4)水曜日には雨が降る〈1〉

 翌日の水曜日は、見事に晴れていた。

 朝はグッと冷え込んで、吐く息がより白く煙る。

 昨日のことが気になり、和都が少し早めに登校すると、春日も同じことを考えていたようで、ほぼ無人の昇降口でばったり出会した。

「……あれ、早いじゃん」

「そっちこそ」

「やっぱり気になるよね、昨日の」

「まぁな」

 どこか楽しそうに、イタズラを仕掛けた時のように、春日が笑うのを見て、和都も口角を上げる。

 こういう実験や、気になることがある時は、連絡しなくても同じことをしていた。そこだけは妙に気が合って、中学の時から変わらない。

 二人して上履きに履き替えていると、二年六組の下駄箱の方から真っ黒いコートに身を包んだ御幸が顔を出した。

「ようよう早いね、お二人さん」

「あ、御幸もおはよ。やっぱり気になった?」

「そりゃあねー」

 歯を見せて笑う御幸に、和都もニヤリと笑って見せ、三人は本校舎の階段ではなく、西側通用口を出て西棟へと向かう。

 すでに開錠されている西棟の、一つだけの階段を上がって教材室のドアを開けた。

 室内は昨日の放課後に見た時と、大きく変わったところはない。

 教材室の奥、クリーム色のロッカーの前に三人で並んで立つと、御幸が深呼吸してドアの取手に手をかけた。キィ、と軽い音を立てて開くと、その薄暗いグレーに染まった箱の内側を覗き込む。

 膝より高い位置にある天板に並べられた、『明日の天気は?』と書かれた白い三つの紙片とサインペン。

 そのうち真ん中の紙にだけ、昨日書いたものとは違う文字が添えられていた。

「『雨に注意』?」

 御幸の書いた『明日の天気は?』の文字の横に、見たことのない綺麗な筆跡でそう書かれている。

 思わず教材室の奥の窓から外を見た。ちょうど裏門が見えるその先は、冷たく澄んだ冬の青空が広がっていて、雨を呼ぶ雲の気配すらない。

「午後から雨が降る、とか?」

「天気予報じゃ一日中晴れだったけど」

 ロッカーの天板の上に残された、他の二つの紙片とペンを見つめる。和都と春日が使った紙とペンに変化はない。

 しかし、御幸の使ったペンだけは、昨日よりまとわりつくモヤの赤が、どこか濃くなっているような気がした。

「どうした?」

「うん、なんか変な感じがして……」

「そうか」

 そういう春日がすっと御幸の使ったペンを指差して言う。

「人かお化けかは分からんが、誰かがペンを使ったのは、間違いなさそうだな」

「やっぱ、置いといたペンを使って書いてるってこと?」

「ああ。昨日御幸が置いた時と、ペンの向きが変わっている。俺たちが教材室を出た後、誰かがそのペンを使ったのは間違いないようだ」

 春日の言葉に、御幸が呆れたような声をあげた。

「マジかよ。置いたペンの向きとか覚えてねーぞ……」

「俺は一度覚えると、忘れないほうなんでな」

「かぁーうらやま! え、お前が学年一位の理由ってそれぇ?!」

 御幸が驚きの声を上げているのを横目に、和都がスマホで時間を確認すると、朝のホームルームが始まる時間が近づいている。

「あ、そろそろ教室行かないと」

「とりあえず、昼休みに保健室で相談しようぜ!」

「そうだな、先生の意見も聞きたいし」

「じゃあ観察簿持ってく時に伝えておくね」

 ひとまず特に変化のなかった紙片はそのままにしておき、三人は教材室を後にした。





 今日の昼休みも、じゃんけんなしのまま和都と小坂は買い出しに向かった。

「まーだ喧嘩中なのかぁ?」

「……喧嘩じゃないってば」

 二人分のパンやおにぎりをそれぞれ抱え、購買から演習室に向かう道中、昨日と同じようなやりとりをする。

「今朝もなんだ、その『エンジェル様』とかの調査、二人でしてたんだろ?」

「新聞委員長の御幸も一緒だから二人じゃないもん」

「ああ、そうかい」

 小坂がどこか面倒くさそうに言った。

 エンジェル様の調査や授業中は、今まで通りに普通に話ができるのだが、そうではない時間、ふとしたタイミングで、保留にしてしまった問題がひょっこりと顔を出す。

 しかしこのままズルズル長引けは、同じ班で行動する小坂たちに迷惑をかけながらの修学旅行だ。それだけは避けたい。

 和都は小さく息をつくと、思い切って聞いてみた。

「……小坂は、友達だと思ってた人に好きって言われたら、どうする?」

 しばらくの沈黙の後。

「なんだ、春日にコクられでもしたのか」

「う゛っ。うん、まぁ、はい……」

 横目でジロリとこちらを見たままの小坂に言われ、だんだんと声を小さくしながら和都は頷く。

 すると小坂は心底呆れたように、やっぱりか、という顔をした。

「なーんだ、ようやくかよ」

「えっ?!」

「いやぁ、アイツ普通にお前のこと好きだろ」

「おれだけ気付いてなかったの?!」

「……ある意味すげーな、お前」

 和都が本気で言っていると分かったのか、小坂も呆れを通り越して感心する。

「ただの『味方』だって思ってたし……」

「おれからすりゃ、どっちかっつーと『保護者』だったけどな」

 小坂がどこか楽しげにケタケタ笑った。

 春日の行動は、友達だから、という動機だけではもう説明がつかない。そこを超えた、並大抵ではない執着とも言えるものだ。

 もちろん和都だって、春日が自分を普通の友達以上に気に掛けているのは分かっている。

 けれど、これまで下心らしいものを向けられたことはなかったし、何より春日には一度『自分を好きかどうか』を聞いたことがあったのだ。

 ──あいつ、思いっきり『嫌い』って言ってたじゃん!

