第7話

第4章 北の果てに集った人々


   1


 柔道場にはぽつぽつと新入生が見学に来たが、練習の途中で帰る者がほとんどだった。私が初日に感じたように小人数でのそう感ある練習風景にたじろぐようだった。何日か練習に参加した後に、そのハードさに驚いて来なくなった者もたくさんいた。高校での経験者は、北大が寝技中心の柔道をやっているということを知らず、練習を見てあまりの寝技の多さに入部をちゆうちよする者たちもいた。

 新入生が見学していると、必ず和泉さんがらんりを抜けてやって来て見学者をじろじろと見た。そしてタイムキーパーをしている杉田さんに同じことを聞いた。

「彼、新入生かいね?」

 すでに入部している者たちは和泉さんは新入生が入ってくるのがうれしくて見にくるだけだとわかっていたが、見学者はみな、その険しい目つきを怖がっていた。

 ある日、青山学院大にでもいそうなさわやかな長髪の見学者がやってきた。チェックのパンツにブレザーを着て、脇にダッフルコートを抱えていた。肩幅が広いが背も高いので全体にスマートに見えた。

 たつざわひろまさといった。山梨県の駿すんだいこう高校出身だった。

 和泉さんが乱取りを抜けてやってきた。そして竜澤を鋭い眼光でじろじろと見て、杉田さんに聞いた。

「彼、新入生かいね?」

「はい」

 いつものように杉田さんが笑って答えると、和泉さんは安心したように乱取りに戻って行った。

 竜澤がむっとした顔で杉田さんに言った。

「なんで俺がにらまれなきゃいけないんですか」

 見た目とは違い、かなり気が強そうだった。

 竜澤が柔道衣を着て乱取りに入った。たちわざでなかなか飛ばされないので師範席の岩井監督が「ほう」という目で見ていたが、途中で寝技に引き込まれてやはりぼろぼろにやられていた。

 その日の帰りも二年目の先輩たちが喫茶店に連れていってくれた。

 竜澤はその席で、最近入部した一年目のしげやまかずといきなりぶつかった。繁山が何かをちやしたのに怒ったのだ。一年目と二年目みんなでなだめたが、竜澤は怒りが収まらないようだった。


   2


 練習後は毎日、二年目の先輩たちが夕飯をおごってくれた。何を食べたいか一年目に聞いてから店に連れて行ってくれた。

 こんなに優しくされてもいいのだろうかと戸惑ったが、早く一年目同士を仲良くさせて辞めにくくしようという魂胆のようだった。

 一年目はたいてい受験生時代の話で盛り上がった。参考書は何を使ったとか、共通一次のマークシートの埋め方や二次試験の論述の書き方のけつなどをそれぞれれきしあった。二次試験の過去問題集『あかほん』を何年前までさかのぼって解いたかと自慢しあった。『大学への数学』の学力コンテストで三等に入ったことがあることが自慢の者もいれば、駿すんだい予備校の全国模試で化学が全国二位だったと自慢する者もいた。

 予備校に行っていた者は名物講師の自慢をしあっていた。「俺は安田とおるの数学の授業が日本一だと思う」と代ゼミ出身者が言えば「牧野つよしは共通一次の国語の問題当てたからな」と河合塾出身者が胸を張った。英語に関しては駿台の伊藤かずの名著『英文解釈教室』は私も含めほぼ全員が使っていた。

 たいして勉強してない私はなにも誇ることがなかったが、唯一の自慢は高校数学の勉強をいっさいせず中学数学の知識だけで共通一次数学の満点をとるインチキ解答法を何カ月もかけて開発したことだった。三角関数すら知らなくてもあのマークシートはぜんぶ埋めることができるのだ。この秘技を見つけたのは歴代三百万人に近い共通一次受験者のなかで私だけだろう。必要は発明の母だった。それくらい数学が嫌いだった。

「そんな変な解答法考えてる暇があったら普通に勉強したほうが早いだろ」

 みんなが笑った。

 だが私は、一年目同士で盛り上がりながらも、繁山が竜澤に何か言うと竜澤の顔色が変わるので注意していた。北海道一の進学校、札幌南高出身の繁山は体も大きく、人を小馬鹿にしたところがあり、竜澤が怒るのを面白がってわざと刺激するようなことを言った。

