プルーストの幻 ~Fairies 短編~

西澤杏奈

第1話 彷徨う、ふたりっきりで

 ごく平凡なイギリス人老婦人、ヘレン・ウィルソンはその日、もう何回目かもわからないため息をついた。気を紛らわすように外へ散歩するも、ロンドンのいつもの曇り空は気分を上げるどころか陰湿にしてくる。

 ゆっくり押していたベビーカーの中では、黒茶色の髪に、大きな丸い空色の目をしたかわいらしい幼児が、ベビーカーについていた音の鳴る鳥のおもちゃを鳴らしていた。


 先ほどはごく平凡な、と紹介したが、他人から見ればヘレン・ウィルソンの人生は全く普通ではない。彼女が二歳児の孫娘、キャサリンの世話をしなければならない時点で、人々は彼女の異質さを感じるのだ。

 キャサリンの父母はどこなのか。ヘレンにそれを尋ねても彼女は悲しそうに首を振るだけだろう。


 そう、キャサリンの両親はもうこの世にいない。彼女の六歳上の兄だって同じだ。彼らは先日起こった、パリ・マドリード間急行列車事故で亡くなってしまった。

 ヘレンの夫も一年ちょっと前に息を引き取ったので、キャサリンはヘレンの唯一の肉親となる。娘が残したたった一人の孫……。


 老婆が一人で子供を育てるのはとても難しい。ヘレンはなんとか仕事を見つけたが、老人に支払われる給料はもちろんそこまで高くない。質素な生活は当分続くだろう。保険用の金があるとはいえ、いつなくなるかわからない。今住んでいる家は売るのが賢明だろう。だから少し前から、彼女は新しい住む部屋を探しているのだ。


 今日も家の内見へ行った。その家は交通アクセスが良いところだったが、そこの大家がヘレンの髪色を見るなり「難民は受けつけない」とかよくわからないことをほざいたので、気を悪くした老婦人はさっさと出ていってしまった。

 だいぶグローバルな世界になってきたのに、まだ差別をしてくるやつがいるのかと思わずまた重い息を吐いてしまう。

 ヘレンの人と違うところは、その容貌でもある。


 イギリスの人口の八割弱は白人だが、ヘレンは純粋な白人ではない。その証拠に彼女の髪の毛と目は黒に近い色となっている。顔もどこか西アジア風な感じがする。だが、実際どんな血筋が入っているのか、彼女にはわからない。なぜならヘレンは捨て子であり、幼少期を孤児院で過ごしたからだ。


「あと……もう一つ行かなければならないわね……」


 老女は疲労に満ちた声で呟いた。内見はあと一つ残っている。なんで今日、こんなにたくさん予定を詰め込んだのか。先週の自分を呪いたくなる。

 祖母の苦労も知らず、キャサリンは木から落ちてくる葉っぱが面白かったのか、鈴のような笑い声を立てた。


 最後の家は、ロンドン郊外に位置していた。どれくらい古いのかもわからない石造りの家々が静かに建っているわきを、ヘレンはベビーカーを押して進んでいった。

 ついた少し古いアパートの大家は、さっきの人物とは違い、祖母とその孫を温かく迎えてくれた。


「こちらが、部屋になります」


 彼女が案内したのは、あまり大きくはないけれど綺麗な部屋。窓からは光が差し込んでいる。全体としてはいい感じだ。将来キャサリンの部屋となるだろう場所も見つけた。


 続いて窓を開けて、あたりを見回すとほのかになにかが香ってくる。その甘いけれども上品な匂いは……


「ラベンダー……?」


「ええ、そうなんですよ。私が個人的にラベンダーが好きで、だからこのアパートの周りにラベンダーが植えてあるんです」


「そうなのね……」


 すーっとその香りを思わず吸い込む。

 ラベンダーは、ヘレンにとって特別な花だった。それだからか、しばらく悲しみと疲労で忘れていた記憶が彼女の頭によみがえった。




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