ともだちハウス
千織
第1話 ともだちハウス
僕は長年勤めていたブラック会社を辞めた。体を壊したからだ。体を壊したという理由がなければ退職届さえ出せないくらい、僕は気弱な男だ。
僕は会社近くにアパートを借りていた。就職の際、買ったビジネス本に書いてあったのだ。
”新卒はライフアンドワークバランスなんて甘い考えは捨てろ! 若いうちにしかできない経験がる! やっていい失敗がある! 仕事100%でちょうどいい! 通勤で時間を無駄にするな! さっさと帰って自分を磨く! デキる1%の勝ち組になれ!”
そういう内容だった。僕は意識高い系……というほどではないが、特に趣味もなかったので、仕事に打ち込みたいと思ってビジネス本の言う通りにした。
ちょうどいい物件があった。スーパーも近いし、どんなに帰りが遅くなっても五分あれば家に帰れるし、朝はギリギリまで寝ていられる。雨や雪といった天気ももはや関係ない近さ。大震災の時ですら、停電で信号はつかず、ガソリンの供給に不安があって皆が家から離れられない中、僕は一人のこのこと会社に行くことができた。
だが、結局、1%の勝ち組にはなれなかった。
勝手に売上目標は吊り上げられ、会議では未達を詰められた。会議で言い訳するための資料づくりにかなり時間をとられる。家に持ち帰ってやるようになった。
会社全体に育成の風土がないから、新人は来てもすぐに辞める。僕が仕事を教えるのに費やした時間はいつも無駄になった。
イベントで休日出勤をすると振替休日を取らなくてはならないが、自分だけ休むと翌日の差し置きの量がすごい。午前中いっぱいその対応に追われる。何一つ計画的にはいかないし、昼休みもあってないようなものだった。
週末、休めたとしても翌週からの仕事がうまく回るか不安で気が休まらない。明日が来るのが怖い。そう思うと眠りたくない。無理矢理明け方まで起きていて、会社から離れていられるたった数時間にすがっていた。そんな毎日だった。
”人生を変えたければ、あなたの時間の大部分を占めているものをやめましょう”
そう本に書いてあったのを見た。なら、それは僕にとっては”仕事”だ。この一節との出会いで、僕は仕事を辞めようと思えた。
「労基が来たんだよ。お前が通報したんじゃないだろうな」
そう上司からの疑われたことが、さらに僕の背中を押した。未練なく、忍ばせていた退職届を出した。
♢♢♢
薄給でサビ残ばかりだったため貯金は少ないが、せめて会社が見えないところへ引っ越そうとは思っていた。
昔一緒に働いていたパートの奥さんとスーパーで鉢合わせをした。生活圏が同じだから、時々出くわすのだ。ちょうど良かったので、退職の報告をした。
「辞めて良かったと思うわよ。大変そうだったもの。若いんだから、またまだチャンスはあるわよ!」
と、笑顔で言ってくれた。ボーッとした頭で何とか取り繕い、ちょっと泣きそうになったが堪えた。
引っ越したいと話すと「いい大家さんがいる」と奥さんは言った。その大家さんのアパートは、『ともだちハウス』という名前で、契約は大家さんと直接話をして進められるらしい。奥さんから聞いただけではよくわからなかったから、電話をしてみることにした。
正直、アパート名は怪しいと思った。宗教関係だろうか? ただその時の僕は、本当に心がボロボロだったから、優しかったパートさんの紹介ならいい大家さんなんじゃないかと簡単に思ってしまった。パワハラ上司や部下との軋轢で、ほとほと人間不信になっていたのだ。
大家さんのカズミさんに電話をすると、優しそうな声の男性が出た。僕は頭の中がもやもやしていて、その時何を話したのか、どんな言葉をかけられているのか、いまいちわからなかっていなかった。
家賃や立地の希望を聞かれた。何も答えられない。ホームページすら見ずに電話をしていたのだ。仕事ならあり得ないことだ。
「先方の情報を頭に入れていくのが礼儀だろ! 勉強不足な奴に次は無いから!」
と、上司に言われたことを思い出す。そう言われて準備しているうちに時間はなくなっていき、間違えたり知らないことがあってはいけないというプレッシャーから、取引先やお客さんに会うのが怖くなっていった。
「すみません……紹介されてすぐ電話をしたもので、何もわかっていないんです……」
「ああ、そうでしたか。いいですよ。良かったら、近々内見に来ませんか? その時にお話ししましょう」
カズミさんは優しくそう言ってくれた。それだけで僕の目には涙が滲んだ。
♢♢♢
