第3話 もう一度

 結局、生き永らえてしまった。鴨との遭遇の翌日、茉莉はホームルーム中の教室の窓を見ながらぼんやりと項垂れた。別段、ひどく後悔しているわけではない。カラス天狗から落下した際感じた死の恐怖は、自殺を躊躇するには良い理由だった。

 

 独りには慣れたつもりだった。しかしあの寒い暗闇で死を待つ瞬間は、世界で自分一人だけが取り残されている、そんなどうしようもない虚しさや孤独が押し寄せてきたのだ。あれをもう一度体験することなど無理だ。そう思うと同時に、茉莉の心中にはある一人の人物が浮かんできた。


 鴨公宏。死にゆく茉莉の手を取った救世主、または死神か。助けてくれたまではいいものの、そのまま社交ダンスに付き合わされた。そう思ったら今度は、モノノケだらけのダンスクラブで働けと強要してきたではないか。今でも昨夜のことは夢のように感じる。

 

 茉莉はあれほど飛んだ人間とは出会ったことがない。だからこそ、彼のことが気になって仕方がなかった。お礼を言いたいのもあるが、まず彼が何故あのビルにいたのか、そしてどのような人物なのか確かめたい。しかし、茉莉にはもう一度あの胡散臭い場所に行く勇気が出ない。背中を押してくれる何かがあったらいいのに。

 そう思った矢先だった。


「はい、これで帰りのホームルームを終えます。日直は号令を…四辻さん!」


 担任の宮木から呼ばれ、茉莉はバッと彼女を見た。


「は、はい!」


「あなた日直でしょう?もう、早くして下さい。」


「すみません!」


 クラス中からの嘲笑。茉莉は真っ赤になって、日直の役目を果たした。

 放課後、茉莉は鞄に教科書を詰め込んでいた。周囲ではクラスメイトが残って勉強やら談笑をしている。


「ねぇ、知ってる?あの阿弥蛇市の交通事故の噂。」


「聞いた、聞いた。化け猫の話でしょ?急に飛び出してきた事故を起こしては、消えるっていう。」


「えぇ、何それ?じゃぁ、この前のお婆さんが引かれた事故もその化け猫のせいっていうの?」


 世の女子高生はどいつもこいつも噂好きである。小耳に化け猫と聞こえても、茉莉にとっては何も怖くなかった。ただ、事故の話から茶々丸を思い出して気分が悪くなった。するとフラッシュバックが止まらなくなった。

 

 茶々丸の血で汚れたリード、タイヤに挟まれたあの子の潰れた顔、写真を撮って騒ぐだけの野次馬…。


「うっ、」


 茉莉は途端に吐き気がして、教室を飛び出してトイレに駆け込んだ。昼に食べたコンビニ弁当を全て戻してしまった。茶々丸が亡くなってからは、こういうことは頻繁にあった。脳からの嫌がらせか、勝手に記憶というのは出てくるものである。

 トイレを出ると、手と口を洗面所で洗った。ふと鏡を見れば、目元に酷い隈を抱える自分と目が合う。茶々丸の温度がないベッドでは、碌に寝られないのだ。


「なんて有様。」


 茉莉はそれから顔を背け、ポケットからハンカチを取り出そうとした。しかし見つからない。「あれ?」と思った途端、底に指が当たり、見覚えのない紙が出てきた。


「なにこれ?」


『ハンカチは預かったぞ!返してほしくば、もう一度店に来たまえ!』


 端正な文字の横に書かれた、ムカつくシルクハットの顔文字。あの男だ、鴨だ。きっと茉莉が逃亡することを見通して、こっそり制服のハンカチとメモをすり替えてたに違いない。

 茉莉はぎっと歯を噛みしめ、メモをぐしゃぐしゃに握りしめた。


「あの男、こんなふざけた真似して…。」


 少女はまどろっこしいことをする鴨に苛立ったが、同時に彼に会いに行くのにいい理由ができたと思った。


「いいわ、行ってやりますよ。」


 茉莉は拳で口元の水を拭うと、トイレを後にした。


「もう、モノノケダンスフロアなんて店、どこにもないじゃん!」


 高校付近にあるコンビニで、茉莉はスマホを延々とスクロールさせた。なんどhoogle検索しても、この阿弥陀市にモノノケダンスフロアという店は見当たらなかった。それどころかホームページも記事さえ見つからなかった。昨夜茉莉は無我夢中で逃走したため、店の居場所を正確に覚えていない。完全に詰みの状態である。


「はぁ、来いっていうなら地図くらい寄越してよ。」


 コンビニの飲食スペースで、茉莉はテーブルに突っ伏した、もしかしたら、昨日のことは本当に夢だったのではないか。今更、そんな考えまで出てきた。その時だった。


「カァァァァァァ!!」


 遠くに聞こえるカラスの声。それにしてはあまりにも声量が大きい。顔を上げてみると、窓から空に飛行機が通るのが見えた。いや待て、飛行機ではないぞ。


「カラス天狗だ!」


 急いでコンビニを出ると、茉莉はよく空を見た。巨大な飛行物体は烏帽子をかぶり、大音量で鳴いている。間違いない、昨日乗せてもらったカラス天狗だ。奴に頼めばモノノケダンスフロアまで連れて行ってくれるかもしれない。茉莉は大きく手を広げた。


「おーい!!天狗さーん!こっちこっち!」


「ッカァ!お前、昨日の嬢ちゃんか!?」


 茉莉の姿に気づいた天狗は、少し躊躇した後コンビニの駐車場まで降りてきた。


「どうしたんだよ、俺の姿は他の奴には見えないんだから、そんな大声出したら変人扱いされるぞ?」


「別にそれはいいんです。あの、もう一度私をモノノケダンスフロアまで連れて行って下さい!」


「はぁ!?」


 茉莉は頭を下げると、カラス天狗は右の翼で頭を掻いた。


「どいつもこいつも、俺はお前ら専用のタクシーじゃねぇのあ分かってるのかい?」


「そこをなんとかぁ。」


「いいや、断る。俺は世界の終わりでも人間の言いなりにはならねぇ。」


「どうしよう、あ、そうだ!」

 

 茉莉は何かを思いつくと、コンビニに入っていき、数分後に袋を抱えて戻ってきた。


「っへ、金でも下ろしてきたのかい!俺はそんなんじゃ__。」


「これ、カシューナッツとピーナッツの詰め合わせです。あと燻製アーモンドも買ってきました。お口に合えば_。」


「よおし、嬢ちゃん。モノノケダンスフロアまでだな?最速で行くぜ。」


 昨日、鴨がナッツを駄賃にしていたのを見て茉莉も真似してみたが、上手く交渉成立できた。チョロい。とは流石に言わなかった。彼女は袋を抱えて、背中によじ登った。するとカラス天狗は空に飛び立った。



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