能力と妖力(1)

「どうして、君が鬼気を扱えているのかな」


 ユキから放たれたその言葉は、その場の誰もが思っていたことだった。


「君は鈴蘭の鬼気を、君の鬼気をもってして中和した。そして今も尚、君は鈴蘭が発している鬼気を打ち消し続けている。これは一体、どういうことかな」

「えっ―――それはこのお面が―――」伊佐薙の瞳孔は震えている。

「言っただろう―――その面が君にもたらすのは、ほんの少しの身体強化程度のはずだって。面を付けるだけで鬼神の力が使えるようになるなら、きっとその面は世界を代表する呪物だよ」


 ユキに面を指差された伊佐薙は、何も分からずに下を向いていた。

 そんなことを言われたって、俺にも分からない。


 そんな伊佐薙に追い打ちをかけるように、那肋が言葉を足した。


「鈴蘭の鬼気をこれだけ中和できるとなると、その威力は相当なものだ。少なくともここにいるユキ、一八、赫よりも、鬼気の威力は高いだろうな」


 伊佐薙は既に、自分のことが分からなくなっていた。

 この空気と言われている内容で、嫌でも自覚する。俺はきっと、彼らにとって異質な存在なのだろう、と。


 この疎外感に似た感覚は、能力を持って生まれた時点で慣れっこだと思っていたのに、まさかこの年になってもう一度自分の存在を疑うことになろうとは―――そう思ったとき、伊佐薙はこの空間の物珍しさに気付いた。


 そういえば、人生において自分がこんな風に問い詰められたことはなかったな。どんなときだって多重面相があったせい―――というより多重面相ので、自分がその空間において異質な存在となることはなかった。


 自分が異質だと分かっていたのは、いつだって自分だけだったんだ。


 それが今、俺は目の前の強妖怪きょうようかいらに"お前は何者だ"と石を投げられている。人間の俺から言わしてもらえば、異質なのはお前らの方だ、と言い放ってやりたかったが、この空間においては俺が少数派だ。

 そんなことも言えるはずもなく、伊佐薙はただ拳を握り締めることしかできずにいた。


 しかし、この息苦しい空間そのものがとにかく新鮮で、伊佐薙は感極まるように目を見開いて、地面を睨み付けていた。


「俺は、ただの人間だよ。能力を持った、ただの人間―――能力名は多重面相。でも、戦闘に使える能力じゃない。その場の空気に順応できるだけの、簡単なもので―――」


 自分で口にしながら、伊佐薙は困惑していた。いつも勝手に働く言論統制が、このお面を被ってから一度も発動していない。

 能力が、機能していない。この事実を伊佐薙は未だに理解しきれていなかった。


「説明になっていないぞ、人間。それではお前が鬼神の力を使えている理由にはならんだろう」


 赫は伊佐薙に攻撃の意図が無いことを察し、少しずつ警戒態勢を解いていく。


 伊佐薙は何も言葉を返せない。

 俺は多重面相が無いと、こんなにも言葉を発せない人間なのか?


「もういい、これ以上は無駄。危険な存在なのはよく分かった。それで十分だろう? たとえこいつらが本当に味方同士じゃなかったとして、今後味方になる可能性は否めない。それなら殺すべき。疑わしきは罰せよ、これを徹底するべきだ」

「そうね―――私も賛成―――このレベルの鬼気―――そうそういない―――危険よ、絶対―――」


 一八の意見に鈴蘭はゆっくりとした口調ですぐさま同意を示し、二匹で赫の両腕を引っ張っていた。


 鈴蘭にとって、鬼気というものは強さの象徴だった。

 もしも本当に―――今この瞬間が―――初めて鬼気を使ったその時だったのなら―――この威力は明らかに異常。

 少なくとも―――私が初めて―――鬼気を使った時なんて―――この威力の十分の一にも満たなかった―――はず。


 しかもこいつは―――まだ獄炎操術を使っていない。もし―――獄炎操術にも同じような才があったなら―――それを危険と言わずして―――なんと言うのかしら。

 こんなの―――才能だけで言えば―――きっと"朧様にも"届きうる―――

 その考えが頭をよぎった瞬間、鈴蘭は急いで不敬な自分を叱りつけた。


 そんなわけはない―――あの方を越える存在など―――いるはずもないのだから。


 朧様は孤高にして―――頂点。そうよ―――彼を越える存在なんて―――いるはずない。

 鈴蘭の心の声は、どこか自分らに言い聞かせているようだった。


「ふん―――真相も分からぬままに消すのは正直好かんのだが―――しかしもしも、お前が強大な力の新芽だった場合、それは開花する前に摘み取ってやらねばならんのだろうな」


