15、皇帝はごっくんをした。

 皇帝は仰天した。

 なんと、可愛いおんにゃのこだと思っていた簀巻きの中身がめえめえ羊さんだったのだ!


「めえー、めえー」

「アッ、こら。顔を舐めるな。朕を誰だと心得る!?」

「めえええ」

「こっちの布団も羊か。どうなっているのだ……! 誰か、誰か! 朕が羊に舐められてよだれまみれに……はっ」


 大騒ぎしていると、爽やかさと甘さを感じさせる上品な香りがした。

 はすの香りだ。

 

 これは……この香りは――、


「お呼びですか、主上?」 

「むっ」


 霞幽カユウの声だ。

 感情の乱れを一切感じさせない落ち着き払った声は、不気味だった。

 皇帝は身構えた。

 羊たちも何かを感じ取ったのか、不自然に沈黙する。

 

 しかも、ふっと灯かりが消えて、真っ暗になるではないか。

 

「むむっ……」


 皇帝は唸った。

 

 犯人はわかっている。脅かしているのだ。

 奴め、怖い演出をするではないか。

 

 しかし、皇帝たるもの、恐怖を表には出すまい。

 いかなる時も冷静に、「さすが主上、豪胆!」と言われる態度でなければ。

 

 腹の底にぐっと力を入れ、羊をぎゅっと抱きしめていると、影が室内に滑り込んでくる。

 黒い墨をぬるりと伸ばしたような、不気味な影だ。

 小さく、音もなく蠢くは、猫の姿をしていた。


「か……、か……」

 

 が無音のまま、人型に変わる。

 普通、人間は猫になれない。猫も人間になれない。普通ではない現象だ。

 霞幽がそういった変身の術を使うのは知っているが、見るたびにヒェッとなる。もちろん、表情に出したり情けない悲鳴をあげたりすることはしないが!


「ひぇ」

「声に出ています」


 前々から思っていたが、この人物はきっと人間ではない。

 噂の通り、天仙かあやかしか何かに違いない。うむ、怖い。

 

 美しいかんばせは、整い過ぎているのと感情が抜け落ちているのとで、恐怖を感じさせる。


「か、か、霞幽」


 皇帝の御前だというのに、霞幽は雑草でも見下ろすような瞳をしていた。


 そこには、怒りも、失望も、何もない。

 ただ底知れぬ暗闇だけが広がっている。


 静かだ。

 熱がない。

 星のない夜空に似ている。

 雲もなく、夢も希望もなく、情状酌量も何もない――そんな闇だ。

 見ているだけで、気がどうにかなってしまいそうだ。


「聞いてくれ。違うのだ。朕は……ちょっと揶揄からかってやろうと思っただけなのだ。本当に。真実、嘘いつわりなく……」


 冷静になってみれば、どうして揶揄からかおうと考えたのだろう。

 こやつめ、ははは。可愛いところもあるじゃないか、なんて――思い違いだったのでは?

 こやつに可愛いところなんて、あるか? 

 ないのでは?


 この相手は、怒らせてはいけないのではないか。

 やはり、夜は気がおかしくなっていかん。なんとなーく高揚して、「うへへっ、朕、最強!」な気分になったものだから。

 

「か、か、霞幽。待て、待て。朕の弁明、聞いて。最近、朕はおかしかったのだ。そなたもそれは知っておろう」

 

 夜の間に妙に気が大きくなって、衝動が膨らんで、自分で自分が抑えられなくなって。

 朝には今にも死んでしまいそうなほど精魂尽きていて、しかも記憶が……いや、実はうっすらと記憶はある。

 皇帝たるものがすべきでない破廉恥三昧、獣のごとき猛烈な欲に駆られた振る舞いを、自分で認めたくなかったのだ。だから。

 

「すまなかっ……」 

 

「主上はお疲れでいらっしゃる」


「ひっ!」


 冷たい声で突き放したように言い放ち、霞幽は手を伸ばしてきた。


 そなたは本当に人なのか、と問いたくなるような冷たい右手は、顎をつかむ。

 そして、左手が丸薬をつまんで口元に近付けた。


「主上、ごっくんなさい」

 飲め、という。


 ……なんだ、これは。

 

 毒か? 朕は今日、毒殺されるのか? 

 これはさては、見放されてしまったか。

 

 この皇帝はだめだから殺して、息子を傀儡かいらいにしようとか思われてしまったか!

 やってしまったな、ははは。どうしよう!


「悪かった、朕は謝る。もうしない。すまなかった!」

   

 それにしても、『ごっくんなさい』とはなんだ。

 

 朕は四十二歳だぞ。

 赤ちゃんではないのだ。

 美しい妃との赤ちゃんごっこならまだしも、何が悲しゅうて男に赤ちゃん扱いされねばならぬのか。


 早く飲め、とばかりに唇に丸薬が押し付けられて、皇帝は口を開けた。

 

「朕は今思いついたのだが、もしや霞幽。後宮で悪事を企んでいる妖狐とは、他ならぬそなたではないのか? くっ……殺せ」

「無駄口は結構。はい」


 舌の上に丸薬がのせられる。ぐいぐいと奥に突っ込まれる。

 やめて、乱暴しないで。喉はおえってなるから! 自分で飲むから!


「おえっ、おえっ、ごほっ」

「はい、ごっくん」

 

「ご……ごっくん」

 

 皇帝は、ごっくんをした。


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