約束した日時に、指定されたアパートに行った。カズミさんはアパートを何軒か持っていて、とりあえず今住んでいる場所から近いところを見ることにした。
駐車場に近づくと、カズミさんらしき男性が手を振って誘導してくれだ。無事に駐車して、挨拶をする。
自分の中で大家さんと言えば、勝手にお年寄りのイメージだったが、男性は若々しかった。
40代後半かせいぜい50歳くらい。体はがっしりしていて、坊主で目が細く、微笑んでいるように見える。
「場所、すぐにわかりましたか?」
「あ、はい……。この辺りはよく来るので……」
自分の笑顔がぎこちないと感じる。仕事なら貼りつけたような営業スマイルができるのだが、プライベートでは逆に本当の笑顔ができなくなっていた。
カズミさんに連れられ、アパートの中に入った。アパートは新築で、こじんまりしつつもキレイだった。
「タバコ吸いますか?」
「いえ、吸いません」
「なら良かった。ここは禁煙にしてるんです。あ、電話で聞けば良かったですね。もしタバコを吸うなら無駄足をさせるところでした」
カズミさんは、うっかりうっかり、と言って笑った。
人がミスすると、こちらもホッとする。相手がデキる人だとこちらも間違えられないと思って、緊張してくるからだ。なんなんだろう、この遠回りな安心感は。自分でもおかしいと思いつつ、そんな考え方をやめられない。
「場所は、このアパート以外だと……」
と言って、カズミさんは地図を見せてくれた。再就職先が決まってないので、ぶっちゃけどこのアパートでも同じだ。でもここなら街なかの職場であれば自転車で行けるし、遠ければ車社会の田舎ならもう車一択になるので、ちょっとした距離の違いは問題がなかった。
こういうとき、色々調べたり比較するのを僕は面倒だと感じてしまう。
「そこがオマエのダメなところなんだよ」
と上司からよく言われた。
「売上足りないんだから経費を削るしかないだろ! 真剣に調べろよ!」
そう怒鳴られて、ネットを調べ、コピペを並べ、何一つ頭に入らないまま上司に報告するのだが、彼はサラッと見ただけで、調べなくてもわかるような理由で決めた。
――会社を辞めたのに、日常のちょっとした場面で会社のことを思い出してしまう。重いため息をついた。ノイローゼなんだろう。
「具合悪いですか? ちょっと寒いですよね」
カズミさんが心配そうに声をかけてくれた。
「あ、すみません……大丈夫です。仕事を辞めたばかりで、疲れが溜まってるんだと思います」
しまった、口が滑った。無職だと家を借りられないかもしれない。
「そうでしたか。仕事って、知らず知らずのうちに無理してしまいますからね。うちに移動しましょうか。家賃のこともそこでお話ししますね」
カズミさんは変わらずほほえみを浮かべたままそう言った。貸さないわけではなさそうだ。まあ、家賃を吊り上げて間接的にお断りされてしまうかもしれないが……。
そう思いながら、すぐ近くにあるカズミさんの家についていった。
♢♢♢
カズミさんが温かいお茶やお菓子を出してくれた。ありがとうございます、と言うが、自分でも驚くくらいテンションが低い。なんというか、もう心が動かなくなっているのだ。
昔の自分は、もっと感謝を込めてありがとうと言えた。いつの間にこんな人間になってしまたんだろう。僕はその事実に悲しくなって、さっき会ったばかりのカズミさんの前で泣いてしまった。
「辛いことがあったんですね」
カズミさんは変わらぬ調子でそう言った。
「すみません……本当に……。久しぶりに人に優しくされた気がして……」
別に会社の全ての人が悪い人だったわけじゃない。ただ、僕は部下であり、上司であり、営業マンであり、従業員であって、それぞれの場面で役に立てば重宝され、そうでなければ非難される。それが当たり前だった。
そんな緊張感がカズミさんには無い。カズミさんが、僕のことを”お客さん”ではない、一人の人間として接してくれているような気がした。どれも大したことじゃないし、カズミさんにとっては通常運転かもしれない。でも、僕にはその温かさが沁みた。
「契約期間はいつからいつまでとかも決めてないんです。気が向いたら住み始めて、出たくなったらいつでも出られますから、あまり固く考えなくていいですよ」
カズミさんは穏やかな口調で言った。
アパートの賃貸契約は大抵二年。それすら相談で決められるなんてすごいと思った。
「良かったら”ともだちハウス倶楽部”に来てみませんか?」
「……なんですか、それ……」
