第2話 新しい仕事

 幸い、一か月程度空けただけで仕事に就くことができた。とはいえ、しばらく正規職員は避けたかった。正規職員で勤め始めて、また過重労働や人間関係でまいってしまって辞めることになったら意味がない。


 僕は週に一度、カズミさんのうちに行って一緒にお茶を飲んだ。この集まりに特に名前はなかった。なんとなくカズミさんに渡したい物があったり、話したいことがあってメッセージを送り、そのついでにお茶やお菓子をご馳走になりながら話すのだ。それがたまたま週一回の頻度だった。


 四人で座ったら一杯になるくらいの部屋。立派な座椅子は、夜逃げした人の置き土産だ。僕はカズミさんが淹れてくれたコーヒーをすすった。カズミさんはコーヒーを人にご馳走するのが好きで、「今日はうまくいった」「今日は少し濃いかな」とよく言うが、正直、僕には差がわからない。


「仕事が決まりました」


 僕はその言葉が口にできて、良かったなと思った。


「そうなんだ」


 カズミさんは変わらぬほほえみで言った。


「大学時代に勉強していた、法律の知識が生きる仕事なんで良かったです」


「へえ、法律を勉強してたんだね」


「はい。勉強も楽しかったし、使う予定も無いのに社会人になっても検定を受けたりしてました」


 馬鹿だったな、と思う。そこまでやるなら士業に挑戦すればいいのに。いつも中途半端なことをしてしまう。勉強自体は楽しかったがそれが仕事に生きることはなく、現場ではただ口が上手い奴、流行りがわかる奴が幅を利かせていた。でも仕方ない。そんな職場を選んだのは自分だ。本当は法律の仕事に憧れはあったが、頭が足りなかったし、都会でなくてはなかなか仕事はない。士業で食っていく覚悟もなかった。


「自分は法律って面倒臭いなって思うんだけど、どうしてそれが好きなの?」


「え……」


 僕は答えに詰まった。そういえば今まで自分が法律の勉強が好きだと誰かに言ったことがなかった。言う場面なんてまずなかった。それに、やっぱり自分が半端者で、好きと言えるほど知識がないという劣等感があった。ちゃんとその仕事をしている人たちに比べたら、何も知らない人とほぼ変わらない。


「そうですね……勉強していたときは、なんていうか、”皆でなんとかしてうまくやっていこうよ”っていう感じが好きだったんです。『法律は最低限の道徳』って言われますが、どうしても決めなきゃいけないことってありますよね。できるだけ公平に、弱い人を追い詰めないように、強い人ができるだけ自由でいられるように、そういう世界を自分たちで作っていきましょう……っていう、約束っていうか、願いみたいなのを感じるんです」


 へえ……と言って、カズミさんの顔が明るくなった。


「まあ……僕は学部生で基本の法律しか勉強してないので、趣味でかじった程度……みたいなもんなんですが……」


 今じゃ中身はすっかり忘れてしまっている。自分で言って、情けなかった。


「今の仕事は楽しいの?」


「そうですね……。法律のことが全然わからないお客さんも多いんで、教えてあげたり、手助けできるのは楽しいです。日常で法律を気にしながら生きることって、あまりないじゃないですか。だから急に言われるとびっくりするっていうか。僕は法律よりも生業が先と思っているので、できるだけ本業がそのまま維持されるようにやってあげたいし、法律を守りながらもちゃんとそうできるんだなって知って嬉しいんです」


 職場でも言う機会がない、僕のささやかなポリシーを口にしたことで自分が興奮していくのがわかった。


「同じことをやりとりするにしても、そういう人にお世話になりたいよね。私も大家業で役所や業者とやりとりするけどさ、ただ済ませるように対応されるのと親身になってもらえるのでは違うよね」


 カズミさんはやはり穏やかな笑みを浮かべて言ったが、その言葉を聞いてふと心が暗くなった自分がいた。


「……ただ、そういうのって、無駄なのかなって思う自分もいるんです……。淡々と済ませていった方が効率がいいとか、せっかく親切にしたつもりでも嫌な態度をとられることもあって……。損得でやってるわけじゃないんですが……」


 今の職場は良心的な人ばかりで、皆誰に対しても親切だった。それでもお客さんからクレームを受けているのを聞くと、自分のことのように胸が苦しくなった。


「ああ……それは確かに。そういう迷いは昔の自分にもあったなぁ……」


 カズミさんは何かを思い出すためか、黙ってしまった。僕は沈黙が苦手なタイプだが、ここで何かを話したらせっかくカズミさんが思い出そうとしているのを邪魔してしまうかもしれない。そう思って辛抱強く待った。でも、それは一分が限界だった。


「あ……すみません……。今から皆さんと作活があるので……」


 本当はまだ時間があったが、なんとなく気まずくなって嘘をついてしまった。


「ああ、ごめんごめん。もうこんな時間なんだね。ではまた」


 カズミさんは特に気を悪くした様子もなく、そう言った。いつものように簡単に挨拶をして部屋を出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る