美人の内見

獅子倉八鹿

第1話

「定時になったんで、僕帰りまーす」

「おい、相原」

 気の抜けた挨拶とともに席を立とうとする相原に、佳月かげつが声を掛けた。

「何ですか?」

 佳月の方を振り向く相原。その返事からは、早く退勤したいことが一目瞭然だった。


「明日の予定変更だ。午後から俺が担当する内見に同行してもらう」

「はい」

「物件については明日伝える。内見の準備物は分かるか?」

「全然大丈夫です」

 回転椅子に座ったまま、横に立つ佳月を見上げる相原に、佳月はため息をつきたくなるのをぐっと堪えた。


 やれやれ、今の若い奴はメモを取らないのか。そしてこの態度に言葉遣いときた。

 俺の新入社員時代なら先輩が顔を真っ赤にして怒鳴ったもんだ。少し灸を据える必要があるかもしれない。


「おい――」

 佳月は語気を強めて、すぐ言葉を切った。

 落ち着け。俺の新入社員時代とは違う。

 今は、少し怒るだけですぐパワハラだなんだと騒ぎ立てられる世の中だ。

 こんなことで問題になれば、4月の昇進をなかったことにされるかもしれない。


 佳月は軽く咳払いをし、言葉を続ける。

「大事なお客様の前で今みたいなみっともない返事はしないようにな」

「はい。じゃあお疲れ様でしたー」

 普段の業務時には見られないスピードで席を立ち、裏口に向かう相原を見送りながら、佳月は深くため息をついた。

 まあ、この態度も明日になったら変わるかもしれない。


 佳月は自分のデスクに座ると、パソコンを起動させ、物件資料が入ったファイルを開く。そして明日の内見のための書類作りを始めた。


「明日の物件の女性、本当にこの物件なのか……? 女性がこんな物件の内見なんて世も末ってやつだ……」

 ぶつぶつと独り言を漏らす佳月だが、その言葉は誰にも聞かれることがなかった。



 次の日。

 佳月がインスタントコーヒーをマグカップに入れていると、裏口のドアが開き、リュックを背負ったジャージ姿の女が入ってきた。

 女は茶色いスニーカーを下駄箱に入れ、黒のパンプスに履き替える。

 給湯室に顔を覗かせると、佳月に頭を下げた。

「佳月さん、おはようございます」

「おう、おはよう」

 姿勢よく更衣室に向かい、壁に貼り付けてある表示を使用中に変えると、中に入っていった。


 佳月より1年後に入社した山崎だ。

 健康維持のためと、何駅か離れた自宅から徒歩で通勤し、更衣室でスーツに着替えるのが日課だった。

 以前飲み会で、大学生と高校生の子どもがいると言っていたが、あの若々しい見た目で大学生と高校生の子どもがいるとは、佳月をはじめ社員全員想像がつかなかった。


 佳月は、戸棚からもう1つマグカップを取り出し、コーヒーを準備する。

 おそるおそる両手でマグカップを運び、後から準備したマグカップを佳月の隣の机に置いた。

 自分の席に座ると、最初に準備したマグカップに口をつける。


 ブラックの風味を堪能すると、引き出しからファイルを取り出し、書類の確認をする。

 それは相原と同行する、内見の書類だった。

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