ワニの絵

武州人也

ワニ

 雑誌社に勤めていた頃、仕事で怪談を収集していたことがある。雑誌に実話怪談特集とやらを掲載するためだったが、残念ながら企画はお流れとなってしまった。そのときに出会った、笠木かさぎという男の話だ。穏やかそう、というより覇気のない、痩せぎすの中年男性だった。


「ずっとボロアパートで暮らしてきたんですけど、年取ると賃貸借りづらくなるって言うでしょ? だから値段と利便性を考えて、中古の狭小住宅を買おうと考えたんです」


 喫茶店の二人がけ席で、彼は語り始めた。


*****


 今から三年前のこと。僕は閑静な住宅地の一角にある中古物件の内見にやってきた。外観からしてかなりの狭小住宅だが、僕のような独り身にはちょうどいい。どうせこの先結婚したり、子どもをもったりということはないだろうから。


 玄関を開けると、中には新居のにおいが漂っていた。築三年というから、中古といっても新しい方だ。前の住人は、どうしてすぐ売ってしまったんだろうか、などと考えつつ、僕は不動産業者の男に案内されて、一室一室を見て回ることにした。


 リビングの壁に、僕はひときわ目を引く絵画を見つけた。それは大きなサイズのキャンバスに描かれた一枚の絵だった。深緑色の鱗に覆われた巨大なワニが川から飛び出し、大口を開けている様が写実的に描かれている。実に見事な絵で、絵画に詳しくない僕でも感心してしまうほどの出来だ。けれどもこんな絵がリビングにあったら、威圧的すぎて落ち着かなさそうだ。


 なんでこんな絵があるんだろう。傍らにいた不動産業者の男に尋ねた。


「この絵、どうしてここにあるんですか?」

 

 すると、眼鏡をかけた若い業者は、難しそうな顔をして答えた。


「うーん、なんででしょう……よくわかりません」

「前に住んでいた方は画家さんなんですか?」

「そういう話は存じ上げませんが……」


 業者の様子だと、この絵について本当に知らないようだ。こういうのって、事前に撤去したりするもんだと思っていたが、そうではないらしい。


 再び視線を絵に移す。それにしても、見事な絵だ。もしかしてこの絵は、高名な画家が手掛けたものかもしれない。そうだとすれば、結構な資産価値があるのではないか……


 内見を終え、現在の住まいの古アパートに帰った。その日ずっと、新居そのものよりもリビングに飾ってあったワニの絵が頭から離れなかった。

 

 その後、僕はその中古物件を購入した。念願かなって、自分の家を手に入れた。とはいえ暮らし向きは変わらない。ローンを背負ったことで、かえって精神的には余裕がなくなった気がする。相変わらず自宅と職場を往復するだけの毎日。家で待っているのは絵画の中で大口を開けるワニだけ。毎日眺めているうちに、だんだんとワニの孤独を己の境遇に重ねるようになった。そのうち、ワニに向けて「おはよう」「ただいま」などとあいさつするようになったけど、当然ながら返事をくれることはない。


 新居に住み始めてしばらく経ったあるとき、些細な連絡の行き違いから、僕はちょっとしたミスを犯した。僕にも落ち度はあったけれど、僕に何も知らせなかった同僚にも非はある、といった案件だった。それなのに上司は衆目の前で僕一人を激しく面罵したのだった。帰宅後、最初は萎れていた僕も、時間が経ってくるとむかっ腹が立ってきた。


「確かに僕も悪いけど、何もあそこまで言うことはないじゃないか」


 怒りで興奮したせいで、その日の寝つきはすこぶる悪かった。


 それから何日かした月曜日、その上司は無断欠勤した。上司の自宅に連絡し、その妻と話した社員によれば、いつも通り通勤したはずだという。その場の全員がハテナマークを頭に浮かべつつ、自らの業務へと戻っていった。


 その日、帰宅した僕は、リビングにかけてあるワニの絵の中に異変を認めた。


「食ってる……?」


 ワニの口元が、真っ赤に染まっていた。それだけじゃない。その口にはピンクの肉片のようなものがこびりついていて、傍らには真っ二つになった男性が、血だまりの中で突っ伏している。


 あまりのグロテスクさに、僕は叫びそうになった。


 結局、上司は発見されず、行方不明として処理された。


*****


「それで、ワニの絵はどうしたんです?」

「いやぁ、それが……ひと晩寝て起きたらすっかり元通りというか、普通のワニの絵に戻ってて、やっぱり見間違いだったんじゃないか、って思ってるんですよね……」

「今でもその絵は壁にかけてるんですか?」

「ありますよ? 何ならスマホに写真保存してあります。見ます?」


 「見てみたいです」と返すと、笠木はポケットから取り出したスマホを操作し始めた。


「ホラ、これです」


 見せてもらったワニの絵は、確かに笠木の言う通りだった。大きなワニが川から躍り出て、大口を開けている様が写実的に描かれている。その素晴らしい描きぶり

を見ていると、巧妙な画家が手掛けたものだと思ってもおかしくはない。


「すみません。こんなの怪談にならないですよね。絵の中のワニが上司を食べちゃったとか? そんなこと、あるわけないです」


 笠木はそう言ったが……やはり、上司の失踪とワニの絵は関係あると思う。なぜならそのとき、私の鼻が、むせ返るような血の匂いを嗅ぎ取ったからだ。

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ワニの絵 武州人也 @hagachi-hm

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