相模和都のカイキなる日々〜天使の囀りに寒雷は鳴る
黑野羊
1)寒雷の鳴る日曜日 *
「そういえばお前、結局先生とどうなったんだ?」
春日にそう聞かれたのは、和都の家で期末テストの復習ついでに、分からない部分を教えてもらっている時だった。
二学期の期末テストも終わり、残る行事は修学旅行のみとなった、十二月上旬の日曜日。
休憩と称してベッド上に寝転がった和都は、春日の問いかけに大きな目を二度ほど瞬きした。
「どう、って?」
「付き合うことにしたのかどうか、だ」
「ええと……」
呆れたように息をつく春日に言われ、和都はもう一度だけ瞬きする。
高校二年になった新学期初日、
その過程で、和都は仁科にだんだんと惹かれていった。
今では普通に、いやでも自覚するほどに、お互いに好きなんだろうな、という確信はある。
だが、彼とそんな話をした記憶は、ない。
「──……ん? あれ?」
「あ゛?」
春日が分かりやすくムカついた顔をした。
「いや、うん……。そういう話はしてない、かも?」
「なんで?」
「なんでって……」
四月からこっち、自分の命を狙う鬼をなんとかするための解決策を探すことが最優先であったし、狛犬のハクとバクの件が解決して以降、仁科は『後始末が色々あるから』と忙しく動き回っているようで、二人きりでゆっくり話をする機会がない。
ここ最近にいたっては修学旅行に向けた準備もあり、学校では普通にただの、先生と生徒としての会話だけだ。
そして、そもそもの話。
「普通に考えて、先生と生徒で付き合うのは、ダメだろ……」
「まぁ、それはそうだが」
今の和都は霊力が弱くなった状態というのもあり、霊力の強い仁科から分けてもらうという目的で、学校でひっそりとキスを──といっても、おでこに軽く唇が触れる程度だが、してもらっている。だが、それも霊力が弱いと倒れてしまうからという明確な理由があり、治療に近い行為だ。だからそれ以上のことは、何もしていない。
──しそうになったことは、あるけど。
解決策を探す途中、一線を踏み越えそうにはなったことはある。けれどそれも、ただ一回きりの話。その後はそういう事態になっていない。
そしてもう一つ、付き合う付き合わない以前に、大きな問題がある。
「……それに、先生には婚約者の人、いるしさ」
「は?」
和都の言葉に、春日が初耳だ、と言わんばかりに眉を
「あれ、言ってなかったっけ? 前、神社跡地のお清めに来てくれた、女の人いたでしょ」
「安曇神社の?」
「そう、凛子さん。あの人、先生の婚約者……なんだよね」
両家の親同士が決めた、両家のためだけの婚約。
なのでお互いに結婚する気はないのだと聞いてはいるが、事実として、仁科には正式に婚約した相手がいる。そこを無視して恋人関係になるというのは難しい。
「……だから付き合う気はないって?」
「そこは……おれが頑張ったところで、どうにか出来ることじゃないじゃん」
大人たちの決めたことが、子どもの我儘で覆ることはない。
そもそも、仁科から明確に自分をどう思っているのか、きちんと言葉にして伝えられてはいないのだ。
「あっちこっちにキスマークつけられるようなことしといてか?」
「あれは! ……先生が酔ってやっただけだし」
これは半分が本当で、半分は嘘の話。
夏に二人きりで出掛けて以降、お互いに好きなのだと自覚してから、まるで自分の所有物だと言わんばかりに、キスの痕をつけられることはあった。
誰にも渡したくない、とは言われたけれど、ハクやバクから自分を守るために言った言葉だという可能性だってある。
──そういえば、消えちゃったな。
和都はそっとシャツの胸元を握った。
消えたら教えて、と言われた口付けの痕も、少し前に消えてしまってそのまま。仁科が忙しそうなので伝えられなくて、だんだん言ってもいいことなのか、分からなくなってしまった。
すぐに自分なんかでいいのかと、後ろ向きの考えが顔を出す。明確なことは一つだけ。
「……おれは、先生に助けてもらっただけだから」
ベッドに仰向けのまま、和都は狭い天井を見上げてポツリと言う。
自分に掛けられた、命を脅かす祟りから解放してくれた。
全てが終わった後に、ずっと一緒にいるから、と言ってはくれたけど、その『ずっと』がいつまでなのかは知らない。
卒業して、会わなくなってしまったら、手のかかる教え子がいた、くらいの存在になって終わる可能性だってあるのだ。
──やば、泣きそう。
考えれば考えるほど、暗い方に進んでしまって、鼻の奥がツンとする。堪えるように和都は目を閉じた。
さっさと聞けば済んでしまう話なのに、いつまで経ってもぐずぐずと。
「じゃあお前、先生と付き合う気はもうないのか?」
「え?」
目を開けると、いつの間にかベッド脇まで寄ってきた春日の顔が、視界の天井を隠すように近づいていて、じぃっとこちらを見下ろしていた。
普段と変わらない、いつもと同じ顔のまま、口を開く。
「それなら、俺と付き合えよ」
目と鼻の先にある顔に、真っ直ぐな言葉を落とされた。