 だからこそ安心して、気を許していた部分もある。それを覆されるなんて、思ってもみなかった。

「まぁ別に、思ったとおりに答えてやれば?」

 小坂は普段通りの顔で言う。

「思ったとおりって?」

「アイツが好きなら付き合えばいいし、先生が好きなら断ればいいじゃん。単純な話だろ」

「そう、だけど……」

 どうやら小坂には、仁科が好きなこともバレているらしい。しかしそれを冷やかすことなく話してくれるのは、ありがたい話だ。

 しかしこの分だと、菅原にもちゃんとバレているんだろうなぁと和都はぼんやりと考える。

「ま、さっさと解決しろよ。修学旅行でお前らのギクシャクに付き合ってらんねーぞ」

「はぁい……」

 和都は力無く返事をしながら、小坂の後に続いて階段を上がった。



 春日と菅原は三階の演習室にある、窓に近い席を四人分確保していた。

 狛犬騒動で屋上が立ち入り禁止になって以降、寒くなってきたのもあって、昼食はもっぱら演習室の窓に近いこの席を陣取るようにしている。窓からは特別教科棟の南棟と、グラウンドの端に立ち並ぶ、葉のない枝を寒そうに広げた桜の木が見えた。

「春日ぁ、まーだ相模と仲直りしてないのかよぉ」

 確保した机に頭を乗せ、窓の外に寒々しく広がる青空を眺めながら、菅原が不貞腐れた声をあげる。

「別に、喧嘩したわけじゃないぞ」

 春日は持ち込んだ文庫本に視線を落としたまま、いつもの調子でそう返した。

「じゃあなんだよアレェ。明らかにお前と二人きりになんの避けてんじゃん」

 月曜から連続で、昼休みになると小坂を連れて買い出しに走る和都の目的は、単純明快にして明らかである。菅原としては、春日と二人きりになりたくないなら自分と買い出しに行ってもいいのに、何故か毎回小坂を連れて行くので、そこが少々不満でもあった。

 口を尖らせたまま、窓の外を見つめる菅原の姿を一瞥し、春日は本に視線を落としたまま言う。

「……まぁ、簡単にいえば、告白しただけだ」

「へっ?!」

 予想外の言葉に、菅原の上半身が跳ね起きた。

 しかし、春日は普段通りに本を見つめているので、聞き間違いではないだろうか。

「え、マジで、言ってる……?」

「ああ」

 視線だけをこちらに向けた春日に肯定され、菅原はあんぐりと口を開ける。

「いや、いや、お前……えぇー?」

 春日が和都を好きなんだろうなというのは、一年の時から気付いてはいた。

 距離感も妙に近く、異常なまでの過保護っぷりを見せるわりに、甘酸っぱい恋愛関係に発展するような雰囲気が欠片もない。けれど、この二人はずっとこの関係のまま、二人でワンセットのように一緒にいるんだと思っていた。

 それが、二年の夏くらいからガラリと変わる。

 和都が仁科との距離を急速に縮めたからだ。今では和都と仁科が二人でいる姿を見るほうが、なんだか当たり前のようになっている。

 その、和都の気持ちがゆらゆらと、静かに移り変わる様をすぐ近くでまざまざと見ていたのは、自分よりも春日のほうだ。それなのに。

「……相模が先生を好きなのはダダ漏れじゃん。なんで、今更」

 困惑しながら言う菅原に、春日は開いていた本を閉じ、少し考えた顔をする。それから何か思いついたような顔をした。

「色々あって、ムカついたから……だな」

「ムカついたから告白って。……意味わかんないんですけど」

「まったくだな」

 菅原が呆れ果てて再び机に突っ伏すと、春日はどこか楽しそうに笑って返す。

 明らかに勝敗の見えている、負け戦。

 ずっときっと、自分が思っているよりも深く長く、春日は和都を想っていたはずだ。そうでなければ、彼は今この学校に通ってはいない。

 どうしてそんなふうに、笑っていられるのだろう。

「……なんで楽しそうなんだよ」

「そういうことで悩めるようになったんだなぁ、と思ってな」

 春日が窓の外を、遠く見つめながら言った。

 和都の中から死んでしまいたいと願ったり、むやみに惹き寄せてしまうことで起きるあれこれで悩むことがなくなったのは、つい最近の話。

 大変だった数ヶ月があっという間に昔になって、それらとはほど遠い普通のこと、好きな人のことで思い悩めるようになったのだ。

 机に頬を押し付けたまま、菅原は春日を見上げる。

 きっと彼らには、自分にも計り知れない、二人にしか分からない苦労もあったはず。

 それを思えば確かに、なんて贅沢で、幸せな悩みだろう。

「……お前は思考が『保護者』なんだよなぁ」

「そうかもな」

 菅原の感想に春日が喉で笑っていると、演習室のドアが開き「買ってきたぞー」と、小坂の声がこちらに向かって近づいてきた。

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