 ある日、ついに竜澤がげつこうした。

「この野郎!」

 立ち上がろうとした竜澤を私は必死に抑えた。

 飯を食い終わって先輩たちと別れた後、私は店の裏まで竜澤に腕を引っ張っていかれ、「なんで止めた!」と怒鳴られた。

「あんなことでけんしてもしかたないだろ」

 私が言うと、竜澤は「こんど止めたら増田君も殴る!」と胸ぐらをつかまれた。扱いにくい男だなと思った。


   3


 次の日には、竜澤は今度は四年目の岡田さんとぶつかった。

 練習後、道場の打ち込みフォームチェック用の大鏡の前で、竜澤がドライヤーで髪を乾かしながらヘアブラシで整えていた。

 そこに両肩を揺する独特の歩き方で部室から岡田さんが出てきた。

「おい、おまえ。なにドライヤー使ってんだよ。いよいよ柔道部にも新人類が入部してきたな」

 竜澤が険しい眼で睨みつけた。

「誰が新人類なんですか! 髪乾かしたらいけないんですか!」

 岡田さんはしかし「長くしてるから乾かさなきゃいけねえんだろ。短く切っちまえよ」と冷やかし続けた。竜澤が怒ってドライヤーを畳にたたきつけ、部室に入っていった。そしてかばんを持って出てきて、その鞄にドライヤーを突っ込むや道場から一人で出ていった。

 私は急いで階段を駆け降りていって一階で腕をつかんだ。竜澤はその手を振り払って「ほっといてくれ!」と行ってしまった。

 それ以来、竜澤は岡田さんのことを毛嫌いするようになった。「あの男は〝残酷岡田〟というより〝下品岡田〟なんだよ」

 そう私に話した。


   4


「一年目は七帝までに全部の乱取りに入ればいいからな」

 先輩たちにそう言われていたので、練習で私たちは少しずつ乱取り本数を増やして調整していった。七帝戦は七月の半ばだった。

 私は半分くらいの乱取りに入るようになっていた。

 試合ルールで全力でぶつかりあうこの乱取りという練習をたくさんこなすので、柔道は他のスポーツと比べ疲弊度が著しく高い。北大柔道部はこの乱取りの本数と時間がさらに多かった。しかもきつい寝技ばかりなのだ。私は連日抑え込まれ、絞められ、関節を取られ、疲れ切っていた。七帝戦までは一年目同士の乱取りは手を抜く可能性があるということで禁じられていた。

 まず寝技乱取りを六分×八本と八分×二本やる。

 立った姿勢から寝技へ移る方法は「引き込み」の他にも後方回転しながらのおびがえしや横回転の帯取り返しなどたくさんあったが、やはり引き込みが中心だ。

 普通の柔道と違って七帝柔道では寝技への引き込みが許されているので技術体系が大きく異なった。普通の柔道では投げてからしか寝技の攻防へ移ることが許されていないので、高校時代から柔道をやって普通のルールに慣れた者は、上から攻める寝技しかできなかった。しかし七帝柔道の真骨頂は下からの寝技攻撃にあった。寝技に引き込んで自分から下になり、相手の下から前三角絞めや関節技の腕ひしぎ十字固めを狙ったり、あるいは相手の脇の下をすくったり帯を取ったりして下から相手を引っ繰り返して抑え込んだりする。

 引き込みにも多くの技術があった。

「まず相手の頭を下げさせてから引き込むんだ。相手の体勢を崩してから引き込むんだ」

 先輩たちはよくそう言った。

 一番理想的な引き込みは、相手の襟を持って頭を下げさせ、もう一方の手で相手のそでをつかんだ後、相手が前のめりになるまで前に引いて崩し、相手のふとももの付け根あたりをるようにして間合いをとりながら、自分は斜め後ろにしりもちをつくように寝るのである。こうして相手をしっかり崩さないと、引き込んだ瞬間、相手に上からそつこうという技術で脚を越えられて攻められ、一気に不利な体勢に追い込まれる。

 たいていの先輩は自分から寝技に引き込んだ。だから私たち一年目は先輩たちの上になるのだが、まったく攻めることができなかった。すぐに引っ繰り返されて上下を逆転されるか、あるいは下から関節をとられたり絞められたりした。

 そのたびに「自分の脇をしめろ」「ほら首が甘いぞ」「俺の帯より前に手を出すな」としつこく言われるのだが、頭で覚えても体が動かない。技術にも体力にも差がありすぎた。毎日毎日、寝技でめちゃくちゃにされた。一年目であまり取られないのは沢田征次だけだった。


 寝技乱取りが終わると、自由乱取りが六分×八本くらいある。これは立技をやっても寝技をやっても自由なのだが、多くの先輩たちがすぐに寝技に引き込んでしまうので、実際は寝技乱取りと何も変わらなかった。つまり北大で「乱取り」といえば、それはすべて寝技乱取りのことをさした。

 この自由乱取りの後、寝ている相手の太腿をこちらが上になって片腕ではさんだところから始める「かみつき」という乱取りが五本から十本、片方がカメの体勢から始める「カメ取り」という乱取りが五本から十本、片方が引き込んだ体勢から始める「速攻」という乱取りが五本から十本と続いた。最初から最後まで寝技ばかりだった。そして最後に数百回の腕立て伏せが延々と続く。毎日くたくたになった。

