幻想綺譚
ねむはなだ.exe
第1話──1日目──
ずしり、と感覚が戻ってきた気がして、目を開ける。なんだか、俺、悪い夢を見ていたような……。でも、その夢が何だったのかは全く記憶に残っていない。ただ心底に、どろりとした後味の悪さが残っているだけだった。
視界の端で、何かが動いた。見ると、ベッドサイドに置かれた椅子に、誰かが座っていた。動いたのはどうやらその人の手で、その人は本を読んでいるからおそらくページを捲ったのだろう。俺が、ぼーっと、ブックカバーの刺繍模様を眺めていると、その人は俺が目を覚ましたのに気が付いたらしく、本を閉じた。
「よかった、目を覚ましたのね。」
目が合って、俺は驚いた。俺の視線の先にあるのは目ではなく厚く巻かれた包帯だった。しかし、不思議と不気味さは感じなかった。俺が驚いている間に、その人はかすかに笑った。
「目を覚ましてよかったわ、悠祐くん。」
俺はますます驚いた。何故、この人は俺の名前を知っているのだろう。しかも、下の名前だ。名札にも書いていないのに。
俺の表情を見てか、その人は微笑みながら口を開く。
「何故私が悠祐くんの名前を知っているかというと……まあ、ここが幻想世界だから、かな。」
答えになっていないような答えが返ってきた。そもそも、幻想世界……って、何だ?深まる疑念に、相手は気が付いたようだった。
「申し遅れました、私は千堂浅葱と申します。この家の家主をしているわ。」
名乗られて、千堂さんをまじまじと見つめる。年は同じくらいに見えるけれど、よく見れば椅子が高いだけで背はかなり低い。真っ黒な髪を肩上で切り揃えていて、着ているのはかの有名な私立の学校『葉桜学園』の中学校の制服だった。
(待ってくれ、俺が、何故葉桜の生徒と……)
葉桜学園といえば、いい家の子が行くとして有名な学校じゃないか。俺の家とは到底縁がないような学校。それなのに、目の前にいるのはそんな葉桜学園の女子生徒。
(何が起きてこんなことに……。俺なんかが、関わっていいんだろうか。)
俺が混乱していると、千堂さんは心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「悠祐くん、大丈夫?まだ混乱しているわよね……」
「あ、いえ、えっと、大丈夫です……」
よく分からないが、もう、流れに沿って行動するしかなさそうだ。とりあえず、千堂さんは優しい人かもしれない。
「悠祐くん、起き上がれるかしら?森の中に倒れていたから心配なの。病院の先生は大丈夫だと仰っていたけれど……」
「森の中?」
何故そんなところに……。俺は、確か、部活の練習試合で、……
「うっ。」
「大丈夫?!」
「……だ、大丈夫。頭が少し痛くなっただけです。」
全く何も思い出せない。部活は、ロボコンをやっている。確か、練習試合に出ていたはずだ。でも、肝心のその内容は、思い出そうとすると頭が痛くなるばかりだった。
「きっと、幻想世界に来たときの衝撃か何かで記憶まで混乱してしまっているのね。今すぐ思い出そうとしなくても大丈夫よ。」
千堂さんが温かい笑みを浮かべる。つくづく、不思議に思う。目は包帯で覆われているのに、視線はちゃんと分かるのだ。
(まあ、その、幻想世界だから、ってやつかもしれないな……)
よく分かっていないが、ここがパラレルワールドみたいなものだとして、それだったら不思議なことも納得できるような気がしたのだ。
俺は、試しに起き上がってみた。体はすんなり動く。夢の世界とは違うようだ。俺が起き上がって伸びをしたのを見た千堂さんは、ほっと胸を撫で下ろした。
「よかった……」
そして、千堂さんは俺に立てるかと問うと、加えて微笑みながら言う。
「悠祐くんは、今週の末に来る、現世との連絡船に乗ってもらわないといけないわ。それまでの間はここで過ごしてもらうことになるの。」
え、待って、現世……?
「お、俺は、し、死んだのか?!」
「ううん、そうじゃないから安心して。ここは、どこの世界にも属さない世界だから。だから、まだ死んではいない。でもね。」
千堂さんの表情が打って変わって、怖いものになった。
「次に来る連絡船に乗れなかったら……どうなるかは分からないわ。」
「わ、分かった……」
まだ死んではいないけれど、どうなるかは分からない。なんとも宙ぶらりんな存在なのだろうか。
(でも、その連絡船ってやつに乗れば、大丈夫なんだよな……?)