「”ともだちハウス”は建物の名前ではなくて、私の想い……みたいなものなんです。気の合う人たちで、気楽に楽しいことできないかなーって。そういう気持ちの人が、思いつきで主催する集まり、それが”ともだちハウス倶楽部”」
カズミさんはチラシ……というか、ただメモ書きされた予定表を見せてくれた。カズミさんの家の中の、空いている部屋でやるらしい。
味噌作り体験
アロマ作り
DVD鑑賞会
天体観測
どれも楽しそうだった。その中に、ひとつ興味深いものがあった。
小説を書く会
読むんじゃなくて、書く。昔、ブログを書いていたのが楽しかったことを思い出した。
「あの……これに参加したいのですが……」
即決……は、ここ数年の僕にしては珍しいけとだった。頭が働かなくて、考えたり決めることがとても億劫になっていたのだ。逆に言えば、”小説を書く”という文字は、そんな僕を突き動かすくらい魅力的に見えた。
「小説ですか。面白そうですよね。わかりました。SNSやってます? 主催の方を紹介しますよ」
僕はスマホを取り出し、アカウントを開いてカズミさんとトモダチになった。
♢♢♢
予定されていた日時にカズミさんの家の空き部屋に行くと、三人の女性がいた。大体いつもこのメンバーで活動しているらしい。男一人でちょっと気は引けたが、それ以上に小説を書くことへの好奇心が勝った。
部屋には長机に座椅子が置いてあり、お菓子を広げたりお茶を飲みながらぐだぐだしつつ書く……というスタイルらしい。
三人のうちの一人が小説講座に通っていた。その彼女が、何か書きたいものがあるのかと僕に訊いた。……何も、無い。手ぶらで来てしまった。
「自分の考えくらいまとめて来いよ。俺の時間なんだと思ってんの?」
また、上司の声が聞こえた。
「すみません、素人すぎて……何も知らないんです……。こんなんじゃ、何も書けないですよね……」
思わず、鉛のように重い声が出た。
「小説が書けない人なんていませんよ! こちらの二人も、つい二ヶ月前からやり始めたんですから」
彼女は明るく励ましてくれた。
「私も全然書けないと思ってたんですけど、なんとか一作できましたよ。この空間、マジすごいですから」
茶髪の女性が言った。
「私も小説なんてどうやったら……と思ってたんですけど、あっという間にハマってしまって。今じゃ書かないと死ぬ!ってレベルです。まあ悲しいことに、湧き上がる話はみんなBLなんですけどね……」
眼鏡の女性が笑って言った。
みんな始めたばかりだと知って心が軽くなり、色々話をしてみた。小説の作り方、作品の鑑賞ポイント、他の作家さんの活動の様子など、どれも面白い話ばかりであっという間に時間が過ぎていった。
講座に通っている彼女の締切がちょうど終わったところらしく、その打ち上げが近々予定されているから良かったら来てくださいと誘われた。
「打ち上げと言っても雰囲気は変わらずこんな感じで。美味しい料理と酒を呑むただの口実です」
と言って、彼女は笑った。彼女たちのパワフルさに、僕は憑き物を落としてもらった感じがした。
♢♢♢
まもなく、僕はともだちハウスに引っ越した。家賃は半分になった。
小説を書く会にも毎回参加して、少しずつ書けるようになっていった。投稿サイトを勧められてやり始めた。とても感動した。
すごい時代だと思った。こんなに書きたい人と、書ける人がごろごろいるなんて。あのまま働いてばかりいたら、こんな世界があるなんて知らずじまいだっただろう。
サイトでは読んでもらえると嬉しくて、下手なままだが毎日何かは投稿しようとした。そのために、毎日の生活の中でネタを探すようになった。
すると、今までの何でもない、気に留めなかったようなところにも意識が向くようになって、日常が色づいたように感じた。
三か月が過ぎた頃、カズミさんから連絡があった。
「ちょっとこの日空いてるかな? 夜逃げした人の荷物の処分を手伝ってほしいんだ」
カズミさんはそんな時でも変わらずにこやかだった。僕は打診された仕事は大抵引き受けた。
ゴミ屋敷と化した主人なき部屋をカズミさんと片付けていく。片付いていくにつれ、自分の心も整理されていくようだった。
お小遣い程度の謝礼と、それよりも絶対にお高い果物をいただく。お金よりもいいものをいただいたと感じる。
僕は癒されるとともに、何か大切なものを取り戻しているような気がした。
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