 二匹に背を押され、赫の目つきが再び戦闘態勢になったのを確認すると、ユキが音も立てずに伊佐薙の隣へと移動した。


「伊佐薙、といったね。正直言うと僕ね、今君に起こっていることについて、少し心当たりがあるんだ。それを確認するまでは、変わらず僕は伊佐薙の味方だ。勿論、那肋もね」

「心当たり―――?」伊佐薙は眉をひそめた。

「そう、詳しくはまた話すから、今は目の前のことに集中しな。君だって気になることがあるんだろう? 能力のことやらなんやらさ。

 それだって、今を生き延びなきゃ確かめようがないよ」


 ユキはそう言うと、自分が羽織っていた黒い羽織を伊佐薙の肩にかけた。たった一枚の布のはずなのに、それはどこか暖かく、それでいて安心感がある。


 伊佐薙は不思議と懐かしい感覚に陥っていた。


「うん、やっぱり凄い似合ってる。これはある鬼神の髪の毛を編み込んで作られてる特注品でね、主に獄炎に強い耐性があるんだ。

 君の服、現世の布だろう? これで覆っておけば、派手に被弾しない限りは服も身体も、ある程度は守れるはずさ」


 ユキは穏やかに笑っていた。それを端から見ていた那肋も、まるで親戚の子どもを見るような目で見つめている。


 この羽織にはきっと二人にとってなにか思い入れがあるのだろう。伊佐薙は彼らの発する空気感からそう感じ取っていた。


「ありがとう、大事にするよ」

「僕もそれを着ながら結構派手にやらかしてるからね、気負わなくて良いよ」

 

 ユキは笑いながら伊佐薙の背中を押し、鬼神らの元へと歩いた。それからすぐに伊佐薙の背中を那肋が鼻でつんと小突いた。


 全員の覚悟が決まった瞬間だった。


「最後の晩餐、ならぬ最後の談笑は終わったか」赫は無表情で棍棒でユキを指した。

「そっちこそ、三対三になったからって、あんまり調子に乗らない方がいいと思うよ。作戦会議するならもう少し待っててあげようか」

「あのクソガキ―――」歯ぎしりしていた一八の横で、鈴蘭は凜々しいユキを見て陰気に笑っていた。


「全員、ここで殺す。いいな」

「なにがあろうと逃げ切る。いつでも来なよ」


 赫とユキの間には既に火花が散っていた。それが最大まで強くなったとき―――音一つなかった戦況は動き出した。


「鈴蘭!」


 赫の指示で鈴蘭は鬼気を一度収め、再び最大火力の鬼気を展開した。

 ユキと那肋、伊佐薙の三匹が立っている場所だけ重力が過剰にかかっているように錯覚するほどの殺意の中、ユキも伊佐薙に対して指示を飛ばした。


「伊佐薙っ―――!」

「おう! ―――こんにゃろーがあああああ!!!!!」


 伊佐薙が咆哮と共に展開した鬼気は再び鈴蘭の鬼気とぶつかり合い、ユキと那肋が受ける鬼気の被害を最小にとどめた。

 

 この―――さっきより―――鬼気が強くなってるじゃない―――鈴蘭は鋭い眼光で伊佐薙を睨んだ。

 やはり―――あいつは危ない。このまま進化―――させてはいけない。

 鈴蘭は鬼気を強めた。


「押し殺して―――やる―――!!!!」


 鈴蘭の鬼気の強まりに気付いた伊佐薙は次の瞬間、鈴蘭の方へと走っていた。


 自分が、鬼気という妖術を使っている。まだその自覚はないけど、もしそうだと仮定するなら―――なんとなく分かることがある。

 