「……は?」
見開いた目を一度閉じて、もう一度開く。目の前の顔は変わらない。
「誰と、誰、が……?」
聞き間違いかと思って、確認のために改めて聞き返した。
「俺と、お前が」
「……付き合う?」
「そう」
「……それは、恋人として?」
「ああ」
表情の変わらない春日と自分を、それぞれ指で差して確認するように言われて、和都はようやく意味を飲み下す。が、すぐに頭を振った。
「いや、いや! 変な冗談やめろよ。……なんでお前がおれなんかと!」
「俺が冗談を言ったこと、あったか?」
言われて和都はぐっと言葉を飲む。
どこまでも真面目で、嘘みたいなことも冗談みたいなことも、春日は本当に実行してきた人間だ。冗談を言うタイプじゃないことは、自分がよく知っている。
「ない、けど……。おれ、男だぞ? 分かってんの?」
「だからなんだ?」
「おれが可哀想とか、そういう同情なら、要らないから」
視線を逸らしてそう言った。
好きになった人に、覆せない婚約者がいる。
同情されたって仕方がない状況ではあるが、それを理由に、学年主席の将来を期待される人間の道を、踏み外させるわけにはいかない。
「本気で言ってる」
「もー、バカなこと言って──」
なおも食い下がる春日を嗜めようと、顔をそちらに向けた次の瞬間、唇に柔らかいものが触れていることに気付いた。
眼前は春日の閉じられた瞼。
呆けて小さく開いていた唇の隙間に、湿度の高いなにかがジワリと押し入ってくる。
春日の舌だ、と気付いて突き飛ばそうと手を上げるも、両腕はすぐにベッドに押し付けるように掴まれてしまった。
「……んっ!」
大きな舌が口の中で自分の舌を追いかけるようにして絡みついてくる。
息が苦しい。
何とか無理やり顔を反け、食らいついてきた唇から逃げた。
「なにしてっ……?!」
息を吸いながら文句を言うも、言葉が続かない。
「本気だって、言ってんだろ」
目の前にある春日の顔は、少し怒っているようだったが、いつもと変わらなかった。
嘘のない、本気の目。
本当の、現実なのだ。
しばらくこちらを見下ろしたまま。和都が何も返せないでいると、春日の顔がもう一度ゆっくりと近づいてくる。
和都は慌てて顔だけを横に向け、精一杯に逃げたのだが、向こうはさして困るふうでもなく。じっとりと濡れた舌先が、自分の細い首筋を下から上になぞり始めた。
「……ん、やだ、ユースケ!」
背中をぞくりと、粟立つような痺れがかけていく。
掴まれた腕を振り払おうともがいてみたが、力で敵うはずがない。
じわりじわりと首筋をなぞる舌は、ついに耳元まで辿り着くと、はぁ、と小さく息を吐いた。
そして次の瞬間、
「いった……!」
耳の側面にビリビリとした衝撃。どうやら思い切り、噛まれたらしい。
あまりの痛さとパニックで、目の端からじわりと涙が込み上げてくる。涙目のまま視線を春日へ向けると、こちらを見つめる目は変わらない。
確かに、仁科に指摘されるくらい、距離の近い相手ではあった。ただそれも、春日が自分に対して下心らしいことを一切見せなかったからだ。四年以上、五年近く経ってこんなことをされるなんて、思ってもいなかった。
「……なんで?」
もうそれしか言葉が出ない。
ひたすらに迷惑をかけ続けてきた。心配をかけるあまり、本来の予定を変えてまで同じ高校にきてくれた、親友だと思っていた。
それなのに。
「ずっと好きだったよ。中学の時から、ずっと」
「はぁ?」
もう思考が追いつかない。
パニックだった頭の中で、色んなことが一気に渦を巻く。
「え、だって、お前……」
言いたいことがありすぎて、うまく言葉が出てこない。
「……今日は、もう帰る」
春日はそう言うと、ふっと身体を起こしてベッドから離れた。
ようやく解放された両手首には、大きな手形が残っていて、よほど思い切り掴まれていたと見える。
「ユースケ、お前!」
和都が慌てて身体を起こすと、春日はすでに帰り支度を殆ど終えていて、着てきたアウターに袖を通すところだった。
「返事はいつでもいいけど、なるべく早めにケリつけといたほうが楽だと思うぞ」
「……へ?」
「もうすぐ修学旅行だし、ギクシャクしたまま一緒に周りたくないだろ」
修学旅行中は班単位で行動する決まりである。和都と春日は同じクラスの同じ班なので、修学旅行中の移動はおろか、寝泊まりなどの時もずっと一緒だ。
和都がそのことに気付いて、驚愕の表情を浮かべるも、春日はどこか楽しそうに口角をあげただけだった。
「じゃあな。戸締り、ちゃんとしろよ」
そう言うと、春日はそのまま、涼しい顔で部屋を出ていく。
「……ユースケの、バカヤロォオオ!」
和都はそう叫びながら春日に向かって枕を投げつけたのだが、部屋の扉が閉まった後だったので、壁にぶつかる小さな音を上げただけで、虚しく床に落ちていった。
それは曇天を切り裂き、突然に落ちてきた、寒雷。
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