先輩
ぱんじゃん
1.一目惚れ
形式通りの祝辞を聞きながら、開いた鉄扉から見える、薄い鼠色の雲に覆われた空とグラウンドに目を向ける。満開の桜の花と桜吹雪の下で行われる卒業式というのは創作物の中だけの話で、等間隔に植えられた桜はまだ小さく固い蕾を付けている。演台の向こうで髪を黒々と染めた校長が頭を上げると、体育館に集まった生徒たちからは形だけの拍手が送られた。私も少し冷えた手を数回叩き、視線を外に戻す。ステージ脇の階段を校長が降り切ると、今度は生徒会長が演題に向かって歩き出した。
教室に戻り短いホームルームを終えた私は、胸元に造花の飾りを付けた卒業生たちがたむろしている校門を通り抜けて、タイルがところどころ剥がれかけている歩道に躍り出る。ワッペンで彩られた鞄を背負った彼女を見つけた私は、緊張で強張る足を動かして走り寄った。
「先輩、卒業おめでとうございます。」
今の私にはその一言を絞り出すのが精一杯だった。
私が彼女に一目惚れしたのは、部活の新人戦と初めての定期テストが終わり、慌しかった毎日が少し落ち着き始めた頃だった。心地よい風が吹く土曜日の昼下がり。グラウンドでキャッチボールをしていた私は、友人が明後日の方向に投げた硬球を拾いに走っていた。足下に転がって来た縫い目のほつれた硬球を、えんじ色の体操服と真っ白なTシャツに身を包んだ彼女が拾い上げる。少し日に焼けた、薄い小麦色の肢体に私が見惚れていると、彼女は私に硬球を投げ返して来た。不恰好なフォームから放たれた硬球は、山なりの軌道を描いて私の左手のグローブに収まる。乾いた音が鳴り、彼女が無邪気な笑顔を私に向けて来る。その瞬間、私は恋に落ちたのだった。
梅雨に入ってしばらくしたある日、雨に濡れないようにホームの屋根のある場所で帰りの電車を待っていた私は、品揃えの微妙な自動販売機の近くで英単語帳に目を通していた。指先でページをめくろうとすると、跨線橋の階段から降りて来た彼女が声をかけてくる。
「この前の野球部の人だよね?」
慌てて手元の英単語から目を離し、横から私を見上げてくる彼女の方を向く。長袖の上着と体操服を着た彼女は、大きな目を私の目線に合わせてきた。心臓が跳ね上がり、慌てて目を逸らそうとした私の動きを遮るように彼女は続けた。
「同じ方向だったんだ。何年生?」
「1年生です。」
上擦った声でそう答える。私が次の言葉を探していると、聞き慣れたメロディーと共に電車が近付く音が駅の構内に響き始めた。
「ウチはこれ乗るけどどうする?」
彼女は首を傾げながら言った。
「あ、えっと、はい。」
私は目線を泳がせながら質問と全く噛み合っていない返事を返した。それを聞いた彼女は笑いながら開いたドアに歩き出した。私も少し遅れて閉まりかけたドアへ走り出す。鞄が閉まるドアに挟まりかけながらもどうにか車内に入った私は、手招きしている彼女の向かいの席に座り、背筋を伸ばした。
鉄の擦れる音や電車が揺れる音が響く車内で、私と彼女は話し出す。彼女の質問に固まり切った私が頓珍漢な答えを返すという、会話とは呼べないようなやり取りだったが、彼女は楽しそうだった。質問が一通り終わると彼女は自分のことを話し出した。私より1つ年上の2年生であること、陸上部に入っていること、邦ロックが好きなこと、付き合っていた彼氏と最近別れたこと。私は緊張で頭が真っ白になりかけながらも、どうにか相槌を打ち続けた。
「じゃあウチはここで降りるから。」
何回か停車と発車を繰り返し、自動放送が次に止まる駅の名前を告げると、膝に置いていた鞄を肩にかけ、立ち上がりながら彼女はそう言った。電車が音を立てて止まり、ドアが開く。
「あ、あの、さようなら。」
何度か舌を噛みながら、周囲の視線を集めるくらいの大きな声で私はそう言った。開いたドアからホームに片足をつけた彼女は、少し驚きながら振り返ると、グラウンドで見せたあの無邪気な笑顔を私に向けながら手を振った。
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