58、空箱と服毒

 後宮の北にある鍾水宮しょうすいきゅうで、幼い公主が泣いている。

 

「うわぁぁん、うわぁぁん」


 華蝶カディエが産んだ娘だ。

 腹を痛めた子は可愛いと言うが、華蝶カディエに愛情はない。

 

 子どもは政治の道具で、自分の地位のために産んだ。

 ……本当は男児を産まないといけなかったのに、女児が生まれてしまった。


うるさいこと」


 『黒貴妃』華蝶カディエは娘の頬を打ち、乳母に命じた。


「連れておゆき。二度と顔も見たくないわ。……お前たちも、出ていきなさい」


 後宮で生きる妃たちは、子を産むことを期待されて育てられた、選りすぐりの花々だ。

 妊娠した妃がいれば堕胎させようと企て、生まれた赤子はなんとか殺せないかと命を狙う。後宮は、そんな伏魔殿だった。


 華蝶カディエがそんな後宮に入った時、皇帝にはすでに妊娠中の寵妃がいた。


 父は手を打ってくれた。

 野心家の父は、もともと隣国と通じていた。

 隣国の岳不群を支援し、彼の下克上を成功させ、家宝である玄武の珠を持って隣国を訪れて――玄武の珠に妖術を籠めて帰ってきた。さらに、地仙の諸葛老師という強力な助っ人まで獲得してくれた。


 おかげで寵妃の暗殺に成功したが、子は産まれてしまった。

 しかも、男児だ。

 諸葛老師は、「男児は呪い殺すので、気にせず世継ぎを産むことに専念せよ」と言ってくれた。

 男児は呪いのせいで病弱で、常に「明日死ぬかもしれない」と言われ続けていたが、これがなかなか死ななかったが。


 けれど、華蝶カディエは妊娠できた。

 無事に健康な子が産めば、病弱な男児より健康な華蝶カディエの子を世継ぎに、と推せる。

 子の性別が男であるように一族郎党が祈った。


 そして、子が産めた――女児だった。


 あんなに苦労したのに。

 あんなに苦しく痛い思いをしたのに。

 ――その絶望といったら。

 

「どうしてわたくしは女児を産んでしまったのか」

 ……どうしてわたくしは女に生まれてしまったのか。


 運がない、と思った。

 天が自分に意地悪をしていると思った。


 産まれる子の性別など、自分にはどうしようもできない。

 そんなものに、人生の成否がかかってしまう。

 そんなものに、必死にならないといけない。


 懸命に祈り、願い、……叶わない!


 それが悔しくて、理不尽だと思った。


 わたくしは悪くない。

 わたくしは手を尽くした。

 なのに、それなのに、最後の最後で、天が自分に味方しない!

 

 そんな華蝶カディエに、地仙の老師はよく話しかけてきた。

 彼は、人の負の感情を愛するのだという。気持ちが悪い老師だ。


『わしは人間の枠を破り、より高みに昇ろうと修行してきた。

 そうしてわかったのだが、わしは異端であり、わし以外の人間は下賤の極み。

 

 権力者や富豪は権力や金銭に執着し、市井の民も愛だの恋だのに浮かれてばかり。

 酒を飲み、くだらない話をしてばかり。

 そうして短い寿命を終えて死ぬ。おお、なんとくだらない。

 

 わしは友人たちに言ったのだ。

 「おぬしら、それでよいのか。より良き自分になるために努力をしないのか。時間を無駄にしているぞ。光陰は矢のごとし、もっと熱くなれよ。自分ではないもっと凄い何かを目指せよ」と。

 

 しかし、これが理解されぬのだ。


 世間は、冷たいものよなぁ。みんなわしの思いに共感してくれぬのじゃよ。天さえもわかってくれぬ。わしはこんなにも人と違う高尚な人格であるのに、天が認めてくれぬ。それゆえに、わしは地上で才能を持て余しておるのじゃな』


『よくわかりませんわ』


 なんだ、この老師は。不快だ。

 華蝶カディエは顔をしかめたが、諸葛老師は「それよ」と頷いた。

 

『人と人はわかりあえない。この世はむなしく、わしらは孤独である。

 孤独という一点において、わしらは共通している』


『わかりませんわ』 

 

『わからない。わかってもらえない。それは、不快ではないか?

 寂しく、むずむずして、むかむかしないか?』


『……』 

 

『世の中が嫌いではないか?

 自分が嫌ではないか? 

 周囲の環境が、人間たちが、気に入らないと思わないか?』

 

『……』 

 

 毒だ。

 華蝶カディエはそう思った。


『だから、壊そう。滅ぼしてしまおう。

 国が滅びても山河はある。人が滅びても世界には影響がない。

 わしらの人生の時間は限られており、何もしないでもわしらは死ぬ。

 

 しかし、何かをして死にたいと思わぬか? 