 鬼気―――これはきっと、自分の集中力と直結しているような―――割と繊細な技術なんだ。俺が今、走り出しただけで鬼気がブレた気がするのが、その証拠だ。

 それなら、まだ鬼気が拮抗している今のうちに鈴蘭を叩く。それが伊佐薙が走り出した理由だった。


「待て、伊佐薙!」


 ユキが伊佐薙を追うも、その背中との距離はなかなか縮まらなかった。


 速い―――いや違う、伊佐薙は鈴蘭の鬼気を打ち消している張本人。僕らよりも鈴蘭の鬼気による影響が少ないんだ。

 だとしても今突っ込むのは負け筋だ。ユキが再び声を上げようとしたとき、残酷にも危惧していた事態は起こってしまっていた。


「そう易々と鈴蘭を叩かせる訳がないだろう、なあ―――伊佐薙ァ!」


 赫が伊佐薙に向かって振り下ろした棍棒には、慈悲の一つも含まれていなかった。

 本気で殺すための一発。武器すら持ち合わせていない伊佐薙にそれを防ぐ術はなかった。


 目にも留まらぬ速度で振り下ろされる棍棒を前に、伊佐薙は数秒前の己の意思を悔やむと同時に、にたりと歯を食いしばった。

 

 もし俺が今、ここで―――! こいつらの想像を超えられたら―――!

 

 この一瞬、伊佐薙の脳裏にはある男性の大きな背中が映っていた。


 守られるだけじゃなく―――! 守れる男になれる―――!! 


 伊佐薙は力強く地面を踏みしめると、両腕でその黒光りした塊の一撃を全身で受け止め、そのままその場に跪いた。その衝撃は、伊佐薙の身体を通して地面を蜘蛛の巣状に割るに至った。

 骨は軋み、気を緩めると肉片になってしまいそうになる自分がいる。伊佐薙は歯を食いしばってその棍棒に食らいついた。


 こいつ―――真っ正面から―――!? 

 赫は動揺していた。


 一方の伊佐薙は眼球だけで赫を睨み、歯茎を見せた。

 やっぱり、耐えられる。俺は今、相当身体が強化されてる。賭けに勝った伊佐薙は口元に血を滲ませながら、にたりと笑った。


「ユキ! 那肋! 頼む!!!」伊佐薙は血反吐を吐きながら叫んだ。

「てめェ―――!」赫は自分の棍棒がその場から動かないことに気付き、事態の深刻さを悟った。

「獄氷刀術―――頞部陀あぶだ星華!」


 ユキがそう呟いた刹那、白銀の刀身は鈴蘭を切り裂いており、ユキはそのままの勢いで鈴蘭と距離をとった。

 鈴蘭に背を向けたままで刀身を鞘に納刀する様は、まるで何かの演舞のようだった。


 鈴蘭の胸の切り傷からは蓮華のような形をした獄氷が咲き、鈴蘭はそのまま白目をむいてその場に倒れた。


「鈴蘭! くっ、獄炎操術―――焦ね―――」


 鈴蘭に付いた獄氷を溶かすため、一時的に戦況を分断するため、ユキがこちらに来るのを抑えるため。いくつもの狙いの元放たれようとしていた獄炎操術は、一匹の獣の爪によって中断を余儀なくされた。


「そう易々と展開させる訳がないだろう―――お返しだ」

「那肋―――貴様―――!」


 伊佐薙とユキに紛れて神隠しを使った奇襲は、流石の一八でも扇子による防御が間に合わず、彼女は斬撃を一身に受けて遠くまで吹き飛ばされた。

 身体は地面に当たって回転し、一八がぶつかった岩は粉々に崩れ散った。その後も一八は、腹に受けた傷にしばらく苦悶の表情を浮かべることしかできずにいた。


 那肋の全速力による爪での斬撃と殴打。その威力は鬼神ほどではないにしても、十分な威力を誇っていた。

 鬼気を全身に浴びながらでも一八に傷を付けられているのが、その証拠だ。


 ユキは刀に片手を置きながら赫の元へと向かい、一方の那肋はいつでも獄炎を展開しうる一八を警戒するために、一八の側まで即座に駆け出していた。


「この流れ、全て予定調和か。伊佐薙」


 赫は、伊佐薙が力なく手放した棍棒をふっと持ち上げた。

 その言葉には覇気がなく、ただ目の前の人間に対して、事の真意を聞き出したいという一心から生まれただけのものだった。


 伊佐薙は尻もちをついて赫を見上げると、両手を後ろについてため息をついた。


「そりゃあ―――これしか思いつかなかったから―――なんのイレギュラーもなく戦力をぶつけ合えば、その結果は誰にも分からなかっただろうし―――だからこっちはなにか、意外性のあることをしなきゃいけなかった―――それだけのことだ」


