」
今、過激なことを考えた気がする。
「いいぞ、石王~~っ!」
「お兄様、避けないでくださいまし。可愛げのない」
この浮かれきった妙な空気のせいだろうか?
使命を終えて、天に戻らずに地上で生きる道を選んだからだろうか?
自分がおかしい。
大きく踏み込み、真正面から石王の剣を受け止める。
高く澄んだ金属音が響く中、右手側から押し寄せる
宮正が袖に火がついて「あっちぃ!」と叫び、水をかけてもらっている。何をしているのだか……。
「そのまま燃えてしまえ。悪い虫め」
「霞幽?」
「私の花が美しいからと
「霞幽? それは本音であるな? いいぞ、もっと言え。朕は許す!」
そもそも、私は一度目の人生から彼女の正統な伴侶であり、出会ってたかだか数年、数か月の男たちよりもよほど思い入れがあり、この二度目の人生は彼女を幸せにするために生きてきたわけで……。
立派に使命を果たし、消えようとしたところを、彼女が引き留めてくれたわけで。
「ふむ……」
混沌とした周囲を見渡し、霞幽は結論を下した。
「おかげで考えもまとまったように思います。結論……私が一番、彼女にふさわしい。なんといっても私は天仙ですし。感謝します、有象無象の愚男ども」
――自信満々に言えば、
「ぜんっぜん天仙らしくないですわ。お兄様!」
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