 おぬしは、むなしさを理解する女ではないか?』


 毒だ。

 毒は、わたくしの中に醸成されていた。

 これまでの人生で、長い時間をかけて溜まっていた。

 それが、外の毒に触発されて、ここにいるぞと主張している。


『……歴史に名を刻もう。ただの無名な雑草で終わらず、大それたことを成し遂げよう』


『わたくしは……』 


 天につばを吐きたい。


 人を理不尽に苦しめて、「運が悪かったわね、天があなたを守ってくれないのね」と笑ってやりたい。

 

 華蝶カディエはそう思ったのだった。



「天よ。天は、どうしてわたくしに優しくしてくれないの。今からでも、わたくしに男児をちょうだい。ううん……わたくし、男児よりも、もっと違う何かが欲しい。でも、それがわからない。辛いの。苦しいの。腹が立つの。この怒りをわかってほしいの。天よ、何か言って」


 天は、華蝶カディエに優しくしてくれなかった。守ってくれなかった。


 だから、華蝶カディエは反抗期の子供のように、天に唾を吐く。


 ――自傷だ。他者を派手に巻き込んで、迷惑な。


 

 * * *

 

 侍女たちを全員退室させ、華蝶カディエは大粒の黒瑪瑙が光る指輪を撫でた。毒粒を秘めた指輪は、必要なときに貴い身分の者が尊厳死を選ぶためにある。

 

「思えばわたくし、たくさんの人を踏みつけて生きてきたわ。最高に気分がよかった」


 部屋には、誰もいない。


「わたくしは、寵愛を手に入れた。貴妃の地位まで上り詰めた。後宮を掌握し、邪魔な女を、ライバルたちを、気に入らない者を、殺していった」


 天は、華蝶カディエを見ているだろうか。

 見ていないのだと思う。そんな気がしていた。ずっと。  


「わたくしの邪魔になる妃を殺した時は、胸が空く思いがしたわ」


 誰かが不幸になるというのは、心地よい。

 嘆く皇帝の心の隙間に入り込み、術の力も借りて自分に依存させていく時は、興奮した。


 後宮を掌握した時は、もう何も怖くないと思った。

 全てはわたくしの思いのままだった。


 次々と処刑遊戯を吹っ掛けて、殺した。

 最初は身分が下の者から。すこしずつ上の者を標的にしていった。

 本人も痛めつけ、大事な存在を傷つけてやった。

 悲鳴を楽しみ、苦しむ姿を鑑賞し、「あなたは無力ね」と嘲笑してやった。

 

 ――楽しかった! 気持ち良かった!

 

「他人の不幸は蜜の味とは、まさに真理だと思った……」


 華蝶カディエにとって他人の悲嘆は、自分の苦痛ともどかしさ、辛さを紛らわし、目を逸らさせてくれる麻薬であった。

 他人を傷つけると、自分が楽になった。

 

「わたくしには、力があるの。わたくしは……男児が産めなかった。国母になれなかった。でも、それが何だと言うの。男児も国母も、国さえもなくなれば、そんなのもう気にならなくなるわ」

  

 誰かを陥れるために、自分は生まれたのだ。


 わたくしの人生は、

 悲しむためじゃなかった。

 嘆くためじゃなかった。

 苦しむためじゃなかった。


 誰かを不幸にするために、自分は生きた。

 自分の人生は破壊のためにあった。

 もっと大勢を虐げ、より影響力を行使し、後宮を、国を、世界を、全てをめちゃくちゃにしないと。


 そうしたらきっと、もっと、「生きた」と満足できる。

 そこに、満足がある。

 生きるとは、そういうことなのだ。


 自分の両手両足を振り回し、叫びちらし、周り中をぐちゃぐちゃに破壊して――そうして、生を感じるのだ!

 

「女児なんて」


 自分が産んだ女児なんて、汚点だ。

 気持ちが悪い。

 

 心根も外見も美しいと称えられる妃の胎を裂き、臓物を引き出すと、臭くて汚らしい。そちらの方が安心する。


 皆、中身は似たりよったりだ。肉だ。

 人は皆、つまるところは単なる肉なのだ――その事実が、嬉しい。

 妃の呼吸が止まり、心臓が動かなくなり、死亡を確認すると、いつもすごく嬉しかった。はしゃいでしまった。


 自分の悦楽は、そんな瞬間に生まれる。

 だから、女児を抱いた時に胸に起きるさざなみのような不可解な情は、錯覚だ。

 

 道徳に反した行いをするとき……人として越えてはいけない線のようなものを越えた瞬間が、たまらなく好きなのだ。快楽はそこにある。

 空虚だった心は、それで満たされるのだ。


 小さな娘などで満たされたりは、しない。

 だって、あの娘は失敗の証拠。望まなかった子。

 それを見て満たされるなんて、おかしい。


「子どもなんて、産まなければよかった」


 あの娘も自分のように、「お前は将来、高貴な身分の男との子を産むのだ」と教えられて育つだろう。

 体臭がかぐわしくなる薬を常用し、上質な襦裙を着て、宝石と花に飾られて、男を悦ばせる方法を学ばされ、男に媚びて孕み、産み、死ぬだろう。


 そんな娘のこれからの日々と発育を、母はもう見ることもできないけれど。


「……っふふ」


 方卓つくえの上には、皇帝から届いた笈筺はこがある。


 笈筺はこの中身は、からであった。


 空っぽの笈筺は、むなしさを搔き立てた。


 これだけ好き放題して、こんなに高みに上り詰めて、権力も寵愛も手に入れて――最期に夫がむなしさを贈ってくれた。


「っふふふ。ふふふ……」


 毒を嚥下する耳に、声が聞こえた。


「おかあさま……おかあさまぁ…………っ」


 遠くで娘が泣いている。

 愚かで可愛い、可哀想なわたくしの娘。


 夫は優しい男だったから、きっと大事に育ててもらえるでしょう。


 娘がわたくしを母と呼ぶから、わたくしは最期に自分を「母」という存在だと思ってしまった。


 すると、胸には味わったことのない哀しみが湧いて、後悔のようなものが噴き出てきて――毒とは、こんなものかしら。


 苦しい。


 ああ、わたくしの娘。


 こんな毒塗れの母に産み落とされて、……可哀想な子。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る