 伊佐薙はふらふらと立ち上がりながら赫の方を向いた。そこには"それで、お前はどうするんだ"という無言の圧が含まれていた。


「そうか。それだけのこと―――か。ふっ、これ以上ない、最高の侮辱だな」


 赫は目の前の小さな人間を力ない眼で見つめていた。

 目の前にいる人間はふらついており、俺が少し手を伸ばせばすぐに死に絶えてしまいそうだ。


 そして改めて自覚する。

 こんなちっぽけな存在が、自分の命を担保にして俺たちとの賭けに勝ち、ほんの一瞬で戦況を変えたんだ。


 まずあの鬼気合戦。きっとあの時点で、こいつはこの作戦を思いついたのだろう。

 あれだけの鬼気を発する鈴蘭という存在を見て、伊佐薙は直感的に"鈴蘭は正面戦闘に長けていない"と感じ取った。だから伊佐薙はあからさまに鈴蘭に突っ込んだ。


 しかし伊佐薙が本当に狙っていたのは、その行動によって得られる副次効果だったのだ。 

  

 そんな風にまっすぐ鈴蘭を狙う伊佐薙を見れば、当然俺か一八のどちらかが牽制する。そこで伊佐薙は賭けに出た。

 一八の強みは強力かつ広範囲の獄炎操術。俺の強みは馬鹿力による身体能力。ならば、この場面で真っ先に鈴蘭を守りに来るのは俺だろう。その可能性に賭けたのだ。


 もしかしたらあの羽織―――あれの獄炎耐性に可能性を感じていたからなのかもしれないが、どのみちその賭けは伊佐薙の勝ちとなった。

 その時点で人数有利は明確だ。その刹那だけは、伊佐薙は事実上俺と鈴蘭を同時に相手していたようなものなのだから。


 伊佐薙は俺が食いついたのを確認した瞬間、一瞬鬼気を消した。そして自分から発せられる鬼気の全てを、俺に凝縮してぶつけたのだ。

 あれは流石の鈴蘭でも、瞬時に対応することは至難の業だろう。


 その結果、俺が伊佐薙にぶつけた打撃は、普段の半分も力が発揮されていないものとなり、俺は伊佐薙を仕留められなかった。


 それからは全てトントン拍子だ。伊佐薙は打撃を我慢し、そのまま棍棒にしがみついて俺を動けなくした。いや、正確には棍棒を捨ててその場から動くかどうかの判断を俺に強制した、といった方が良いだろう。