 私のひじは関節技を取られまくってれあがっていた。とくに上田さんには六分間で五回は下から肘をめられた。

 実際のところ、上田さんは部のなかで強い選手ではなく分け役だったが、下からの関節技というのは高校生があまり経験したことのないものなので一年目はみんなやられていた。手脚が長く、そのごつごつと骨っぽい脚が手のようによく動いて下から相手の手や腰の動きを制していく。こういう寝技を高専柔道や七帝柔道では「脚がく」といい、寝技の最も理想とするスタイルだという。相手は上にいながら、逆に下からコントロールされていた。先輩たちは、下になって相手に脚を向けているこの姿勢を「せいたい」と呼んだ。これが七帝柔道の基本の姿勢だった。

 抜き役である四年目の主将金澤さんや副主将の斉藤トラさん、選監の岡田さんらにはもちろん何もさせてもらえなかった。寝技にいったらまったく勝負にならないので、寝技に引き込まれたときに嫌って立とうとすると下から「草刈り」という寝技の大内刈りのような技をかけられて後ろへ倒され、一気に上下を逆転され上から攻められた。

 道場では「参ったなし」が暗黙の了解だったが、はじめのうちは、先輩たちはまだ遠慮して、参ったすれば一年目を離してくれた。

「おまえら、そんな甘いことじゃだめだ。試合本番で対応できないだろ」

 そう他の先輩たちに言って入部初日から絞め落とすのは〝残酷岡田〟こと岡田さんだけだった。見学に来たばかりの新入生が何も知らずに岡田さんに乱取りをお願いしてはウシガエルのような低い悲鳴を上げて絞め落とされていた。

 私が初めて絞め落とされたのも、もちろん岡田さんだった。落ちることがこれほど苦しいとは思わなかった。地獄のような苦しみだった。いや、死んだほうがましだと思った。離してくれないのがわかっていても必死に片手で岡田さんの体を叩き続けて参ったし、口から泡を吹き、よだれをたらしながらもんぜつするうち闇のなかへ吸い込まれて意識を失った。かつを入れられてせいした後は、記憶が吹っ飛んでしばらく自分がどこにいて何をしているのかもわからない状態だった。生まれてからこれまでで最も苦しい体験だった。落とされるたびに夢を見た。たくさんのちようが舞う草原のなかに立っていて、目の前に川がある。

「こっちへ来なさい」

 死んだはずの祖母が川の向こう岸で手招きしている。ああ、これがさんの川なんだなと思いながら渡ろうとすると、活を入れられて現実世界に呼び戻されるのだ。他の人に聞くと、落ちたとき見る夢はみんなそれぞれだったが、この三途の川を見る者が最も多かった。

 岡田さんが得意とする絞め技は、「かんせつめ」という北大予科伝来の下からの技で、絞め技と関節技をミックスさせた独特のものだった。このかたちに入られると逃げようがなかった。

 あまりにも落とされるので、そのうち私は岡田さんとの乱取りでは絞めだけを必死に防ぎ、わざと抑え込まれるようになった。絞め落とされるより抑え込まれるほうがまだ楽だからだ。

 しかし、その魂胆に気づいた岡田さんは、そのうち私を抑え込まないようになった。そして徹底的に絞めを狙ってきた。逃げるうち、私の唇は切れ、鼻血が噴きだした。それでも岡田さんは容赦しない。まぶたも切れ、あごきながら私は必死に逃げ、道場脇のバーベルをつかんだりもした。だが、板の間まで逃げても岡田さんは立たせてくれず、絞めを徹底的に狙ってくる。私は最後は顎にかかった岡田さんの手にみついて「ばかやろう!」と怒鳴られたりした。そしてその後に必ず絞め落とされた。落ち慣れると楽になるというものではなかった。落ちれば落ちるほど苦しみは強くなった。絞めへの恐怖は強くなった。

 延々と続く腕立て伏せは、練習後毎日あった。

 百回×三セットであったり、三百回×一セットであったり、ときにさらに増やされ、いつ終わるとも知れず延々と続けられた。その日の残りの練習時間や部員の疲労具合を見て幹部の指示で適宜回数を変えるようだった。私たち一年目はとてもついていけないので、百回を過ぎたくらいから腕立ての姿勢のまま先輩たちがすべてを終えるのを待った。しかし寝技乱取りだけですでにスタミナは切れている。その姿勢でいるだけで、がくがくと腕の筋肉が震え、体中の筋肉が震え、汗が滴った。すでに脱水状態になっている体でこんなに腕立て伏せをやっても意味がないのではないか。筋肉の発達には一日おきないし二日おきで重いウェイトで十回×三セットくらいの低回数やり、さらに休養をたっぷり取るのが効率的で科学的なのだ。なぜこんな非科学的な腕立て伏せを毎日何百回もやらなきゃいけないんだ。オーバーワークになるだけだと毎回思った。

 腕立てが終わると、ロープ昇りを何本も繰り返してやっと練習を終えた。

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