俺が疑問を投げかける暇もなく、千堂さんが俺の手を引く。
「さぁ、行きましょう。階下で同居人たちが待っているわ。」
「同居人?ご両親とか?」
同居人という言い方に引っ掛かったため、年のために聞いてみることにした。
「両親は現世にいるわ。同居人は、私がここに来るきっかけになった、悪魔猫の姉弟なの。2人ともいい子たちだから、仲良くしてね。」
「悪魔猫?」
「この幻想世界にいる悪魔の種類の一つでね、猫の姿と悪魔の姿を併せ持った種族なの。悪魔は、この世界で生きる人々にとって重要な存在なのよ。」
「へぇ……悪魔とか、いるんだ……」
まるでファンタジーの世界だな、と思ったが、すぐに、幻想世界という名前自体がファンタジーであることに気が付いた。
俺は、千堂さんに手を引かれるまま、ついていく。
「ここが、食堂よ。」
千堂さんが立ち止まったのは、大きな観音開きの扉がある部屋の前だった。
「食事はみんなでここで集まって摂るの。朝食が六時半、昼食が十二時半、夕食は七時よ。」
中に入ると、2人の人影が立ち上がった。
「やっと目を覚ましたのね。」
「遅いぞ、かなり待ったんだからな。」
赤茶色の髪に、猫耳。なるほど、悪魔猫って、こういう姿なのか……と俺が思っていると、女性の方が訝しげな顔をした。
「何かしら。私の顔に何かついている?」
「あ、い、いえ、悪魔猫という種族を初めて見たので……すみません……」
「そう。」
ツンとした態度の女性は、長い髪を揺らしながら千堂さんに近付く。
「浅葱、頼まれた買い物はしてきたわ。服以外は厨房に置いてあるわよ。」
「ありがとう、ルリ。」
ルリと呼ばれたその女性は千堂さんに微笑みで返事をすると、自分の席に戻った。
「悠祐くんも席に着いて待ってて頂戴。私は夕飯を持ってくるから。」
「い、いえ、手伝います。」
「いいのよ。客人に仕事はさせられないわ。」
お言葉に甘えて、席に着くことにした。
「そっちは浅葱の席よ。」
ルリさんに言われて、反対側に座る。
「えっと……初めまして……」
「山野悠祐、でしょう?浅葱から話は聞いているわ。」
「そもそも、倒れてるあんたを運んだのは俺だからな。」
赤い目の男性の悪魔猫に言われて、俺は頭を下げる。
「ありがとうございます。助かりました。」
「いいよ。浅葱の家の前で死なれたら困るからな。」
口調に反して、その男性は優しい目をしていた。
しばらくして、千堂さんが夕飯を運んできてくれた。
「今日はオムハヤシライスを作ったの。ザクロ、サラダもちゃんと食べるのよ。」
「へーいへい。」
ザクロと呼ばれたその男性は、うげっ、という顔をしながらテキトーな返事をする。
「それじゃあ、いただきましょう。」
「いただきます!」
家主の千堂さんの言葉に続いて、食前の挨拶をした俺たちは、一斉に食べ始めた。
「あら、浅葱、おいしいわ。また腕を上げたんじゃない?」
「ルリったら上手ね。いつもと変わらないわよ。」
「姉貴の言う通り、今日もうまい!」
ふわふわとした卵に濃厚な味のハヤシのルーが絡む。おいしい。
「おいしいです。」
俺も悪魔猫姉弟に続いて感想を言うと、千堂さんは嬉しそうに笑った。
「ありがとう、悠祐くん。」
なんとも温かい雰囲気の中、和やかに食事は終わった。
食後。俺は片付けを手伝ってから、千堂さんに家の中を案内してもらった。
「ここが書庫で、あっちがさっき行った食堂ね。」
「二階にはテラス兼ティールームがあるわ。それから、温室も。」
「悠祐くんが使う部屋は三階ね。」
「私と、同居人たちが使っている部屋は四階にあるわ。私の部屋にはネームプレートが掛けてあるから、何かあったら遠慮なく来て頂戴。」
一通り案内してもらった後で、千堂さんと俺は、ティールームでお茶をすることになった。
ティールームの脇にお茶を淹れられるスペースがあって、棚にはクッキーの缶が置かれていた。
「私、現世にいた頃はあまり甘いものは食べていなかったのだけれど、こちらに来てからはついつい甘いものを食べてしまうのよね。」
三枚目のクッキーに手を伸ばした千堂さんが茶目っ気を含んだ笑みを浮かべる。俺もつられてクッキーに手を伸ばした。
「ねぇ、外を見て。星が綺麗だわ。」
満天の星空。天の川がよく見える。吸い込まれそうな輝きに、俺はぼーっと意識を吸い取られそうになった。意識を目の前に置かれたお茶に戻すと、一口飲む。紅茶のことは詳しくないが、おいしいということだけは分かった。
大きめのティーポットが空になる頃、星空のお茶会も終わることとなった。
「さて、そろそろ明日の支度をして寝なくてはね。悠祐くん、おやすみなさい。」
「おやすみなさい、千堂さん。」
部屋に戻り、俺はポケットに入っていた生徒手帳のメモ欄ページを開くと、家の中の簡単な地図と今日の日記を書いた。これなら、次に何かの衝撃で記憶を失っても、状況を把握できると思ったのだ。
部屋の中にあるシャワールームでシャワーを浴びて、ルリさんとザクロさんが買ってきてくださったであろう衣服に身を包む。
(今日は本当に驚きの連続だったな……)
さっきまで寝ていたのに、もう眠たい。俺はベッドに滑り込むと、俺はそのまま眠りについた。
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