 そのせいで俺は迷った。二匹を助けに行くのに遅れた。


 全部、こいつが書いた台本だ。


「お前、頭良いんだな」赫は諦めるように吐き捨てた。

「あの即興に合わせてくれた―――二人のおかげだよ」


 赫はそう言って控えめに笑う伊佐薙を見て、気付くと自分でも思いがけないことを口にしていた。


「ふん―――それにしても、なんだ―――よかったな、楽になれたみたいでよ」

「えっ―――」

「なんというか、雲の中で苦しそうだったのが、一気に晴れた感じだ。だからよかったな、と言ったんだ」


 赫はそう吐き捨てると、ふいっと背を向けて二匹の回収に向かった。


 それを呼び止めたのは、伊佐薙の後ろから現れたユキだった。その肩には未だに身体の所々に獄氷が残っている鈴蘭がぶら下がっていた。


「どうするんだよ、僕らのこと」

「ふん、こんな特異点が現れたら作戦が上手くいかないのも仕方のないことだろう。きっと朧様も許してくださるさ」

「見逃してくれるって事で良いんだよね、それ」


 その言葉に、赫は後ろを向きながら声を荒げた。


「お前を見逃すわけじゃない。一八と鈴蘭が危険な状態だから、一時的に戦いを止めたに過ぎん。それ以上言うのなら、今から俺だけでも暴れ散らかしてやろうか」

「分かったよ、ごめんって。ちなみに鈴蘭、あの時思いっきり鈴蘭の鬼気の中だったから、ほぼ無傷のようなものだと思うよ。一八に丁寧に獄氷を溶かしてもらいな」

「ちッ、最後までうるさい奴だ―――」


 赫はそう言うと「よこせい」とユキから鈴蘭をぶんどり、そのまま二匹の元から去って行った。

 伊佐薙は想定よりも戦闘が少なく済んで、ほっと胸をなで下ろしていた。


 てっきり赫は、一人になっても戦闘を続けるもんだと思ってた。だからずっと警戒してたし、正直負けも覚悟してた。

 それなのに赫はさっさと諦めて、その場で終戦の流れを作った。


 あれはきっと、他の二人を思ってのことだったんだろうな。


「あの三人、仲良いんだね」


 伊佐薙がそう呟くと、ユキは少し間を置いてふっと笑った。


「そうだね。彼らは昔から三位一体って感じだった。それだけ三匹が揃うと強かったんだよ。まあ見てもらったら分かる通り、一体一体でも十分強いんだけどね」

「そっか、なんか良いね、そういうの。本当の仲間って感じがしてさ」


 ユキはしんみりとしている伊佐薙を見て、吹き出すように笑った。


「なんだよ、いいだろ、仲間に憧れてたって」

「いや別に悪いと言ってる訳ではないけどさ。ま、伊佐薙は能力のせいで本物の仲間ができたことないーとか、どうせそういうことでしょ」


 すらすらと言い当てるユキに伊佐薙が驚いていると、ユキは笑いながら伊佐薙の肩を叩いた。


「じゃあ、これからは遠慮なく、本物の仲間が作れるね」


 赫といい、ユキといい、妖どもはどいつもこいつも察しが良くて怖い。

 伊佐薙は、両の掌を眺めながら改めてその事実を噛みしめていた。

 

 そうか。能力に振り回される人生は、もう終わったんだ。


「おお、那肋。無事だった?」ユキはふらふらと飛んできた那肋に声をかけた。

「ああ―――だが少し疲れたな」


 二匹の妖怪は修羅場を乗り越えた後の談笑に花を咲かせていた。その空気感が、更に伊佐薙の身体から力と緊張感を抜いていった。


 そうだ、もう終わったんだからこのお面も外して良いよな。


 伊佐薙は頭の後ろの紐をつかんで前に持ってきて、角のあるところを掴みながら頭から外そうと力を込めた。


 なんだろ―――なにかが引っ掛かってんのかな。上手く外れない。


 伊佐薙は角の部分を握りしめながら、縦や横に動かして隙間を作ろうとした。

 しかし頭の形に合いすぎているせいで、なかなかお面がずれない。


 一人でわちゃわちゃしていると、ユキと那肋も段々と気になってきたようで伊佐薙に近付いてきた。

 

「どうしたの、なんかあった?」


 ユキの心配そうな声も耳に入らず、伊佐薙はただがむしゃらにお面を外そうとしていた。

 その時、それまでの苦労が嘘だったように、突然吸盤に空気が入ったような感覚でお面がすぽっと宙を舞った。


「取れ―――た!」


 喜んだのも束の間、伊佐薙は勢い余ってお面を吹っ飛ばしてしまった。拾わなきゃ―――そうして伊佐薙が首を回していると、そのまま視界が段々と傾き、低くなっていった。


「あ、れ―――」

「おい、伊佐薙、足元しっかり―――」。


 ユキの注意もむなしく、気付くと伊佐薙は地面に寝転がっていた。倒れるときに打った側頭部がじんじんと痛む。

 しかしそんな痛みなどは次の瞬間に全身を襲う痛みに比べたら大したものではなかった。


「ぐっ―――があ―――」


 全身の筋肉が息をしているようにバクバクと波打っている。熱い、いや、寒い? 四肢からの伝達が多すぎて今自分が感じている感覚が正常に知覚できない。

 苦しい、こんな感覚、味わったことが無い。


「おい、伊佐薙! どうした、なにがあった」ユキは慌てて伊佐薙の肩を揺すっている。

「面の副作用か―――?」那肋も心配そうに伊佐薙を覗き込んでいる。

「いや、そんなものはないはずだ。でも伊佐薙は特例だったし―――でも赫の攻撃をもろに受けてるわけだから―――くそ、今はとにかく療養できる場所を探さないと。伊佐薙、喋れるか―――いや、最悪喋れなくてもいい。僕らの声が聞こえるか」


 ユキの声が反響して聞こえる。視界はその場で回転したときのようにぐるぐると回転し、万華鏡のようにいくつもの景色が映し出されていた。

 

「あう―――なん―――とか―――」

「よし、その調子だ。こっからは那肋が安全に運ぶから、伊佐薙は家を教えてくれ。僕たちで無事送り届ける。頑張れ、あと少しだ」

「ああ―――うう―――」


 呻くことしかできなかった伊佐薙だったが、その後で那肋に運んでもらっている最中は、道が合っていれば無言、間違っていたら呻く、といった具合で、なんとか回り道をしながらも帰路に着いたのだった。

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